第2話

 自室のドアが開く音が聞こえ、純也は眠っていた目を起こした。カウチの中で姿勢を整えると、彼は点けっぱなしになっていたテレビで流れる、安っぽい洋画を見るともなく眺めた。

「買い物、行ってくるけど。何か買ってくるもの?」

 ドアの方へ一瞥をくれると、身支度を整えた妻が戸口に立っていた。妻の問いかけに返答はせず、手を振って要件がないことを伝える。

 少しの間があり、ドアが閉まる音が聞こえると、純也はテレビのスイッチを切った。黒い鏡面となり、部屋の様子を反射している画面から視線を移し、彼は黒く淀んだ海を見つめた。強い風に打たれ、うねる波頭は粘ついたタールのようだった。

 視線は海を捉えていたが、彼の神経は耳に集中していた。


 妻が廊下を歩く音。それはくぐもった残響として、無音の部屋に響いてくる。純也は頭の中で、妻が廊下を抜け、階段の最上段を踏み、そして一段一段下へ降りていく様子を想像した。妻の身振りや手ぶり、その歩調すらも克明に脳内で思い浮かべることが出来る。それは妄想とも違う、音とリンクした一種の投影のようなものだった。

 音は途中まで仔細に聞き取れていたが、彼女が踊り場に差し掛かった辺りから、少しずつ遠退き始めた。巨大な家の距離的な問題だけではなく、遠くの方で通奏低音の如く始終聞こえる波の音が、音を包み込んで相殺してしまうからだった。

 音の輪郭がぼやけると、脳内のイメージも不鮮明になり、そこから先は完全な純也の妄想になった。

 一階まで降りた妻は右に折れる廊下を進み、玄関へ出る。靴箱の上のキーツリーから車の鍵を取り、外へ出て行く。

 ガレージから車を出すには3分あれば十分だ。目を閉じ、180秒をゆっくりと緩慢なスピードで数え終えると、純也は時計に目を移した。

 12時23分だった。

 妻の外出時間、そしてその頻度が増えていると純也が気づいたのはここ数週間のことだった。

 自宅から日用品を買いに出る場合、選択肢は5つほどに絞られる。自宅から最も近い場所にあるショッピングモールは車で15分。最も遠い場所でも40分程度の距離にある。それ以上は全て移動だけで1時間以上を有するため、可能性としてはあまり考えられない。

 1時間程度買い物をし、帰宅するとして、どれだけ遠くに買い出しへ出たとしても3時間前後ですべて事足りるはずだ。

 だが、ここ最近、妻は一度外出すると5時間、6時間は戻ってこない。酷い時には朝早くに家を出て、日も暮れた後に帰宅することもある。たとえ、遠距離のショッピングセンターへ出ているのだとしても、週5回以上の買い出しはどう考えても不自然だ。友人との会食や個人的な用事の時は必ず、その旨を伝えてくる。つまり、この頻繁な外出の内容はそのどれにも当てはまらないという事になる。

 彼女がそれほど時間を費やして、何をしているのか。一度気にかかると、その猜疑は瞬く間に純也の心を支配した。直接尋ねることも考えたが、適当にはぐらかされるのが関の山だろうと諦めた。

 しかし、彼にも自力で疑惑を解きたいという気概はあった。両足を失い、部屋に籠っている状態で出来る事―

 妻は18時頃に帰宅した。

 遅くなったことを詫びる妻の声を聴く、純也の頭には一つの考えが浮かんでいた。



つづく





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