花園の女王蜂③



「ボクが本当に満ち足りた人生を送ってきたのだと勘違いしてるなら、とんだ節穴。あれかしら、菓子パンのカロリー表記も見えないタイプ?」


 視線と顎で合図され、担いでいたギターケースを開ける。咲弥の挑発よりも、一体なにをするのかと警戒した眼差しが注がれる中、俺は仕事道具を二振り取り出し、咲弥へと投げてよこした。


模造刀ニセモノで脅そうったって……!」

真剣ホンモノですよ? ほら」


 的確にキャッチした咲弥が、鞘を抜き捨てて言う。刃を指でなぞれば、瞬く間に赤が滴った。


「ひっ……!」


 素人目に見ても理解に足る。来栖五百奈も怒りを忘れてたじろいだ。


「センセイはもう、生きてるだけで咎人なの……ううん、人ですらない。村八分の鬼子みたいなもの」


 紅を引くように血で唇を飾りながら。


「流石に目が節穴でも、胸に手を当てれば分かることよ?」

「い、一体なにが分かるっていうのよ!?」

?」

「へ……?」


 促されて、半信半疑で――半ば嘘であってくれと祈りながら――胸に手を当てる。

 蒼めた確信かおを見れば、結果はおのずと分かる。


「うそ、よ」

「嘘じゃないわ。それが【エス】――【スワンプマンSwampman症候群】と化した者の末路」


 昔の哲学者が考案した、有名な思考実験がある。

 ある日出かけた男が、不幸なことに沼のそばで落雷を受けて死んでしまう。すると奇跡的なことに、落雷の影響で化学反応を起こした沼から男と寸分たがわぬ存在が生まれてしまった。

 原子レベルから同一人物のこの沼人間スワンプマンは、死んだ男と成り代わり、そのままなにごともなかったかのように普段の生活へと戻っていく……というものだ。


 この思考実験、もとい例え話は、「同一の思考回路や肉体を持つからといって、来歴が違えばその人物足り得ないのではないか?」と問いかけている――そしてこれが、【エス】と頭文字で呼ばれる由来であり、未知のウイルスによる奇病とも、免疫機能の暴走とも言われて、正体がようとして知れない理由でもある。


「ガン細胞と同じよ。異能じみた身体能力を得るほどの体の変化に、人は耐えられるようにできていない」


 【スワンプマン症候群エス】は病んだ心に従って、体を変異させる。心臓や神経といった例外を除けば、一番遅い骨でも細胞は約五ヶ月で入れ替わるのだから、半年後にはほとんど別人のようになっていると表しても過言ではないだろう。個々で差はあれど、傷が治ったり老いたりするのは、体の機能のおかげだ。


 そう、【エス】は脳からの命令で、成長期の幼子に匹敵する変貌を遂げる――たとえそれが、生存させる機能すら質に入れるものだとしても。


「日本では心肺停止イコール死亡とはみなさないけれど、クラゲやクマムシじゃないんだから、そんな状態で生存していられるのはおかしいのよ」


 おかしい。生物として普通じゃない。人間として分類できない。

 人間は、人間を食べるようにできていない。血でも同じだ。感染症にならないわけがない。そもそも、人間は洗脳が可能なレベルのフェロモンなど出せない。


「じゃあ、なんでわたしは……まだ動いていられるの? 意識だってはっきりとしているのに……」

「簡単ですよ、センセイ――」


 当然の疑問きょうふは、当然の正解ぜつぼうで塗り潰される。


「――

「は、」


 とろけたチョコレートを冷やして固めても、同じ形には戻らない。

 壊れた人間はいびつなまま、元には戻れない。


 だからひとでなしならぬ、沼人間ひともどき


「未知は多いですが、【エス】の脳は酸素と糖分以外で動いているらしいですよ。従って体もそのように改造され……」

「はははは――はははははははは!!」


 餞別に説いていた咲弥を無視して、来栖五百奈だった吸血鬼はわらう。


「なによ! 偉そうに脅してるけど、結局はあたしが死を克服した人間で怖いから殺そうって魂胆じゃない!」


 女子高生を抱えたままマンションの三階まで跳躍してみせた脚力で、俺を隔てた奥にある出入口へとサッと向きを変える。驚嘆に値する速度だ。

 現役のオリンピック選手もかくやという俊足は、つむじ風となって俺達を置き去りにするだろう。


「はははははははは――え?」


 ……そう思われたのも、つむじ風ほどの一瞬だった。


「【エス】は進化した人間、だなんて誤解しないでくださいよ」


 本当にギロチンみたいだ、と無感動に思った。駆け抜けようとする彼女の首にやいばを添えれば、仕事はあっという間に片付いた。


「人間は自分を進化するより、環境を変化させることを選んだ生物です。個人より社会性を優先させた結果の世界いまなんで、同族を食らうなんてもっての外だ。というか、要でもないくせに群を破綻させる個なんて、前提から壊れてる」


 はらり、と崩れ落ちる来栖五百奈の首。噴出した血飛沫に顔をしかめたが、汚れることを想定しての大量生産品スーツだ。替えはすぐ用意されるし、この体育館も清掃が入る。


「俺達が【エス狩りギロチン】なんて呼ばれているのは、脳だけで生存する【エス】を四肢から切り離して止めるためですよ」


 来栖五百奈の首を拾い上げると、先回りして咲弥がギターケースから出して組み上げてくれていた箱へと収めた。


「そして、こうして逃げられないよう箱に収めて、火葬して抹殺する」

「冥途の土産ってわけ……?」

「いいや、本当の冥途の土産はここからだ」


 別人かと見まごうほどに醜く歪み果てた来栖五百奈の顔に、俺は告げる。


綿

「――――」

「母親が語ってくれました。憧れだったのか、恋愛感情だったのか、それは今となってはもう分かりません。死人に口なし。けれどあなたが変貌する以前から、ありのままを好いてくれた人はいたんです――あなた自身が、それを亡き者としたわけですけど」


 フェロモンの効果が永遠ではないように、人の心もまた永遠ではない。愛したひとが怪物だと知って、百年のおもいが冷めたのだ。


 だから、遠野綿花は来栖五百奈を拒絶した。

 『クラスに吸血鬼がいる。私は人間のまま死にたい』という、女王蜂に群がる連中へも突き刺さる告発文を残して、彼女は愛を看取って殉じた。


「あ――な、ぅ――」


 満足に震わせられなくなった声帯から、意味のない音声がこぼれ落ちる。女王蜂は惑うばかりの羽虫へと堕ちた。その亡骸を、丁重に棺へと納める。


「ど、して――なん、で――」


 辞世の句は、重苦しい後悔だった。


 ……こうして、最悪の後味を残して、俺達の吸血鬼退治は幕を閉じた。


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