第4話 異変

「はーさん! 大変です!」


 事務所に着くなり、香坂が一目散に駆け込んだ。弾みで足にバケツやら何やらを引っ掛けて、けたたましい音を立てる。


「やれやれ、騒々しいねえ。今度は何をやらかしたの、香坂?」


 面倒くさそうに頭を掻きながら、初見が事務所の奥からふらつきながら出てきた。髪には寝癖の後が見える。どうやら、今まで寝ていたようだ。


「所長。阿久津さんの調子が悪いようなんです」


 初見に説明しながら、草間は事務所の中に入って、阿久津をソファーに座らせた。未だ、顔色は良くならない。苦しそうに表情を歪め、額には脂汗が滲み出している。

 初見が阿久津に近付いて様子を見始める。何かぼそぼそと呟いているようだったが、声が小さ過ぎて草間達には全く聞こえなかった。


「ふむ、分かった。大丈夫、後は私が面倒を見よう。二人とも、今日はお疲れ様。もう帰っていいよ」


 阿久津の様子に全く動じる事無く、初見は淡々と告げた。まるで、こうなる事が分かっていたかのようだ。


「はーさん、何か私に出来る事はありませんか? 何でもやりますから!」


「俺も手伝います。何かやらせて下さい」


 このまま何もせずに帰ったら、どうせ落ち着かないに決まっている。ならば、せめて阿久津が良くなった様子を見て、安心して帰った方がいい。

 しかし、初見はそれを許さなかった。


「いいから帰りなさい。あんた達に出来る事は何も無いわよ。それとも、命令として言った方がいい?」


「でも!」


「香坂、よそう。分かりました。今日はこれで上がらせてもらいます」


 きっぱりとした拒絶にも、香坂はなお食い下がろうとするが、草間がそれを止めた。これ以上粘っても、初見を苛立たせるだけで意味は無い。今にも噛み付きそうな目つきで、香坂が草間を睨みつけるが、草間はそれを甘んじて受ける。


「ありがとう、草間。また明日からよろしくね」


「はい。それでは失礼します」


「あーちゃん! 明日は絶対元気な姿を見せてね! 絶対だよ!」


 草間は一礼し、香坂を引き摺るように事務所を後にした。

 事務所を出たはいいものの、香坂が俯いたまま動かない。時折、微かにすする音が聞こえる。多分泣いているのだろう。

 草間は香坂の頭に、ぽんっと手を乗せた。


「今は所長を信じよう。何の根拠も無しに、大丈夫なんて気休めを言う人じゃない」


「……はい」


 二人は歩き出す。自分達の帰路に。しかし、やはり釈然としない思いが、心の中にこびり付いて離れる事は無かった。



「うっかりしてたわ。もう限界だったのね」


 そこは、事務所の奥にある所長室だった。ブラウンの柔らかな光を放つ照明が一つ、天井に備え付けられていて、部屋のシックな様相と相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。部屋の壁際には、たくさんの観葉植物が置かれていて、ほとんど壁紙が見えない。その量は、部屋に飾るにはあまりにも多い。


 入り口近くにある革張りのソファーに、阿久津は寝かされていた。辛そうに目を細め、じっとそばに立つ初見を見つめている。

 初見が阿久津の頬を優しく撫でて囁く。


「阿久津、もう我慢しなくても大丈夫よ。ここには私しかいないから」


「だれにも……めいわくは?」


「かからない。安心して」


 阿久津が安心したように頷いた。気だるげに、ゆっくりと体を起こす。

 すると突然、阿久津の髪が放射状に広がり始めた。髪の色が黒から青、そして透き通った翡翠色に変わっていく。さらに眩い光を放ち始め、薄暗かった部屋が目もあけられないほどの光量に包まれた。


 徐々に、阿久津の顔から苦痛の色が取り除かれていく。真っ白だった頬にうっすらと紅が刺し始め、活力を取り戻していくのが目に見えて分かるようだった。

 やがて髪の輝きがだんだんと失われ、色もゆっくり黒に戻っていく。逆立っていた髪は重力に引かれ始め、あるべき姿に戻ろうとしていた。


 阿久津の変貌がようやく元に戻る。今は完全に元通り。艶やかな黒髪に、血の気の戻った肌。どうやら完全に回復しているようだ。


「これで三日は平気ね」


「はつみ、わたし……」


「大丈夫。私がいるから。私がそばにいる限り、あなたのせいで誰も不幸になったりしない。そう約束したでしょう?」


「うん」


 阿久津が初見にしがみ付き、胸に顔を埋めた。痛いほどに強い力だったが、初見は拒絶せず、自分も阿久津を抱き締めた。二人はそのまましばらく、言葉も発せずにお互いを抱き締めあっていた。

 部屋の片隅から、乾いた音が聞こえた。それは、枯れた観葉植物の葉が床に落ちた音だった。



 気がつくと、辺り一面真っ暗だった。体を動かそうにも、何か硬い物に挟まって動けない。

 動けずにじっとしていると、不快な匂いが臭ってきた。吸い込むと喉の奥が焼けるようで、慌ててなるべく吸い込まないようにした。どこからか、煙が流れ込んできているみたいだった。


(もしかして、どこかに火が?)


 このままでは焼け死んじゃう! 僕は必死に体をよじってそこから抜け出そうとした。何度かやると、ようやく体の周りに隙間が出来た。それでも腕が満足に動かせるほどじゃない。ミミズみたいに体をくねらせて、少しずつ前に進んでいく。

 しばらく進むと、両目に光が突き刺さって目が眩んだ。薄目を開けると、一筋の光が正面から差し込んでいた。


(これで助かる!)


 あの先に行ければ、きっと自由になれる。やっと掴んだ希望を頼りに、疲れた体に無理をさせながら僕は這いずった。

 ようやく光の場所へやってきた。腕が使えないので、頭で小突いてみる。穴の周りはぐらぐらしていて、少し押せば広がりそうだった。必死に力を振り絞り、頭を押し当てて、穴から強引に頭を出そうとしてみる。

 がらがらと音を立てて穴が大きく広がり、頭が穴の外に飛び出した。ようやく僕は外の世界を見る事ができた。でも、その光景に僕は絶望する。


「なに、これ……」


 辺り一面、瓦礫と人の転がった、僕のぜんぜん知らない世界。倒れている人は誰も動かない。みんな、どこからかたくさんの血を流して、地面を汚く染めていた。

 生臭い匂いに、胃からこみ上げてくるのを抑え切れず、僕はその場で吐いてしまう。でも、どれだけ吐き出しても、吐き気は全然治まらない。


「ぐええぇぇ……。はあ、はあ。何で、一体何が起きたんだよ。父さん! 母さん!」


 そうだ。僕達はイギリスのロンドンへ家族旅行に来たんだ。確かビックベンを見てた時に、空が歪んで……。そこから先を全く覚えてない。みんながどうなったかも、全く思い出せない!


 ぱらぱらと、周りの瓦礫が崩れ始めた。気が付けば、微かに地面が揺れている。ズシン、ズシンと規則的に。これは地震じゃない。何か、そう足音のような。

 僕は必死に身をよじると、すぐに両肩が瓦礫から抜け出した。そこから強引に腕を引き出すと、腕を使って穴から抜け出し、ようやく僕は自由の身になった。


 上を向いて始めて気付いた。空が真っ暗だ。ぽっかりと開いた大きな黒い穴。右巻きに渦を巻いて、眺めていると吸い込まれてしまいそう。


 さっきの足音が近付いてくる。見たらきっと後悔する。そう思いながらも、僕は恐怖とほんの少しの好奇心に負けて、顔を向けてしまった。

 高層ビルのようにそびえ立つ真っ白の体。二足歩行のどことなく人に近い形に、巨大な両手の鎌。額についた三つの目が僕の目と合い、にたりと笑う。



「……!」


 深夜午前二時一二分。草間は声にならない叫び声を上げて、ベッドから跳ね起きた。


 草間は胸を鷲掴みする。はちきれんばかりに心臓は鼓動し、少しも治まる様子が無い。全身からは止め処なく汗が流れ落ち、肌着とベッドのシーツをぐっしょりと濡らしていた。

 草間は荒い息を立てながら、一目散にバスルームへ向かった。そしてシャワーをひったくると、蛇口をひねって頭から水をかぶる。

 春が近付き暖かくなってきたとはいえ、水は凍えるように冷たいはず。しかし、草間は少しも冷たいとは感じなかった。


(もうずっと見ていなかったのに。何で今更!)


 忘れたくても忘れられない、脳の奥深くにこびり付いた忌まわしい記憶。恐怖と怒りが血液に乗って体中を駆け巡り、破壊衝動となって草間の体を突き動かそうとする。

 だが、草間は必死に耐えた。歯を折れんばかりに食い縛り、両手で髪の毛を引き絞り、感情が治まるのを、ただ耐える。じっと、耐える。

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