漫画のプロ!③
僕と栞の同室生活は、すぐに日常に溶け込んだ。もちろん、心底落ち着いたかと言われるとそうではない。だが、存外ナチュラルな生活を送れていた。一週間もすれば慣れるものらしい。
それは、栞が読書に没頭しているというのが一番大きい気がする。翌日にはシーツよりもまともな衝立が立ったので、初日のような緊張感も薄れた。それも手伝って、僕と栞の生活は坦々と過ぎている。
変わったことといえば、読書談義をする時間が挟まるようになったくらいだ。それは非常に楽しい変化で、僕の日常は充実した。そうした充足感に浸っていると、別の欲求も出てくる。
僕のそれは、小説を書きたいというものだった。
触れないようにしていたものだ。もう触れようという気持ちになることもないかもしれないと思っていたくらいだった。その欲求がにわかに復活してきたことは、自分でも意外な心地になる。
そして、その欲は燻るだけに留まらず、書きためていたことのあるメモノートを取り出してくるほどには積極的だった。ぱらぱらと捲る中には、いくつか興味の引く単語が眠っている。そういえばこういうものを考えていたな、と記憶の引き出しを開いていった。
書いてみるか、という欲求もすぐさま沸き立つ。
こうなっているきっかけは、栞だ。雑談の間に、書かないの? とさりげなく零されたことがある。栞にはたいした意味もなければ、僕を焚きつけようなんて意味もなかったはずだ。
だが、読んでみたかった、と言葉が足されてしまえば、僕の天秤は簡単に傾いてしまった。自分の単純さには呆れる。
けれど、僕だって書きたい気持ちはずっと持ち続けていた。それが膨張しただけに過ぎない。栞を理由にしたくがないために、別の言い訳を組み立てているかのようだった。だが、それも事実だ。
そして、僕は自力であることを補強するかのように、本当に腕を動かすことにした。取り出したノートを数冊持って移動し、居間のテーブルに広げる。
自室では、栞とテーブルを共有している。ただでさえ広くない部屋に置かれた小ぶりなテーブルを二人で分け合っているものだから、スペースは狭い。どちらかが何かをするときには居間に移動するのが常になっている。今日もそのノリで居間に移動した。
ノートを広げて、いくつかのアイデアをピックアップしていく。中二以来の作業だ。予想外に、やり方は身体が覚えているものらしい。さくさくとは行かなかったが、始めれば作業は緩やかに進んでいった。
そうしていれば、徐々に熱中していくものだ。僕は周囲の状況を気にしなくなっていた。そうして、どれくらいの時間が経っていたのか。気がつくと、対面に透先輩が座っていた。
首の疲れを感じて顔を上げた瞬間に気がついて、ぎょっとする。
「何、してんですか」
ほろっと問いが零れたのは、当然だった。透先輩の手元には、僕が新たに書き付けたルーズリーフが並べられていたのだ。
「いや? なんか面白そうだったから?」
「勝手に見ないでくださいよ」
そうは言いつつも、広げていた自分の落ち度であることは分かっていたから強くは出られなかった。透先輩も僕が本気でないことは分かっているのだろう。片眉を上げて紙束から目を離すだけだった。
「広げてるんだから、それは叶わないだろ。で、どうしたんだ? これ。プロット?」
ごく自然に透先輩から出てきた創作用語に目を瞬く。
とはいえ、この先輩は何かと漫画を読んでいる。オタクという感じもしないのだが、創作に一切の触れ合いがないわけじゃない。だから、出てこない単語ではないのだろう。それでも、違和感は拭えなかった。
「……ちょっと、書いてみようかと思いまして」
「ふーん? こっち、順番変えたほうが面白いと思うぞ」
涼しい顔で、透先輩の指先がブロックを前後させるように示す。あまりにも平淡であったので、一瞬脳が停止した。
指摘に苛立ったと言うよりも、透先輩がアドバイスしてくるとは思わずに驚いたと言うほうが正しい。ぱちくりと瞬きを繰り返していると、透先輩は眉を顰めた後に微苦笑を浮かべた。
「悪い。いきなり口出すのは御法度だな」
「いえ、それは良いですけど……そういうのがそんなにさらっと出てくるとは思わなかったので、驚いてます」
「意外ってか?」
てらいなく言えば、それ以外ない。取り繕っても仕方がないと、僕は素直に頷いた。
透先輩の苦笑が渋くなる。そうした表情も絵になる先輩は、所謂イケメンの遊び人。どんなに漫画を好んで読んでいるからって、創作に一家言があるとは思えなかった。
「遠慮しねぇなぁ、後輩くんは」
軽易に言い放った透先輩は、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと待ってろ」
それだけ言い捨てて、透先輩は居間を出て行った。言い止める間もない。一体何があるというのか。意外性を払拭する何かだろうが、何かはとんと見当がつかなかった。
僕は手持ち無沙汰になって、透先輩が言ってくれたアドバイスを検討する。あれこれと書き込んでいると、足音が聞こえてきた。顔を上げると、やってきたのは栞でビックリする。
だが、別に誰がやってきたっておかしくもない。透先輩が戻ってくるもの、と思っていたからこその驚きだ。
栞は僕の手元へ視線を向けると、そわっとした顔で隣に座ってきた。僕はまだノートもルーズリーフも広げっぱなしだ。それを目視することは可能だっただろうが、それにしたって食いつきが凄まじくて肝を冷やす。
それは目撃されたことへの忌避感ではなく、柔軟剤の香りがするほどの至近距離で隣り合うことへのものだったかもしれない。僕と栞の交流は増えているが、だからといってベタベタしているわけじゃなかった。そうものではない。
だから、不意に距離を詰められると、心臓が竦んだ。
「書くの?」
「……そのつもり」
すごい、と口にすることはなかった。けれど、瞳が黒く艶やかな色を湛えているのを見れば、同じようなニュアンスを持っているのは分かる。
くすぐったくて、期待が重い。どうしたらいいか分からなくて、苦々しくならざるを得なかった。どこか気まずさを覚えているところに、ようやく透先輩が戻ってくる。
助かった。
「あれ、栞ちゃんも来てたんだな。蒼汰が書くって知ってたのか?」
「書こうとしてるのは今知りましたよ」
栞が僕の事情を知っているのを取り上げて、仲を探ってくるつもりかもしれない。透先輩の日頃の行いを思えば、そうした思考も擡げた。
しかし、透先輩は軽く流して、僕の前へ座り直す。そして、テーブルの上に少女漫画の月刊誌を置いた。それは透先輩がよく読んでいるものだ。透先輩はいつものようにページを捲り始める。
創作に関連していることを見せるためのもののはずだ。何かそうした特集が組まれたページでもあるのだろうか。僕は意図を汲めないまま、透先輩の行動を眺めていた。
僕が分からないのだから、途中参加とも言える栞はまずもって分からないだろう。あちこちに視線を投げて、様子を見ているようだった。
「これな」
言いながら、とある漫画を開いてこちらへ月刊誌を見せてくる。僕と栞は揃って目を向けた。
連載らしい。そこにはヒロインの可愛い女の子が表紙を飾っていて、山下トルと作者名が表記されている。山下トル? そこをまじまじと見て、思いついた可能性に透先輩を見上げた。
隣で栞も同じように振る舞っているのが、気配で分かる。見上げた先の透先輩は、にこりと余裕綽々に笑っていた。
「は!?」
「山下先輩、少女漫画家だったんですか?」
「デビュー一年目の新人だけどな」
そこには葛藤があるのだろう。苦々しくなっていたが、それでも誇らしさも滲んでいた。僕らは未だに驚きから復活できていない。
何かと漫画を読んでいた。恋愛についてのアンテナが立っていた。どうやら、ネタ探しをしていたらしい。現役高校生での少女漫画家。そういった話は聞くし、中学生デビューなんて話も聞く。
世間にそういう人たちがいることは知っていたが、実物が目の前にいると思うと驚きが隠せない。
「まぁ、だからプロットにも創作にも俺は関連深いわけだ」
「通りで的確なわけですよ……でも、本当にすごいですね。絵、綺麗だ」
「プロだからな」
鼻高々宣言する透先輩に謙遜はなかった。気持ちが良い。そうしても何もおかしくはないほどの実力が見て取れる。自己評価が高いのは羨ましかった。
「言ってくれればよかったのに」
「わざわざ言いふらさないっての。それに、千佳子も羽奈先輩もナツさんも知ってるからな。今更言うって発想なかったわ」
それもそうか。デビュー一年ということは、夏目荘にいる間に新人賞を獲得しているということだ。ともに住んでいて、まったく知らないということはないだろう。僕らはまだ一ヶ月ほどであるから、知らずとも仕方がない。
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