天井の本の虫③

 そして、僕が腑抜けるのを見計らったみたいに、透先輩が


「終わったのか?」


 と声を上げた。

 見下ろすと、目を閉じている。気配を探るのがべらぼうにうまい。物音を情報源にしていれば分かる、と気がついたのは後になってのことだ。

 それよりも、終了を尋ねられたことで湧いた終わりの実感のほうが数倍も大きかった。それは安堵だったのか。達成感だったのか。とにかく、心が解放されるものであった。


「はい」


 噛み締めるように頷くと、透先輩がぐっと上半身を持ち上げてくる。腹筋だけで起き上がってくる身体能力は透先輩らしい。抜け目なく完璧だった。


「じゃ、栞ちゃんに見せに行くか」

「は? ……はぁ!?」


 一度でも十分に驚きだったが、噛み下してもう一度悲鳴が零れる。そんな僕などお構いなしに、透先輩はそうしようとばかりに立ち上がっていた。


「いや、ちょっと待ってくださいよ。まだ読み直したいですし」

「ぐだぐだしてたら、また直したいとか直らないとか、そういうので引っ込んじゃうだろ。蒼汰くんは」

「……」


 そこまでヘタレなつもりはない、はずだ。

 確かに、人に見せることに躊躇いを持っている。他人に評価されるのは怖い。だが、見せる相手は不特定多数ではなく、栞である。僕に不足があるとしたって、罵倒や手ひどい批判を浴びせてくるわけもない。その確証はあった。

 もちろん、だからといって緊張がないとは言えないけれど。そんなに派手な尻込みをしでかすつもりはなかった。だが、自信が持てない。そのわずかな不安に口を噤んだことを透先輩に掬われる。


「こういうのは出たとこ勝負。別に何かに投稿するわけでもないし、直すためのアドバイスにしたっていい。栞ちゃんなら、的確だろ? それを蒼汰が受け入れるかどうかは、お前の判断でいいだろうし、栞ちゃんはそういうことに寛容だろう。読むことは大好きだろうしな」


 どれもこれも、栞のこととして間違った分析はない。僕だって同意だ。

 でも、だからって、とパソコン画面へ視線を移す。縦書きの文字列が迫ってくるような気がした。今すぐ、と思うと途端に日和見主義が膨らんでくる。

 やはり、透先輩の言うような未来が待ち受けているのかもしれない。そう思うと、透先輩の言う通りにすべきなのかもしれないと感情が動かされてきた。

 でも。


「プリントアウトするにも時間がかか」

「そのまま持っていけばいいだろ。ノートパソコンなんだから。栞ちゃんを呼んだっていいんじゃないか」

「それは無理」


 空き室で同居生活のようなことをしていたのと、自分だけの部屋に栞を呼び込むのでは雲泥の差だ。

 言下な僕に、透先輩はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。真っ当な激励を送って背を押してくれていた姿は欠片もない。この落差には呆れるしかなかった。


「じゃあ、パソコン持って居間な」

「……栞がいるとは限らないでしょ」

「栞ちゃんならこの時間は、居間で読書だろ」

「自室かもしれない」

「呼ぶくらいはできるだろ。ほら、ぐだぐだ言わない」

「……分かりましたよ」


 透先輩は引く気がなさそうだ。強引ではあるが、僕を貶めようとしているわけではない。逃げたところで、どうせ見られることに変わりはなかった。

 何より、僕だって栞に見せたい気持ちはある。透先輩の行動力を全力で撥ね除ける気概はなかった。

 透先輩は僕の了承に満足げに頷いて、部屋を出て行く。僕は熱くなったノートパソコンを抱えて、透先輩の後を追った。そうして居間に辿り着けば、栞は案の定壁に背を預けたままに読書をしている。普遍的な風景だ。平和そのもの。

 しかし、今の僕には処刑台へ押し上げられたかのような気持ちをもたらす。いなければよかったのに、なんて栞に思う日がくるとは思っていなかった。

 そして、自分のヘタレっぷりが露わになる。透先輩の予測は間違っていないのだろう。


「栞ちゃん」


 透先輩が声をかけても、栞は顔を上げない。これもいつも通りだ。透先輩はいつもならあっけなく諦めるし、話しかけようともしない。しかし、今の透先輩は引いたりはしなかった。妙なこだわりがあるらしい。

 再度名を呼びながら、本と顔の間に手を翳す。僕がよくやっているよりは遠慮があったが、それで栞は顔を上げてくれた。もちろん、むすっとするのは忘れない。だが、透先輩の顔を視認すると、栞は怪訝な顔になった。


「山下先輩?」


 何故? とばかりに首を傾げているが、同じ荘にいるのだから、そこまで疑念を抱かずともいいだろうに。

 僕はそう思ったが、透先輩は栞の疑問の原因が分かっていたようだ。


「蒼汰じゃなくて悪かったな」

「……そんなこと思ってないですよ。いつも蒼くんだったから、ビックリしただけです」


 確かに、栞の邪魔をするのは僕しかいない。止めなきゃならない事態に巻き込まれる率が高いだけではあるが。

 だから、その誤解はそうした事実に基づいたものだ。特別な意味もないが、透先輩には面白い事実であるようだった。こんなふうに何かにこだわっているときでも、したり顔を消すことはしないようだ。要らぬ余裕であった。


「そんな蒼くんからのお知らせだってよ」


 本から意識を剥がすために近づいていた透先輩が身体を端へ避ける。透先輩の物陰に隠れることになっていた僕の姿を栞が目視した。ぱちくりと目を瞬く姿からは、透先輩のからかいへの不満さがすぐに隠れる。

 そして、僕の荷物に焦点を合わせてから瞠目した。その瞳が黒々と輝く。


「できたの?」


 顔を上げていただけで、本は開かれたままだった。その本が閉じられて、僕のほうへと前傾姿勢になる。

 待っていると。応援してくれていると。栞はそう言ってくれていたし、本心でないと疑っていたわけではない。だが、こうして前のめりになられると心臓が跳ねる。僕は薄らと首を縦に振ることしかできなかった。

 栞はじりじりと膝で移動してくる。僕はテーブルの上にノートパソコンを置いた。


「……読んでいいの?」

「うん」

「時間、それなりにかかるよ?」

「いいよ。待ってる」


 他のことなど手につきそうにもない。

 栞はこくんと頷いてから、パソコンに向き直った。見やすいように画面を調節して、じっと目をこらす。栞の意識が少しずつ少しずつ、小説の中に潜っていくのがよく分かった。

 自分の小説が栞の集中を引き止めておけるのか。その疑惑が拭えなくて、様子を見続けてしまった。凝視こそしないように心がけたが、どうしてたって意識を向けてしまう。

 いつも通りと言えばその通りなのだけれど。けれど、今はまったく別の緊張感があった。宣託を受けるかのようなものだ。

 栞の感想がすべてではない。それは理解しているが、なかば栞に見てもらうために書いたようなものだった。少なくとも、ちゃんと読者として意識して書いていたのだ。緊張するのもやむを得ない。

 手のひらに汗が滲む。それを太腿のズボンで拭って、気を落ち着けていた。栞が集中を持続させて読んでくれていても、緊張が和らぐわけではない。自ら読むとやってきたのだから、義務感で読んでいることもあり得る。そうしたところまで思考が飛べば、ちっとも油断ならなかった。

 時間は遅々として進まない。十分も経たぬうちに、


「じゃ、俺は戻るからな」


 と透先輩は後腐れなく去って行った。

 引き止めようという隙すらない。それに、戻るということは仕事をするということだろう。遅れた一拍のせいで、そのことを思い出して引き止めることはできなかった。

 そうして、残された僕はじっと栞の読書を見守ることになる。それは栞が顔を上げるまで止められることではなかった。

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