第五章

天井の本の虫①

 そんな引っ込み方をすれば、当然禍根は残る。

 禍根というほど大仰なものではないかもしれないが、しかし、ぎくしゃくした状態であることは間違いなかった。

 栞は僕の様子がおかしいことに遠慮してか。それとも、不快感を覚えてか。触らぬ神に祟りなし、とばかりに読書に夢中の生活を送っている。

 今までなら、多少は取り付く島もあったが、今はその隙間がなくなった。以前もそれが本当にあったかどうかは定かではない。ただ、同じ部屋に詰め込まれた勢いのまま、僕が遠慮をなくしていただけなのかもしれない。特異な環境でいたものだから、事件よりも前の生活に戻ったといえば、そう変わりがないのかもしれなかった。

 ぎくしゃくと感じているのも、こっちの一方的な感じ方であるのかもしれない。そうして距離を感じて尻込みしているものだから、距離は勝手に離れていく。

 僕が悪いのかもしれないが、行き詰まりを解消できないことには動く気にはならなかった。僕の問題でしかない。

 原稿の問題を解決してしまおう、というのは逃げでしかないのだろう。けれど、自分の中で折り合いがつかない限り、気まずくなった話題に軽い気持ちで触れられる気がしなかったのだ。

 そうして、僕は自分の創作に心血を注ぐことにした。ひとつのことから逃げるための手段になってしまっているのは、褒められたことではないだろう。

 僕自身、不誠実な気がして気が滅入った。だが、書きたいという感情があるのも嘘ではない。その気持ちを慎重に取り出して、僕は突き進むことにした。

 透先輩のアドバイスを思い出しながら、やる気や根性という力技で押し切る。順調とは言えないが、ひとまずの行く先は見えてきた。ひとつの躓きを越えると弾みがつく。そうして、刻々と進んでいた。

 万全とは言えない。書きながら既に直したい欲求が芽生えてはいる。それでも、ひとまずの終着駅に辿り着きたかった。

 第一稿から完璧なものができるわけじゃない。推敲するのはいつものことだ。だから、決して出来が落ちているわけではない。中学時代の自分に実力で負けているわけではない。そう言い聞かせながら、地道に積み上げていった。




「蒼くん」


 距離は離れかけている。だが、栞は律儀に一緒に登下校するのを守っていた。

 あれ以来、品田がやってきたことはない。それでも、千佳先輩は僕らに警戒態勢を解けとは言わなかったし、栞も守り続けている。

 女子二人が男の態度を警戒し続けているのだから、僕が一抜けするわけにもいかなかった。栞を危険な目に遭わせたくもない。

 そして、栞は僕の教室へ僕を呼びに来ることも多かった。一組はホームルームが終わるのが早くて羨ましい。僕はすぐに席を立って栞と並び立つ。クラスメイトからは、彼女だと誤解されているらしい。具体的にからかわれたりしたことはないが、視線や態度は分かりやすかった。

 だが、直接確認でもされなければ否定することも難しい。僕は視線に取り合ったりはしていなかった。栞がどう考えているのか分からないし、聞く勇気もない。その辺りも弱腰で、曖昧なままになっている。

 僕と栞の間にある見えない膜が薄らと濃くなっているような気がした。衝立よりも薄い。けれど、決定的であるようなもののような気がして、衝立よりもずっと遠く離れている感覚があった。


「今日は図書館行くか?」

「うん」


 声をかければ返事はすぐに戻ってくる。だから、この感覚は俺だけのものなのかもしれない。だが、栞が本について即応するのは、相手が誰であってもそう変わらないような気もする。

 相槌を打ったら、栞は淡々と図書館への道を辿っていく。本を取り出してしまうのも、もはや癖だ。改める気もなくなったようだった。

 ただ、これは僕の隣にいるときだけだという。透先輩の入れ知恵だ。それを聞いてしまえば、余計に邪魔できない。自身のチョロさは自身が一番よく分かっていた。許容してはならないであろうことも。

 実質、僕がどんなに見ていたって、危ないことに変わりはないのだ。フラフラすることだって、足取りが極端に遅くなることだって、他人の通行を邪魔になることだって。ひとつだって改善されるわけではない。ただ単に僕が見ていて、取り返しがつかないように気を配っているだけに過ぎなかった。

 危ない瞬間ってのは、今までにだって十分あったのだ。僕はその腕を引いて、緩やかに栞を誘導して危機を免れていた。そして、今日もまた、栞は危うい。

 ほんの少し気を抜いた瞬間に、栞の身体がぐらっと揺れた。心臓が冷える。ぱっと手が出たのは無意識で、儲けものでしかなかった。咄嗟に握りしめた腕を力強く引き寄せて、腕の中に抱き込む。

 栞はただ、歩道の小さな段差に蹴躓いただけだ。恐らく、自分でバランスを取り戻すこともできただろう。けれど、僕にはその揺らぎが大きく映って、とにかく助けなければということだけで頭がいっぱいになった。

 それは、天井から栞が落っこちてきたときと同じような切迫感だったかもしれない。あの事件は、おおごととして記憶に残っていた。だが、危機感として身につまされているとは気がついていなかった。

 あれ以来、ここまで派手に転びかけたところは見ていない。落下と転倒には差があるだろうが、怪我を負う事故という点で大差はない。

 あのとき、自分の上へ落ちてきた栞の影がチラつく。今かろうじて受け止められたことがその姿とダブって、深いため息が零れ落ちた。


「蒼くん? 大丈夫?」


 ぎゅっと抱き込んだ腕の中から、栞がこちらを見上げて表情を曇らせる。

 どうして栞のほうが僕を心配することになるのか。人の心配をしている場合なのか。ふつふつと感情が煮立ったのは、ここのところの余裕のなさもあったかもしれない。


「僕じゃなくて、栞のほうだろ? 怪我はしてないか?」


 掴まえられたのだから大丈夫のはずだと脳はジャッジを下していたが、だからって聞かないわけにはいかない。

 万が一があったら困る。何故か、なんてことは考えなかった。そんなことは、ごく自然で当たり前のことだ。他の誰であっても怪我して欲しいとは思わない。心配する。そういうものだろう。

 相手か栞に限定された心の運びではなかったが、その重量は違っていたかもしれない。


「平気だよ。蒼くんこそ、大丈夫なの?」

「なんで……?」


 一度ならず二度までも尋ねられる理由が分からない。僕はどこからどう見たって無事で、助けた側の人間であるというのに。


「……痛いよ。顔色も悪い」


 握りしめていた腕の上に手を重ねられて、自分の指先にこめられた力の強さをようやく自覚した。力を抜いて息を吐く。酸素が足りていないような気がした。


「……悪い。跡が」


 手を離すと、栞の細腕に自分の指の跡がくっきり残る。離してすぐだからと言えばそれまでだが、助けたつもりで怪我を残したと思うとぞっとした。

 離した自分の手を握りしめる拳に、また力が入る。それを見計らったみたいに栞の細指が拳を握り込んできた。片手では足りないからか。両手に握り込まれて、僕は硬直してしまった。

 腕は放したが、抱き込んだ距離は解消されていない。栞との距離は、あの日乗り上げられたときとそう変わらなかった。接着面に差があるくらいのものだ。その差は僕にとって大きいけれど、小さくなったからって動揺が収まるわけでもないので、結局は同じことだった。


「大丈夫だから、落ち着いて。心配かけてごめんね?」


 そっと注ぎ込まれるように言われて、自分の狼狽っぷりを思い知らされる。

 確かに、栞は怪我の危機だった。だが、天井からの落下と重ね合わせるのは、明らかに過剰反応だ。それが自然に重なっていたことに、今になって気がつく。自分の中で齟齬がなく、別物として扱うことが難しくなっていた。

 僕はふーっと長く息を吐き出す。どうしてこんなにも、と腕の中で僕を心配している栞を見下ろした。

 意識し過ぎていたのだろう。直接には小説のことで、栞のことではない。才能の話であって、栞自身のことではない。けれど、それはどれもこれも栞と結びついている。

 切り離すことができないわけではなかった。一葉に過ぎないと。だが、それでも一葉は一葉だ。僕にはたったの一枚だと切り捨てることはできなかった。

 そうして拾って集めてしまえば、枚数は多い。さまざまなことが栞に結びついているのだから、数が多ければ存在感も増す。どこにも逃げられない。小説に邁進しているはずでいたって、栞の姿を意識の外に置くことはできていなかった。

 そして、それは自覚して遠ざけようとすればするほど、とても離れてはいかない。だから、こんな些末なことで一気に何もかもが見えなくなる。……僕には、ちっとも些末じゃないのだ。


「僕こそ、過剰に反応して悪かったよ。本当に大丈夫か?」


 栞の腕の跡は、まだ生々しく温度を残している。

 自由なほうの手でそこに触れても、消えたりはしない。自分の力みを思い知らされて、冷水をぶっかけられたような気持ちになる。冷静さが戻ってきたのはいいが、ひんやりと体温が低くなっていくような気がした。


「大丈夫だよ。蒼くんのほうがひどい顔してるよ。私、そんなに危なかった?」

「……あぶないのは、あぶないだろ」


 答えられたのは、それだけだ。過剰過ぎた自覚がある。それでも、栞に落ち度があるのは間違いないのだけれど。


「……心配ばっかりかけて、ごめんね。蒼くん」

「ううん」

「落ち着いた?」

「うん」

「最近、ずっと浮かない顔してる。私、何かした?」


 栞は気まずさを感じてはいなかったのだろう。あくまでも会話がたち消えた、というだけに過ぎない。僕だけが意識していることを、栞のせいにするつもりは毛頭なかった。


「栞は何もしてないよ」

「……本当に?」


 この数ヶ月で僕が栞のことを分かるようになった分、栞だって僕のことを分かるようになっているのだろう。じっくりと見上げてくる瞳は、疑いの色が強い。どうしたって苦々しくて半端な笑いになってしまった。

 そして、栞はそんな分かりやすいアクションを見逃してくれるほど感度が低くはない。感受性は高いだろう。

 読書しながら泣いているのをしょっちゅう見かけた。泣かないにしろ、頬を持ち上げていたり眉を下げたり、表情を動かしていることがよくある。他人にするより多いくらいだ。そもそも、色の共感覚も感受性の発露だろう。


「……ちょっと、行き詰まってるだけだよ」


 地味に進めてはいるけれど、才能の有無について語ったことが引っかかっていた。だから、行き詰まっているという表現で間違ってはいない。的確であるかどうか詰め寄られてしまったら、逃げ道はないだろうが。


「小説? やっぱり大変なの?」

「まぁ、大変だけど……ちょっとだよ」


 他に答えようもない。確かに大変だ。だが、そんなものは折り込み済みで、今更取り立てて騒ぐつもりはなかった。それに、大変だけど楽しいというのが本音だ。創作ってのは一部を通り過ぎるとそんなところが出てくるような気がする。

 透先輩だって、時間的には大変ではあるだろう。そんな姿を見せることは一ミリたりともないけれど。


「そういうもの……? 私は書けないから、余計なことは言えないね」


 ここで下手に励ましの言葉を口にしないのは、栞の思いやりだろう。

 僕自身、そんなものは求めていない。ドライとは思わなかったし、むしろ心地の良い温度だと言えた。

 だから、話題を僕から逸らそうとする。それが、間違った飛び込みだったと気がついたのは、ずっと後になってからのことだった。覆水は盆に返らない、と気がつくことも。


「書けないってことはないんじゃないか」

「そうかな? うーん。書こうとしてないから、分からないけど……でも、書ける気はあまりしないかな。読書感想文もうまくはないし」

「そうなの? 感想言うのうまいと思うけど」

「それは蒼くんたちが色のことを茶化さないし、すぐ納得するからだよ」


 腹に一物あるような言い方をしていたのは覚えている。色について含めて感想を書いて、苦い思いをしたのかもしれない。


「口にしてるのを聞くのと文だけで見るんじゃ話が違うからな。僕らは補足を聞けるからね」

「そのうえ、山下先輩は喜んでくれるし、荘で話すのは好きだよ。でも、文章を書くというのはまた違うものだと思う」

「肩肘張ることはないよ」


 栞の中で、読書感想文での失敗はトラウマレベルのものなのかもしれない。きっかりとした線引きがあるようだった。


「うん。でも、私は読むほうでいいかな。蒼くんの小説を楽しみにしてるよ……あ、プレッシャーをかけようって言うわけじゃないからね。マイペースに書いて。書くだけですごいもん」


 栞のそれに嫌味はない。

 かつて、悪口を書かれたときには、書けるのはすごいですね、と馬鹿にされたこともある。その差は歴然としていて、あんな悪口に振り回されていた自分のみみっちさには渋い。あんなもの、と思えたことに、胸のうちがすっとした。

 栞の言葉であっさり納得するのは、実にチョロい。すごいと言われることと、才能を肯定されたことは似たり寄ったりだろう。だが、今となっては、そこに変な引っかかりが生まれることはなかった。

 僕は本当にチョロい。あのときと今との差なんてないというのに。どうしようもない。勝手にじたばたして、勝手に落ち着いている。

 栞にしてみれば、知ったことではないはずだ。僕だって、そんな暴露をするつもりはない。身勝手な修羅場には失笑しかなかった。そして、小規模な修羅場だ。盛り上がりに欠けるのは、現実の自分の精神性であるのかもしれない。


「……ありがとう」

「ううん。私は蒼くんを応援しているからね」


 からっと笑う。その笑顔はいつも見せてくれているものだ。特別でないことは重々承知している。だが、至近距離で見せられる笑顔の破壊力というのは、認識しているよりもずっと大きい。


「ありがとう。頑張るよ」


 他にいいようもなかった。再度のお礼に、栞はニコニコと笑っている。距離感ってのは大事だな、と改めて思い知らされた。僕はそっと離れて、息を整える。


「でも、歩き読みは気をつけろよ」

「……うん」


 目を逸らして頷くそれを、誰が信じられるというのか。苦言を繰り返しながら、僕らは図書館へ寄り道して帰った。

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