二話

 小さな幼い手が、フリルのドレスを着た人形をぎこちなく歩かせてこちらにやってきた。


「あら、こんにちは」


「こんにちは」


 私も人形を会釈させてあいさつした。


「わたくし、これからお茶を飲みにいくの」


「まあ、それはいいですね」


「あなたはお茶、好きかしら」


「はい。大好きです」


「じゃあわたくしと一緒に、飲みに行きましょう」


「いいのですか? とても嬉しいです。では私の知っている菓子店でケーキを買っていきましょう」


「ケーキ! わたくし大好きなの」


 幼い手は人形の髪が乱れるほどに何度も跳ねさせ、喜びを表現した。


「そうなのですか。どんなケーキが好きなんですか?」


「フルーツケーキも好きだし、あとは蜂蜜がかかったのも好きだわ」


「では、その二つを買いましょう」


 私は人形をちょこちょこと歩かせた。


「……菓子店に着きました。さあ、好きなケーキを買ってください」


「えっと、じゃあ、このおいしそうなケーキと、こっちのケーキをいただくわ」


 ケーキに見立てた丸い積み木を二つ持ち、フリルのドレスの人形は菓子店を離れた。


「ここでお茶を飲みましょう。座って」


 二体の人形は腰を折られ、向かい合って座った。


「こっちのケーキはあなたのね。それじゃあいただきましょう」


「ええ。いただきます」


 目の前に置かれた積み木のケーキを、私は人形に食べさせるふりをする。そして時々お茶を飲むふりもする。


「……はあ、とてもおいしかったわ。もう食べられません」


「わたくしも。残ったケーキは犬のルーシーにあげましょう」


「あら、犬を飼っているんですか?」


「そうよ。ちっちゃくて毛がふわふわした犬なの」


「さぞ可愛いのでしょうね」


「すごく可愛いわ。鳴き声も可愛いし、歩き方も可愛いの」


「羨ましい。私もそんな犬を飼ってみたいです」


「旦那様に頼んでみたらどう? きっと飼えるわよ」


「どうでしょうか。夫はあまり動物が好きではないので」


「じゃあ旦那様には秘密で飼えばいいのよ。それなら大丈夫で――」


「秘密にするのは、あまりいいとは言えませんね」


 突然澄んだ声が聞こえて、私は振り向いた。


「あっ、お母様!」


 声を上げたダイナ王女は、現れたフロレア王妃を見ると、人形を置いてすぐさま駆け寄っていった。


「もうご用は済んだの?」


「ええ。終わったわ。だからダイナと遊ぼうと思ったのだけれど……」


 王妃の視線が私に向けられた。私は立ち上がり、そそくさと部屋の隅に下がった。


「そのままでいいわ。……ダイナはあなたのことがお気に入りのようね」


「恐れ入ります」


「私、エゼルのことが大好きよ。遊んでいると楽しいんだもん」


 丸い顔に笑顔を満たし、王女は笑った。窓からの日に当たって輝く王女の金の髪を撫でながら、王妃も微笑んでいた。


「いつも遊び相手になってくれて、感謝しています。これからも頼みますよ」


 私は姿勢を正し、小さく頭を下げた。


「身に余るお言葉です……お任せください」


「ふふっ……ではダイナ、今度はお母様と人形遊びをしましょうか?」


「えー、次はお庭に行こう。早く子犬と一緒に遊びたい!」


「またそれですか? 子犬は、ダイナが舞踏会での踊りを全部覚えたら飼うと約束したでしょう」


「待ちきれないわ。踊りは毎日練習しているし、いいでしょう?」


「だーめ。約束したことは守らなければいけないと――」


 王妃と王女は手をつなぎ、話を続けながらテラスへと向かっていった。その並んだ姿を、私は微笑ましく見送った。


「あとはこちらが受け持つから、エゼルは部屋の前の警備に回りなさい」


 私の上官であり、王妃付きの近衛兵長に促され、私は部屋の扉へ向かう。その去り際、肩を叩かれて私は足を止めた。


「……何か?」


「妃殿下はあなたのことをいつも褒めていらっしゃるわ。おかげでダイナ様がよくおしゃべりになり、明るくなられたとね」


「そんなことを……本当ですか?」


「妃殿下のお言葉で嘘など言いません。随分とダイナ様に好かれているようだけど、家族や親類に幼い子でもいるの?」


「いえ、家族は父だけで、親類にも近所にも小さな子はいません」


「そうなの。それにしては慣れたものね。まあとにかく、妃殿下とダイナ様のために変わらず励んでちょうだい。それだけよ」


 兵長は満足げな笑みを見せて、王妃と王女の元へ戻っていった。こんなふうに褒めてもらったのは、王女の護衛兵に抜擢された時以来だろうか。何だか心がくすぐったい心地だったが、今は任務中だ。浮かれずに、平常心を――扉を開けて廊下に出た私は、何事もなかったようにその前に立つと、辺りに警戒の目を向けた。


「いいわね。褒められて」


 話しかけられて横を見る。そこにはすでに部屋の警備をしていた同僚のスザンナが立っている。


「……聞こえていたの?」


「うっすらとね。……次に出世するのはエゼルだって、もっぱらの噂よ」


「私は噂話って、あまり信じないの」


「でも、こんな噂なら嬉しいでしょう?」


「現実になっていないことに、嬉しいと思えるの?」


 横目でスザンナを見ると、少しむっとした表情を浮かべていた。


「……エゼルって、笑うことがあるの? 今も褒められたのに、全然嬉しそうじゃないのね」


「笑顔で警備するわけにはいかないでしょう」


「別にいいんじゃない? 誰の迷惑にもならないんだから。……ああ、エゼルはダイナ様の前でしか笑わないんだったかしら」


「どういう意味……?」


 目を向けると、スザンナは口の端に笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「そのままの意味よ。普段は面白い話一つもせず、寡黙でつまらないくせに、ダイナ様を前にすると急に人が変わったみたいに笑顔を見せ始めているじゃない」


「硬い表情だと、ダイナ様が怖がってしまうから――」


「どうだか……。気に入られるためだからでしょう? ダイナ様に気に入られればフロレア様にも信頼される。そうすれば一目置かれて、昇進も早まる――そういう狙いなんでしょう?」


 私は唖然としてスザンナを見つめた。


「媚を売っていると、そう言いたいの?」


「そこまではっきりとは言わないわ。でも、エゼルだけダイナ様にあれだけ懐かれているのを見ると、そう言っても過言じゃ――」


「個人的な印象だけで、いい加減なことを言わないで」


 ねめ付けると、スザンナはさらに口角を上げた。


「いい加減なことじゃないわ。私はこの目で見た事実を言って――」


「ダイナ様と遊んでいるのは、それをダイナ様がお望みになられたからで、私はそれにお応えしているだけよ。自分から一緒に遊びましょうなんて言ったことはないわ。それに、私は昇進なんて求めていない。このままでも満足しているし、それをどうするかは上の人間が決めることで、私の意思じゃどうにもできないことよ」


「いい子ぶっちゃって……正直に言ったら?」


 スザンナの意地悪な視線が刺してくる……どうしてねじ曲げた見方しかできないの? 苛ついてしまう。


「だから、私は――」


 感情に任せて言おうとした時、廊下の先から二人の近衛兵がやってくるのが見えて、私は咄嗟に口を閉じた。スザンナも気付いて、私達はその二人が通り過ぎるのを黙って待ち、そして見送った。その後ろ姿が十分に遠ざかったのを確認してから、私は再び口を開いた。


「……とにかく、私は任務を果たしているだけよ。ダイナ様の護衛兵として、危険が及べばこの身と命をていしてお守りする覚悟……それしか考えていないわ」


「余裕のある人が言うことは、やっぱり模範的ね。それが剥がれ落ちなければいいけど……」


 どこか含んだような笑みを見せられたが、私はいちべつして視線を戻した。感情的になったところで、スザンナの嫌らしい笑みを見せられるだけだ。こんな話に付き合った時間がもったいない。そんなことより真面目に警備をしないと……。


 それにしても、スザンナはいつから私をこんな目で見るようになったのか。記憶をたどれば、私が王女の護衛兵になった時は、わからないことは何でも聞いてと親切にしてくれていた気がする。それがいつからか、私に冷たい態度を取るようになり、今みたいにひどいことを言うようになっていた。明らかに私を嫌う態度……。やはり、王女に懐かれる私のことが気に入らず、妬んでいるのだろうか。でも私にはどうしようもできないことだ。懐かれたのは媚びたわけじゃなく、王女のご意思だ。自分でも理由はわからないが、王女はなぜか私との遊びを楽しんでくれた。実を言うと、私は幼い頃に、いわゆる子供の遊びというものを経験したことがない。女の子なら人形遊びやままごとといった類だ。厳しかった父はそういう遊びをさせてくれなかった。だから王女との遊びは近所で羨ましく眺めていたものを見様見真似でやっている。あの頃にできなかった遊びが今できる喜びに、私の心はその瞬間だけ、少なからず童心に返っているのだと思う。自分が思うに、真剣に遊びに向き合う姿勢が、おそらく王女に受け入れられたのだろう。他の者なら気を遣いながら遊ぶところを、私は自分も楽しみながら遊んでいる部分もある。幼い子供だからと手を抜けば簡単に見抜かれてしまう。子供は、必要以上に子供扱いされることが嫌いなのだ。遊びの時くらいは同じ目線になってあげないといけない。まして同年代の人間が周りにいない王女ならなおさらだろう。王妃がおられない間、寂しい思いをさせないように、私は遊びで王女の笑顔をお守りし、そしてこの身で王女のお命をお守りしたい。これが私の本当の思いだ。スザンナのいい加減な憶測は的外れもいいところだ。できればまた以前のような彼女に戻ってもらいたいが、多分もう、無理なのだろう。私と彼女の間にはそれだけの溝が生まれてしまっている。でも、お互いに埋めるつもりはないようだし、今は任務に影響がない程度に放っておくことしかできない。スザンナの言動がこれ以上激化しないのを祈るばかりだ……。


 太陽が沈み、辺りが真っ暗になると、私の任務時間は終わる。同じ護衛兵の同僚と持ち場を代わり、私は詰め所で着替えて帰宅の途につく――これがいつもの行動だ。でも時々、王宮を後にしようとすると話しかけてくる者がいて、この時も背後に気配を感じた私は、何気なく振り向いてみた。


「……おっと。今日は随分と鋭いな。気でも立っているのか?」


 そこにはよく見慣れた顔のノーマンが少し驚いた様子で立っていた。彼は決まって不意に話しかけてくるから、今も私を驚かせようとしたのかもしれない。


「私、そんな顔している?」


「ああ。何だかいつにも増して怖いというか、怒っているような顔だ」


 無意識とはいえ、そんな顔になっていた理由で思い当たることは一つしかなかった。


「そう……。昼間に、また変なことを言われたから、きっとそのせいね」


「例の同僚の女か? 今度は何言われたんだよ。俺が一言いって――」


「いいって言ったでしょう。これは私のことだから。ノーマンは何もしないで」


「でも、お前だけじゃ――」


「これくらいのことで動じているようじゃ、護衛任務なんて務まらない。そうでしょう?」


 そう言って見ると、ノーマンは薄く苦笑いを浮かべた。


「……俺が大分前に言った言葉、よく憶えていたな」


「あなたは大事な友人だけど、私の剣の先生でもあるわ。言われたことは全部憶えている」


「友人であり先生、ねえ……」


 ノーマンはなぜか遠い目をして星の浮かぶ夜空を見上げた。


「……何?」


「何も。今夜も星が綺麗だと思って」


 急に夜空の星に話が移って、私は小首を傾げた。彼は話していると、たまにこんな目をする時がある。親しい友人でも、まだよくわからない部分はどうしてもある。


 ノーマンとの出会いは数年前、王国の兵士養成学校で、同じ教室で授業を受けたのが最初だ。同い年で話しやすく、彼からよく話しかけてくれたおかげで、私も何となく打ち解けて、気付けば唯一の友人という存在になっていた。


 彼は入学直後からちょっとした話題の人物だった。その大きな体格で注目を集めやすくはあったが、それを上回るほどに注目されたのが剣の腕だった。すでに基礎となる技術を身に付けていたノーマンは、その強さを量るために教官と試合をすることになったのだ。その結果は、さすがに勝つことはできなかったが、いいところまで追い込んだ試合内容に、私を含めた周りの者達は彼を頭一つ飛び抜けた生徒として認識することになった。


 負け惜しみを言うわけじゃないが、私も女生徒の中では一、二を争うくらいの剣の腕があった。生徒同士で切磋琢磨したおかげで、私は晴れて王国軍の歩兵隊に入隊した。ちなみにノーマンはその腕を認められて、いきなり近衛師団に配属されている。国王陛下を始め、王族やその居城、王宮などを警護するために選り抜きの人材が集められたのが近衛師団だ。所属したくても、武技や生活態度、そして王国への忠誠心などあらゆることを評価されないと配属はされない。兵士として新人だったノーマンがすぐに所属できたことは、それだけ彼の能力や人柄が優れているという証でもある。


 歩兵隊で頑張っていた私も、やがて近衛師団に配属されることになった。望んだことではなかったが、辞令が出されれば従う他ない。だが次の任務が王女の護衛と知り、私は胸の中で喜びの声を上げた。まさか自分が王国の宝をお守りできるなんて、そんな光栄なことはなかった。少なくとも王女の護衛兵として問題ないと評価されたわけで、私はそれに応えるため、剣の腕を錆び付かせないよう、より一層の鍛錬に励むことにした。


 そんな時、数年ぶりに再会したのがノーマンだった。同じ近衛師団で任務の持ち場はそう離れていない。しかも任務時間の終わりも偶然重なり、その時も今のように、私が家路につこうとした背後から呼び止められたのだ。久しぶりに見る友人と共に一時思い出話を語った後、私は彼に剣術の鍛錬をお願いした。経緯を説明すると、迷うことなく引き受けてくれて、それからお互いの時間が合う日は鍛錬に付き合ってもらうのを今も続けている。


 ノーマンは本当にいい友人だ。私のわがままを聞いて、愚痴も聞いて、心配までしてくれる。私に話しかけたって大した話もしてあげられないのに、それでも見かけたらこうして声をかけてくれる。彼は、私にとって大事な、唯一感謝する友人だ――


「……怒った顔、消えたな」


「え? ……ああ」


 不意に言われて、私は思わず自分の顔に触れた。……昔を思い出して、顔が緩んでいたかな。


「お前はずっとそうだけど、愛想がなさすぎだ。もう少し笑ったらどうだ」


「笑う必要があれば笑う」


「必要うんぬんとかじゃないだろう。笑いたい感情にならないのか、お前は」


「……ノーマン、鼻毛出てる」


「えっ!」


 そう言うと、ノーマンは鼻を手で隠し、慌てて背中を向けた。


「ふふっ……今、その感情になったわ。これでいい?」


 笑う私に振り返り、ノーマンはじろりとこちらを睨んだ。


「これは冗談か? まったく……」


「いつも愛想がないとか、笑えって言うから、意地悪を言いたくなって……ごめんなさい」


 鼻の頭をかきながら、ノーマンは軽く息を吐き出した。


「まあ、エゼルがふざけて笑えることは確認できた。いつもとは言わないが、せめて俺と話す時くらいは、その笑顔を見せろよ」


 どうしてノーマンはここまで私の笑顔にこだわるのか……。いつ笑うかは私の自由だと思うけど。


「……できる範囲の努力はしてみるわ。それじゃあまた――」


「おいおい、もう行く気か? 冷たいな」


 帰ろうとした私をノーマンは引き止めてきた。


「何か用でもあるの? 話はもう終わったと思ったんだけど」


 残念そうな眼差しが私を見つめてきた。


「お前は愛想がない上に素っ気ないな……予定を聞きたいんだよ」


「この後の予定なら、家に帰って夕食を食べて――」


「今夜じゃない。明日だ」


「明日? 多分、今日と同じ任務時間だと思うけど……」


「そうか。じゃあ会えるのはまた夜だけか」


「明日に用があるの? 今夜じゃ駄目なの?」


 用があるなら早く済ませたいと思い聞くと、ノーマンは眉間にしわを寄せて見てきた。


「エゼル、お前自分のことも忘れているのか」


「忘れているって、何を?」


 思い当たらず聞き返した私を見て、ノーマンは大げさに溜息を吐いて見せた。


「一年に一度の誕生日だろう」


「ああ……」


 言われて気付いた。任務のことばかり考えていたから、誕生日が再び近付いていたなんて意識もしていなかった。忙しいと一年は瞬く間に通り過ぎていくようだ。


「ああ、じゃない。どうせ去年、俺が祝ったことも忘れているんだろう」


「それは忘れていないわ。弱いのにお酒を飲んで、真っ赤な顔で眠りこけている姿は今も鮮明に憶えている」


 これにノーマンは決まりが悪そうに表情を歪めた。


「忘れていいことは憶えているんだな。……明日で二十三だ。その祝いにまた、何かおごってやろうかと思ったんだが、要望はあるか?」


「毎回祝ってくれなくていいわよ。ノーマンも面倒くさいでしょう」


「面倒くさけりゃ、お前にわざわざ誕生日を思い出させたりしないさ。遠慮しないで何でも言ってみろよ」


 優しい笑顔を浮かべてノーマンは聞いてくる。気持ちは嬉しいけれど、私は誕生日に特別な感慨を抱くことはない。おごられたり、プレゼントを貰ったりするのは正直、違和感があるのだけれど……。


「……何もいらないわ。私はその気持ちだけで――」


「遠慮するなって聞こえなかったか? 思ったことを言ってみろ。また腹一杯食べたいっていうなら連れて行ってやるぞ。……あ、その時は俺に酒を飲ますなよ」


 ノーマンはどうしても私に形ある誕生日祝いをしたいらしい。本当に気持ちだけで十分なんだけど、こう強く言われると断るのも難しそうだ。それなら――


「食事はもういいわ。だから次の休日にまた剣術の稽古に付き合って」


 そう答えると、ノーマンは不満そうな表情を浮かべた。


「稽古って、そんなもので祝えないだろう。もっと別の――」


「今の私にはそれが一番嬉しいの。朝から晩まで稽古……いいでしょう?」


「それはいいが、何も誕生日祝いにしなくても……」


「思ったことを言えって言ったのはそっちじゃない」


 じっと見つめると、ノーマンは呆れたように肩をすくめた。


「わかったよ。仰せの通りに……。俺との稽古を祝いの代わりにするなんて、まったくエゼルらしいな」


「それを聞いてくれるのは、ノーマンらしいわ。……ありがとう」


「要望なら、聞いてやるのが当然だ。……じゃあまた明日、予定を確かめて伝えに来るよ」


 軽く手を振り、ノーマンは帰っていった。彼は私にはもったいない友人だ。子供の頃には何人か遊び友達はいたが、本人も忘れている誕生日をわざわざ祝おうとしてくれたのは、私の人生では彼しかいない。駆けっこをした友達も、厳しかった父も、ここまで祝う気持ちを見せてくれたことはないと思う。甘えてはいけないと思いつつ、私はどこかでノーマンに甘えているのだろう。彼の優しさは心地いい。私も、そんな優しさを返せればと思うが……その最初の一歩は、指摘された笑顔からだろうか。とりあえず、ノーマンの前だけでは努力をしてみよう……。


 星明かりに照らされた城下にはまだ点々と明かりが灯り、酒場通りは昼間のように酔客が騒がしくしている。だが街全体は眠りにつこうとしており、遠くに誰かの笑い声を聞きながら、私は静寂に包まれた薄暗い道を進み、我が家へと帰り着いた。


 玄関を開け、静まり返った部屋に入ろうとした時、その足下に何かを見つけて私は止まった。


「……手紙?」


 簡素な茶色の封筒が落ちており、私はそれを拾って部屋に入った。そして机のろうそくに火を灯し、手紙の差出人を見てみる。


「お父さん……」


 そこには見慣れた字で父の名が記されている。父は年に二、三度、こうして手紙を送ってくる。内容はいつも同じようなもので、自分の近況に始まり、私への注意や叱咤激励などが続く。厳しい言葉が多いが、それは親としての心配であり、愛情なのだと理解している。そう思いながら読むと、厳しさの中にも父の優しさを見い出せた。


 便箋を取り出し、いつも通りの内容を読み進めていくと、そこでいつもとは違う文章が出てきて、私は読む速さを緩めた。


『――ところで、この手紙が読まれている時、エゼルは誕生日の前か、それともすでに二十三歳になっているかもしれない。二十三年間、お前は私の言うことを聞き、素直に、真面目に生きてきた。これからもその姿勢を失わず、どんな困難にも立ち向かえる心を持ち続けなさい。そのための日々の鍛錬もおこたってはいけない。我々の神へ祈り、続く人生へ突き進んでほしい。私は、愛するお前のために、ここから毎日祈っている――父より』


 これは誕生日の祝いの言葉なのだろうか。だとしたら、手紙に書かれたのは初めてのことだった。父は手紙でこれまで私の誕生日には触れてこなかった。厳しい父だから、誕生日程度じゃ、日常と変わらないものと思っていたのに……。


 封筒の中を探ると、これもいつものように木彫りの小さなお守りが入っており、私はそれを握り締め、そして再び便箋の文章に目を落とした。……何だか驚いたが、それでも誕生日のことを書いてくれたのは嬉しかった。自然と笑顔になってしまいそうな気持ちで丁寧に折り畳んで封筒に戻し、机の引き出しにしまう。昼間の嫌なことも、これで忘れられそう――そう思いながら、私は夕食の支度に取りかかった。

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