天井の本の虫

めぐむ

第一章

活字少女とラノベ少年①

 何の虫だろうか。静かな夜に鳴り響く虫の鳴き声をBGMに、ミステリ小説のページを捲っていく。

 夏目荘なつめそうの夜は、住人の気配すら飲み込むように静かだ。五人も同世代の住人がいれば、これほど静かだなんてことは滅多にない。どこかできしきしと家なりが鳴っているのがよく聞こえるほどだった。

 夏目荘は昔ながらの民宿のような家屋だ。やってきて三週間。最初は何かと気にしていた家なりにも慣れて、ノイズに感じるようなこともなくなった。その音を聞き流すように、小説へ没頭する。

 しかし、今まさに探偵が推理ショーを始めようという大一番。ぎしりと鳴り響いた家なりは、ここ一番大きくて、音のほうへと視線を上げてしまうほどだった。

 そして、予期せぬ衝撃に襲われる。ずしんと聞いたことのないような音が鼓膜を突き抜けて、天井が落ちてきた。唖然とする僕の部屋へ、どさどさととんでもない量の書籍が滑り落ちてくる。

 その中をひとつ上の部屋に住む同級生の大路栞おおじ しおりも落ちてきていた。あまりのことに自失としていた意識に、目を見開いている大路さんが飛び込んできて警鐘が鳴り響く。

 僕の部屋は、既に上から落下してきた書籍などで山ができてしまっていた。ハードカバーが乱雑に重なり合っている場所に落下して、無事でいられるとは思えない。

 とはいえ、僕がそこまで行くにも書籍が邪魔してしまっている。無鉄砲に飛び込んだって、大路さんを抱き留められる気もしない。

 しかし、どうにかしなければと意識が働く。恐らく、大路さんのほうでも、少しでも受け身を取ろうと試みようと意識が働いたのだろう。空中のわずかな合間で不自然にバランスを崩した大路さんは、そのままこちらへと転がってきた。それを抱き留められたのは、ただの偶然に等しい。


「ぐっ」


 大路さんに悪気はないだろう。まったくの事故だ。僕だって、憤怒なんてしやしないが、痛みが消えるわけじゃない。

 呻いてしまった僕の上で、大路さんが顔色をなくしている。僕の腹部に乗り上げる形に着地してしまった大路さんは、大慌てで退こうとしていた。柔らかい身体が、身の上で動く。その生々しい肉感と体温に、状況も忘れて心臓が爆発した。

 もしかすると言葉にならない状態だからこそ、不埒な思考が蠢いたのかもしれない。何にしたってそれは阿呆な状態で、一刻も早く抜け出したくなった。

 だが、僕たちは大量の本の中に埋もれているも同然だ。大路さんも退こうとしているのだろうが、足場がない。


「ごめんなさい!」


 大路さんは泣き出しそうに叫んだ。パニックなのだろう。そりゃ、そうだ。僕も天井が落ちてきて大層泡を食っていたが、大路さんは床が抜けて落下している。冷静であるはずもない。

 二人して動揺しくさっている時間は、そこまで長くなかっただろう。その間に、どたどたと激しい足音が近づいてきた。


「おい、何事……」


 扉を開いたのは、透先輩だ。

 隣の部屋に住んでいる山下透やました とおる先輩には、物音など筒抜けだろう。何かが起こっていることは分かっただろうが、さすがに天井が抜けたなんてのは理解の埒外だったようだ。横開きの引き戸に手をかけたまま、僕たちの状態を見つめて石化してしまっている。


「……仲が良いのはいいけど、家を壊すのは問題があると思うぞ」

「そんなわけないでしょうが」


 透先輩が芯からそんな考えを持っているなんて、僕だって思っていない。それでも、そんなやり取りをしなければならないほどの異常事態だった。

 透先輩から遅れてしばらく。ナツさんが到着する。ナツさんは夏目荘の管理人のお婆ちゃんだ。遅れてしまったのも仕方がないだろう。そして、やはり驚嘆してしまったようだ。

 そうだろう。家屋の事故なんて話には聞くが、本当にこんなことが起こるとは思いもしない。高校生三人に、お婆ちゃん一人。天井が抜けるなどという大事故のわりに、何とも頼りない布陣であるような気がした。


「とりあえず、本を退かして栞と蒼くんが出られるようにしないとね」

「ああ、そうだね。ナツさんは今後どうかするか考えてもらって。後は俺が」

「大丈夫? 透くん」

「大丈夫、大丈夫。この中で動けるのは俺だけでしょ。千佳子と羽奈先輩がいたとしたって男手は俺しかないしね。ナツさんは居間にいてよ。すぐに連れていく」


 言いながら、透先輩は着ていたパーカーの袖を捲って、部屋へと突入してくる。

 僕らもぼーっとしている場合ではない。大路さんもそばにある本を退けて、自分の足場だけでも確保しようと試みていた。僕も上半身周りのそれを退けていく。透先輩はナツさんに宣言した通り、すぐに僕たちのところへやってきてくれた。


「大丈夫か?」

「はい」

蒼汰そうたは? 怪我してないか?」


 僕がいたのは窓際の机のそばだ。床が崩れてきたのは逆の扉側だったので、僕らの周りは本が積み重なっているだけで済んでいる。そうでなければ、木材などで大怪我を負っていたことだろう。じわっと安堵が広がってきた。


「僕も平気です。透先輩も怪我しませんでしたか?」

「大丈夫。とりあえず、部屋を出よう。栞ちゃん、ほら」


 透先輩が差し出した手を大路さんがそろそろと握りしめる。透先輩は如才なく大路さんを引っ張り上げてくれた。乗っかられていた体重が離れていったことに、力が抜ける。

 大路さんを重かったわけじゃない。重力に合わせて落ちてきたので勢いはあったし、ダメージはあった。だが、さほど体重を感じなかったほどだ。

 それでも、大路さん……女の子が自分のそばから離れてくれたことには安堵が巡った。無意識に吐息が零れる。


「蒼汰?」


 透先輩は手早く大路さんを廊下へと送り出したのか。腰に手を当てて、僕を見下ろしてきた。金髪の向こうの天井はなくなっていて、大路さんの部屋が見えている。


「……男の子事情で起き上がれないなら、俺も出てくぞ」

「透先輩は僕のことをなんだと思ってんですか。こんな状況ですよ」

「こんな状況じゃなきゃ、ならないとも言い切れないって素直なところは嫌いじゃない」

「……揚げ足取りの能力を発揮してくれなくていいんですよ」

「ほら。大丈夫ならさっさと立て。起き上がれないわけじゃないだろ?」


 口調が重すぎることはない。だが、手を差し出してくる顔におふざけの気配はなかった。透先輩が心配していないとは思っていないけれど。

 差し出される手を取って身体を引き起こすと、背中が痛くて少し動きが止まる。


「……蒼汰? 大丈夫か?」

「蒼くん?」


 大路さんがそう呼ぶのは、恐らくナツさんの影響だろう。透先輩が心配を露わにした瞬間に、大路さんが不安そうに近づいてこようとしていた。


「大丈夫だよ。すぐそっちに行くから、大路さんは安全な場所にいて」


 通路は確保できている。とはいえ、危険がないわけじゃない。書籍の山はただでさえ不安定だ。大路さんの部屋から落ちてきたものも多いが、僕のものも多い。読書好きな二人分の書籍は相当な量だ。どこかで本がずれるような物音がしている。

 大路さんとはルームメイトとしての関係しかない。それでも、危険な目に遭わせたくはなかった。

 話しているうちに痛みも治まって、難なく立ち上がれるようになる。透先輩は厳しい顔をしているし、大路さんも不安げな顔をしていた。


「ひとまず、動ける。とりあえず、居間に行きますよ」


 二人に声をかけようとすると、ため口と敬語がミックスされる半端な言葉遣いになってしまった。


「ごめんなさい」


 僕は事故だと判断している。大路さんに謝罪される理由がまったくない。眉を顰めると、透先輩から肩を叩かれた。意図を掴むのは難しい。だが、大路さんを放っておくなと言っていることだけは分かった。


「大路さんのせいじゃないよ。まさか天井が……床が抜けるとは思わないでしょ」

「本、多過ぎだってお婆ちゃんに窘められてたの……平気でしょって高をくくってたから」

「だとしても、大路さんのせいにするつもりはないから、気にしなくていい」

「……うん」


 相槌はただの相槌だった。だが、それ以上言い募ってくることはない。そうなると、こちらから掘り返すのも憚られて、話は終わってしまった。

 挨拶はするし、こうした場面で会話するほどには交流がある。逆に言えば、それほどしかないものだから、どうすればいいのかも分からない。

 透先輩に助けを求めると、くいっと片眉を持ち上げられた。整った顔でやる気障な仕草はやけにさまになっている。そして、透先輩はしょうがないなとばかりの表情で肩を竦めただけだった。それもまた絵になる。

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