第4話 ベルドとの出会い

 その場面に出くわしたのはまったくの偶然であった。

 幼いころにありがちな幸せな昼寝タイムに移行していたラドゥを残して、俺は宮殿内を考え事をしながら散策していた。

 歩きながらのほうが脳の活動が活発になると昔、高校時代に聞いて以来の俺の癖だった。

 もっとも、人間は実は脳を10%しか使っていないとかいう、根拠のない都市伝説の類なのかもしれないけれど。

 絶望的な状況ではあるが、考える時間だけは腐るほどあるのが救いだった。



「我らが神の尖兵に逆らう愚か者よ!報いを受けよ!」

 荒々しい兵士の声に敢然と逆らう声は迷いがなく潔いものだった。

「やりたければやるがいい。そんなことでワラキアの誇りは揺るぎはせぬ」

 ………どうやら馬鹿親父のせいで、国境沿いからワラキアの騎士が囚われてきているらしい。

 若き囚われの騎士を嬲っているのはオプタとかいうイェニチェリ軍団の百人長だった気がするが………確か金に意地汚いことで有名であったはずだ。

 せめてはいつくばって慈悲を乞えば自尊心を満足させられたのだろうが、一向に萎えることを知らない凛とした騎士の佇まいにいらだちが募っている様子が俺の目にもよくわかった。

「異教徒め!自らの非を悔いひざまづいて許しを乞うのなら息子の命だけは助けてやらんこともないのだぞ?」

「騎士の忠誠は家族よりも崇高なものだ。そんなことすらわからんか」

 一言の下に息子の命をも斬って捨てた騎士の姿に、オプタはおもしろくもなさそうに鼻白んで見せた。

「まったく薄情な父親じゃないか? ええっ?」

 オプタの傍らに座らされているのは精々十二歳ほどの綺麗な少年だった。

 赤みがかった収まりの悪い金髪に鳶色の瞳のかしこそうな少年で、ラドゥほどではないが美少年と言えるだろう。

 目に涙をためつつも、必死にオプタを睨みつける迫力はさすがに親子というべきかもしれなかった。

 この先の親子が辿る運命を思って俺は暗澹たる思いに捕らわれる。

 ―――――この時代の命は軽い。

 それは知識ばかりでなく、すでに実地の体験として身に浸みて理解させられていた。

 ラドゥは幼いということで同行させられなかったが、俺はこれまで何度も処刑の現場の見学を強制されている。

 オスマン帝国に逆らうとどういうことになるか、属国の子女に心底理解させるためだ。

 およそ数十人の人間が斬刑や火刑に処せられるのを見て、さすがに数度に渡って嘔吐したが、それでも現場を離れることは許されなかった。

 上に立つ人間として人の生死に責任を持たせる教育の側面もあるのだろうが、現代では幼児虐待としか言いようがないぞ。


 ――――そのときほんの偶然、少年と俺の目と目があった。

 決して少年は俺に対し助けてくれと言ったわけではないが、それでも無念の思いだけはその目を見れば理解するには十分だった。

 おそらくくそ親父がオスマンと事を構えるまでは、小さな領地ながら家族と平和に暮らしていたのだろう。

 よい親子関係であったことは一目でわかる。

 それが突如大国オスマンと戦うとなれば、寄る辺のない国境沿いの小領主などは真っ先に蹂躙される対象となるのだ。

 彼らがいかに奮戦しようと、彼らがどれだけ善良な民であろうと、そんなことに関係なく破滅は訪れ、それを救う力は親父にはない。

 なんという理不尽か。

 しかしその理不尽がまかり通ってしまうのが、この十五世紀という時代であった。

 臍の奥で埋み火にようにくすぶり続けてきたヴラドの残滓が、再び急速に熱を帯びていくのを俺は自覚した。


力が欲しい

チカラが欲しい

理不尽に負けないだけの力が

他人に人生を左右されないだけの力が

運命に立ち向かうだけの力が

神は決してそれを人間に与えてはくれないけれど


―――――――ああ、そうだなヴラド。どれだけ祈ろうと神が地を這う者どもを救うことはない。

 神はその信者の願いを叶えるための存在ではなく、理不尽から目を背けるための装置にすぎないのだから。

 たとえ何十万の人々の祈りも何十万の人々の死も、決して神を動かす理由にはなりえない。

 この世界を動かすために必要な力は、畢竟人間の力にほかならないのだから。


「オプタ様、お取り込みのところ失礼をいたします」


 そういって俺は一歩目を踏み出した。

 ならば始めよう。

 この一歩を踏み出さないかぎり、俺が歴史を変えられるはずもないのだ。

 人質として宮廷に保護されているワラキア公国の公子の登場に、オプタは新たな獲物が現れたと密かにほくそえんだ。

 いささかサディスティックな性癖のある彼にとって、騎士とその息子は虐め甲斐のある獲物ではなかった。

「ほう、これはこれは公子殿。お国の騎士の処刑に立ち会いたいとは見上げた忠誠心ですな」

「まあ父の愚行にはお詫び申し上げるしか術がございませんが……今日お声をかけさせていただいたのは別の件でございます」

 なんとか俺の言葉尻を捕えていたぶりたい、という表情が見え見えのオプタに内心辟易しつつ俺は丁重に頭をさげた。

「公子殿が私のような一介の戦士になんの御用で?」

「実はメムノン先生から従騎士によさそうな少年がいたようだとお話をいただきまして、おそらくその少年ではないかと思うのですが」

「―――――メムノン殿の」

 思わぬ重鎮の名を聞き、舌うちしたい思いをこらえてオプタは少年を見た。

 なるほどワラキア公子に従騎士として伴をさせるには、この少年は格好の人材かもしれない。

 スルタンとも親交のある医師にして科学者、哲学者でもあるメムノンを敵に回すのは彼としても得策ではないのは明らかだった。

 この時代の医師は単純に医者というよりは、むしろ賢者として為政者のブレーンである場合がよくある。

 メムノンも宮廷ではそれなりに顔のきく重要人物であるのだ。

 そうとなればあまり無理もできない、とオプタは素早く計算をめぐらせた。

 忌々しいがここは父親だけで満足しておくしかなさそうだった。

「ならば構いはしませぬが……公子に仕えるということはこのオスマンに仕えるということ。そのことをわきまえてもらわなくては困りますぞ?」

「肝に命じて――――――我が責任においてこの者を教育いたしましょう」

 言質をとって満足したのか、オプタは再び騎士に向かっていやらしげな笑みを浮かべた。

「貴様も主君のご子息に看取られるなら本望であろう? さあ公子殿ごろうじろ?これが我がオスマンに逆らうものの末路にござる!」

 どうあっても俺と息子の見ている前で処刑しなくては気が済まぬらしい。

 丸太のように太い腕が振りかぶられ、陽光に反射して円月刀が眩い閃光を放った。

 ほんのわずかに騎士が俺に向かって頭を下げた気がした。

 それも俺が罪悪感から生みだした幻想であったかもしれないが、子を持つ親としての最後の真心を受け取った気がして俺は痛いほどに唇を噛みしめた。


―――――まだだ。まだ俺には力が足りない。

 ゴトリと無造作に騎士の頭が地に落ちて主をなくした首から真っ赤な鮮血が噴き上がった。


我が民が

忠実なる部下が

最後まで神を信じた敬虔な信徒が――――――。

ああ、神よ!

弱きものにこそ救いが必要なのではなかったか?

信仰の厚いものにこそ福音は与えられるべきではなかったか?

この理不尽を前にして、お前はどの面を下げて神を名乗っていられるのか?


 真っ黒い狂熱が腹の中で暴れ狂うかのようだ。

 もの言わぬ骸と化した騎士に向かって、俺は頭を垂れる自由すら与えられていない。

―――――我慢しろ、かつてブラドであったものよ。

 俺もこのままで終わらせるつもりは毛頭ないのだから!

「顔色が悪いですぞ? 公子!」

 ニヤニヤと俺の顔色を窺うオプタに俺はともすれば殴りかかりたい衝動を抑えつけるの必死であった。

 脳が沸騰して、灼けそうな感覚にひきつった笑みを浮かべることにすら多大な意思力を必要とした。

「面目ないですが、どうやら暑気にあたったようで」

 弱者には何も主張する権利などない。

 現代日本ならばいざ知らず、ここは暴力と狂信の支配する十五世紀の修羅場いほかならないのだ。

 ならばどうする?

 よろしい、今度はこちらが強者として蹂躙してやるまでのこと。

 爪が食い込むほどに固く少年の肩を握りしめて自制を促すとともに、震える声で俺は少年に問いかけた。

「私はヴラド・ドラクリヤ……ワラキア公国第二公位継承者である……君の名を聞こうか?」

 目と目があった瞬間に俺の意を察したのか、少年は先ほどから全身にみなぎらせていた敵意を解いた。


 それでも瞳に宿る激甚の恨みまでは消せない。

 ただ、戦うべき時は今ではないのだ、と、少年なりに折り合いをつけるまでに数瞬の時間が必要であった。

「………私の名はベルド・アリギエーリでございます。公子殿下」

「ついてこい、今日から俺がお前の主人だ」

「………………はい」

 わずかな逡巡の後、ベルドは力強く頷いた。

 名誉を重んずる騎士や貴族にとって、オスマンの庇護下で生きることは死ぬことよりずっと難しい。

 この宮廷でオレとともに生きていくということは、父の仇にひれ伏し慈悲を乞うて生きることに他ならないのだ。

 いっそオプタに斬りかかって斬殺されるほうが、ベルドにとってよほど楽な生き方であったろう。

 しかしベルドはオプタたちに対する復讐を諦めていなかったし、ヴラドが決して安易な諦念を受け入れようとはしていないことを理解していた。

 そう理解した以上、今は生き続けることがベルドにとっての責務だった。

「今日は公子様はよい経験をなされた。これを機によりスルタン様に対する忠誠をお尽くしあるよう」

「…………ご忠言、かたじけなく」

 ベルドの目から屈辱で涙が溢れそうになるのを俺は目で制する。

 オスマン朝に仕えるものにとって今の俺たちは体のいい見世物であった。

 言葉にこそ出さないが、異教徒め、泣け、わめけ、のたうちまわって絶望しろ、と兵士たちは明白な悪意をもって嘲笑していた。

 悪いが俺はそんな下種な期待にこたえる気は毛頭ない。

―――――今はまだ駄目だ。

 だからそんな苦しそうに覇を喰い縛らないでくれ。

 いつかきっとこの借りを返す。

 この身はすでにヴラド・ドラクリヤそのものなのだから。

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