縁の切れ端

末里

第1章:おっさんと縁切りハサミ

第1話

一度切ってしまった縁は元には戻せません——。



向かいのソファに深く腰掛けて手元の書類に目を落としていたおっさんは、確認事項の最後の文章を声に出して読み上げながら、顔を上げた。

丸々と太った顔に張り付いたニヤニヤ笑いが不快だった。



「一度切ってしまった縁は元には戻せません、ね。はいはい、分かってるよ。

だーいじょうぶ、後でごねたりしないって。

え?ちゃんと全部読んだのかって?

読んだ読んだ。だから大丈夫だって。

あんたもしつこいな。いいからさっさと次に進んでくれよ。」



おっさんが身勝手に捲し立てるのを聞きながら、裕作は今日何度目かの深い溜息を漏らした。

おっさんにもこの溜息が聞こえているに違いないが、それすらももう気にならなくなっていた。

なんならこの接客態度に激怒して、今すぐ帰ってくれたらいいのに、ぐらいに思った。

こちらだって、願わくば面倒臭いおっさんとの契約なんて1秒でも早く終わらせて、キンキンに冷えたビールを飲みたい。

こんな日に飲むビールはまた一段と美味いに違いないのだ。

裕作は剥がれ落ちそうな作り笑いをどうにか顔に貼り付け直して、おっさんに向かって姿勢を正すと、



「それでは、書類の内容に同意頂けるということですね。

その内容で問題ないようでしたら、こちらにご署名をお願いします。

ご署名を頂いた時点で契約成立となり、その後はこちら側の明らかなミスを除いて、一切の異議や苦情はお受付できませんので、ご了承下さい。」

と、まるで録音されたテープを再生するかのように事務的な口調で、おっさんに告げた。



裕作の念入りな確認が面倒になったのだろう、おっさんは裕作に負けず劣らず大きな溜息をつくと、机に転がっていたボールペンを手に取り、萩野啓造と書類にサインした。

おっさんが書いたおっさんの署名は、意外にもボールペン講座のお手本みたいに整っていた。

字が綺麗なことは、このおっさんの唯一の長所かもしれないな。

出会って2時間にも満たないおっさんに対して、だいぶ失礼な分析を加えながら、裕作は父の言葉を思い出していた。



「いいか、裕作。まずは依頼者の話をじっくりと聞かなきゃならねえぞ。

そんで、他の解決策がないのか、本当にこの方法で間違っていないのか、親身になって一緒に考えるんだ。

いっぱい考えて、それでもやっぱりこうするしかねえと思った時、初めて縁切りの契約をするんだ。

俺たちは他人の人生を変えちまう、とんでもねえことを生業にしてるんだっていう自覚を常に持たなきゃいけねえ」

大好きな日本酒をちびちびと呑みながら、父はいつも同じ話をした。

ある日、いつもより酒が進んだ父は、いつもより赤い顔でいつもより酒臭い息を吐きながら、続けた。



「まあ綺麗事は置いといて、結局な、人間は後悔する生き物なんだよ。

何か上手くいかないことがあるとすぐに、なんであんなことしたんだろう、やっぱり止めときゃ良かった。

そんで、その後悔が負の感情となって俺たちに向けられるわけだな。

縁切りなんて訳の分からねえことしやがって、今すぐ元に戻してくれ、ってな。

そうなった時、なあ、裕作、何が一番重要か分かるか?それはな、これだよ」



そう言って、父は一枚の紙切れを差し出した。

いつも依頼者との契約時に父が依頼者に署名させている、あの同意書だった。

「俺たちの仕事が普通の仕事じゃねえことは確かだ。

だけどなあ、俺たちだって誇りを持ってこの仕事をやってる。

依頼人を騙すようなことはしないし、隠し事もしない。

だから、契約の時には、くそ丁寧に説明して、くそしつこく確認して、くそ念入りに念押しするんだ。一度切っちまった縁は二度と元には戻せませんってな」



そこまで言うと満足したのか、父は

「特にな、太った禿げヅラのやたら偉そげなおっさんには気をつけろ。

俺が過去何度かトラブった依頼人は皆、太った禿げヅラのやたら偉そげなおっさんだったからな」

とカラカラ笑いながら言い捨てると、そのままちゃぶ台に突っ伏して大きな鼾をかきはじめた。

裕作は、もう5年以上も前の父の言葉に苦笑いを投げて、改めて目の前のおっさんに目をやった。

太った禿げヅラのやたら偉そげなおっさんは、署名を終えたボールペンを机の上に放り投げて、ソファにずっしりともたれかかっている。

おっさんの背後の壁に掛けてある時計は、ちょうど16時を指していた。

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