HAPPY LOVERS DAY

平 遊

第1話 ~ Happy Valentine Night ~

「俺が本命、だって?」


 男は微笑を浮かべて、女を見た。

 テーブルの上には、女が作ったというトリュフチョコと、男が用意した赤ワイン。


「そうよ?」


 目に笑いを浮かべながら、女は男から視線を外し、ワインをひとくち、口に含む。

 鼻腔を満たす果実の甘みにウットリと目を閉じると、とたんに唇を塞がれ、ワインの余韻が根こそぎ奪い取られた。


「う…んんっ」

「乾杯も無しに、ひとりで先に飲むか?」


 軽く笑い、男は殊更ゆっくりと舌を動かして唇を舐める。


「だって、美味しそうだったから」

「ふうん」

「ねぇ、わたしのチョコも、早く食・べ・て」

「おぅ」


 女に促され、男はココアパウダーを纏った丸い塊を、口の中に放り込んだ。

 歯を立てたとたん、濃厚な甘苦さが口腔内に広がる。


「うっま!…おっと…」


 女の口が、男の口を塞いだ。

 忍び込んだ薄い舌が、男の口の中に残るチョコレートの甘さを堪能するように、ねっとりと絡みつく。


「んっ、おいしい」

「ああ、メチャクチャ、な」


 ニヤリと笑うと、男はワインの入ったグラスを手に持ち、


「なぁ、もっと飲もうぜ」


 口に含むとそのまま女に口づけ、液体を注ぎ込んだ。

 体重をかけて女の背をソファの座面に押し付け、男は女の上にのしかかるようにして体を預ける。

 熱を帯びて潤んだ女の目が男を見上げ、切なげな吐息が薄く開かれた唇の隙間から漏れ出す。


 男の思惑通り、女の体は熱く疼き始めていた。

 一方。

 男の体の奥底からも、女の思惑通り、抗いがたい熱が生じ始めていた。


 トリュフチョコに混ぜ込んだ媚薬と。

 赤ワインに仕込まれた媚薬。


 チョコレートとワインの香りの中、二人だけの甘い夜が、今、始まる…


 ~ Happy Valentine Night ~


 ※※※※※※※※※※


「ねぇっ!これっ!これこれっ!美七海みなみちゃん、俺これやりたいっ!」


 泰史やすしの言葉に、美七海みなみは呆れ顔で溜息を吐いた。

 バレンタインにチョコレートが欲しいと駄々をこねていた泰史が、ようやく大人しくなったかと思ったら、泰史が食い入るように見入っていたのは、アダルトな雰囲気の漂う妖艶な動画。

 タイトルは、『Happy Valentine Night』。


 美七海と泰史は、会社の先輩と後輩。

 付き合い始めて3年目を迎える。

 余り色恋に興味の無かった美七海が、2つ年下の泰史の熱烈なアプローチに押し切られる形で始まった付き合いだった。


 1年目のバレンタインは、付き合い始めた時には既に終わっていたため、美七海にとっての初めてのバレンタインは、昨年。

 それでも、美七海は当初、特に何をするつもりもなかった。

 泰史とは既に付き合い始めていたし、お互いの気持ちなど今更チョコレートに託さずとも、2月14日に拘らずとも、いつでも伝えることができるのだから、と。

 それに、泰史には彼を溺愛している3才年上の姉が2人いる。

 双子の姉の亜美あみ麻美まみは、毎年欠かさず、可愛い可愛い弟に愛の詰まったチョコレート菓子を泰史のために作ってくれるというのだ。

 ならば尚の事、自分からの既製品のチョコレート菓子などいらないだろうと美七海は泰史の説得を試みたのだが、


『大好きな彼女からバレンタインにチョコが貰えないなんて…なんの罰なの…俺、美七海ちゃんになんかした?』


 と、捨てられた子犬のような目で訴えるものだから、仕方なく、近所のスーパーでやたらとピンクでハートの包み紙に包まれたチョコレートを購入し、バレンタインの夜に泰史に渡したのだ。

 美七海からチョコレートは貰えないものと諦めていた泰史は、大袈裟ではなく、飛び上がって大喜びした。

 のみならず。

 その勢いのままに、呆気にとられる美七海を抱きしめ、抑えきれない想いの全てを、美七海の中に注ぎ込んだのだった。


 そんなわけだから。

 恋人として、バレンタインという義務は既に昨年終えたものと思っている美七海は、泰史の提案を即却下した。


「何言ってんのよ、こんなのするわけ」

「お願いっ!トリュフチョコも赤ワインも俺が準備するからっ!…媚薬は無理だけど」


 いつの間にやら美七海の目の前で正座をした泰史が、土下座の勢いで頭を下げる。


「ちょっと泰史っ!やめてよっ」

「美七海ちゃんがやってくれるって言ったらやめる」

「もうっ!」


 正直なところ、美七海は今でもそれほど、色恋に興味があるわけではなかった。

 けれども。

 泰史と過ごす時間を、美七海はとても気に入っていた。

 それはつまり。

 泰史に対して美七海が抱いている想いが、特別なものだということに他ならない。


 どれだけ突き放しても滅気ずにじゃれ付いてくる子犬のように、泰史は美七海にくっついてきた。

 外を歩いていれば、必ず手を繋いでくるし。

 電車に乗れば、ピタリと体を寄せてくる。

 部屋の中では、隙あらば美七海の唇を狙ってくるし、失敗しても体のそこここにキスの雨を降らせてくる。


 美七海がそんな男と付き合うなんて、あり得ない。

 美七海をよく知る友人たちは、口を揃えてそう言った。

 美七海自身だって、そう思っていた。

 けれども。

 泰史だけは。

 彼だけは特別なのだ。

 理屈ではなく、感情が。

 心が。

 泰史を受け入れ、求めているのだ。


 その、泰史が。

 土下座をしてまで美七海と甘いバレンタインを過ごしたいと懇願している。


 少しなら。

 泰史が喜ぶのなら、少しくらいなら付き合ってもいいかな、と。

 美七海は苦笑を浮かべ、小さく頷いた。


「わかった」

「えっ!?」


 泰史がピョコンと飛び跳ねながら、頭を上げる。


「ほんとっ?!美七海ちゃん、ほんとにっ?!」

「私、嘘ついたこと、ある?」

「ないっ!」


 すぐさま立ち上がった泰史が、子供のような満面の笑顔で美七海を抱きしめた。


「美七海ちゃん、ありがと!大好きっ!」


 そして、美七海の額にひとつキスを落とすと、一度美七海から離れ、タブレットを手に戻ってくる。


「じゃ、これ」

「え?」

「ちゃんと見て、予習しておいてね?」

「よ…予習?」

「うん!セリフ、完璧にしておいてねー」

「えっ?!ちょっと待って…」


 なんとなくそんな雰囲気のことをすればいいだろう、くらいに思っていた美七海は、今更ながらに焦ったものの、時すでに遅し。

 上機嫌な泰史は、スマホ片手に鼻歌など歌いながら、赤ワインやチョコレートの検索を始めている。


「ウソでしょ」


 再生された動画に目を落としながら、美七海は呆然と呟いた。


「こんなの、ムリ…絶対に」


『ねぇ、わたしのチョコも、早く食・べ・て』


 タブレットから聞こえる女の声に、美七海はブルブルと頭を大きく振ったのだった。


「楽しみだねぇ、美七海ちゃん。あっ、衣装も準備しなくちゃね!」


 気が遠くなりそうな美七海の隣では、泰史が嬉しそうな顔でスマホの画面を眺めている。


「もしかしたら、媚薬もネットで買えるかな…」


 バレンタインのその日は、もう、すぐそこ…


 ~ Happy Valentine Night ~

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