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「本気で最悪だった」およそ一週間ぶりに部室に顔を見せた琉夏さんは、鞄を放り出すなりどさりと椅子に身を沈めた。「悪夢みたいだったよ、まじで」

「模試、そんなに難しかったんですか」

「テストに関してはまあ普段通りというか、可もなく可もないって感じだったからいいんだけどさ。やばかったのは席順」

「積分?」

「席順。座席の順番。大教室に集められて、五十音順で座らされたわけ。私の真ん前、誰だったと思う? なんとあの楠原。なんだってあいつの背中見ながら試験受けなきゃなんないの」

 悪いとは思いつつ、つい笑ってしまった。楠原律さんは生徒会に所属する優等生にして、琉夏さんの宿敵でもある人物だ。とある一件以来、ふたりは互いにいがみ合い、ことあるごとに意地を張り合っている。

「確かにちょっとプレッシャーですよね。腕の動きくらいは分かるわけじゃないですか。うわあ、めちゃくちゃ書いてるって」

 琉夏さんは頭の後ろで手を組み、「出来栄えどうこうより、あいつが視界に入りっぱなしなのが腹立たしかったね。せっかく集中して神頼みしようとしても、一瞬で雑念が込み上げてくる。万一成績が落ちでもしたら、すべて楠原のせいだな」

 凄まじい言いがかりである。「一週間部活を休んで対策した成果は?」

「まあ多少はあったよ。自慢だけど私の山勘は当たるんだよね。でも楠原の放つ邪気のせいで台無しになった。さらに最悪だったのが昼休み。律ちゃん一緒にご飯食べよう、とかいって目黒が現れてさ。真後ろの私を見つけるじゃん。せっかくだし倉嶌さんも、だって。はあ? なんで私があんたらと飯を食わなきゃならないんですか?」

 同じく生徒会の一員、楠原さんの幼馴染でもある目黒雛さんのことも、琉夏さんは過剰に敵視している。ところが目黒さんという人はある意味で恐ろしいほど肝が太く、三人がいずれ分かり合えると信じている節がある。

「ご飯、けっきょくどうしたんですか」

「しょうがないから一緒に食べたよ。人生における食事の回数なんか限られてるのに、貴重な一回を無駄にした。美味しく食べてやれなくて、お弁当に申し訳なかったね」

「むっつり押し黙って食べた?」

「いや。目黒がやたら話を振ってきたから、なんだかんだ喋りはしたかな。楠原の奴、私のお弁当にアンパンマンのふりかけが入ってるのを見て、なんか知らないけど受けてた。旨いんだから馬鹿にするなって言ったら、いや馬鹿にはしてない、だって。ちょっとあいつのご飯にかけてやったら、確かに旨いって認めたよ。当たり前だろ。生意気に唐揚げなんか食ってたから、ふりかけと引き換えにひとつ徴収してやった」

 実は仲が良いのではないかという気がしてきたが、怒り出しそうなので指摘はしなかった。なにかエピソードが追加されないものかと期待して黙っていると、琉夏さんは続けて、

「あとは当然、模試の話もしたよ。古文がさ、手塚治虫に出てきそうな鼻のでかい坊主の話だったのね。そいつが池のほとりに、何月何日にここから竜が昇天しますって札を立てるんだよ」

 偶然の符合なのだろうが、ぐっと興味を引かれた。「竜ですか」

「そう。噂はあっという間に広まって、あちこちから見物人が集まってくる。これは本当に竜が現れるんじゃないかって雰囲気になってくる」

「坊主はなにか根拠があって、その札を立てたんですか?」

「いや、ぜんぜん。鼻のでかさを周囲に馬鹿にされてむかついたから、悪戯でもしてやるかって気になっただけ。つまり出鱈目。だったら竜なんか出るわけがないじゃん。でも芥川龍之介がこの話をもとにして書いた小説では結末が違って、ちゃんと現れるんだって。これは楠原が言ってたんだけどね」

「なんで芥川版では出るんでしょう? 明確な意図があって改変したんですかね」

「落ちを付けるためじゃない? 坊主はあの札を立てたのは俺だった、ただの悪ふざけだったって言って回る。でも誰も悪戯とは信じませんでしたとさ、で芥川版は終わる。このほうが分かりやすいと言えば分かりやすいから」

 話が一段落したところで、私は酒入さんからの依頼について打ち明けることにした。前のめりに引き受けると答えてしまった手前、肝心の探偵が興味を示さなかったらどうしようかと思ったが、幸いにしてすぐに頷いてもらえた。

「なるほどね。幼少期に見た幻のドラゴンか。とりあえず、その依頼人と会ってみたい」

 スマートフォンに連絡を入れてみると、酒入さんは数分で部室へとやってきた。図書室で待機していたのだという。すみません、よろしくお願いします、と連発しながら、琉夏さんの正面に着席する。

「どこから始めよう。そうだなあ――まずは酒入さんの見たドラゴンが、現実の存在だったのかどうかから」

「いきなり疑うところからなんですか」

 という私の指摘に、琉夏さんはかぶりを振ってみせ、

「疑ってるわけじゃない。見たこと自体は真実だと思ってるよ。でもそれが酒入さんの脳裡にだけ生じたヴィジョンなのか、あるいは他の誰かにもそれを目撃する機会があったのか、実際に第三者が目撃したのかってあたりが気になってる」

「分かるような、分からないような」

「ちょっと具体例を挙げてみようか。酒入さん、裸眼の視力はどのくらい?」

 彼女は片手で眼鏡の位置を整えながら、「かなり悪いです。特に左目は〇・一以下ですね。それに乱視で」

「ありがとう。眼鏡を外した状態で、夜の街を歩くする。信号や車のライトはどういうふうに見える?」

「何重にもだぶって見えますね。ぶれてるというか、滲んでるというか」

「で、眼鏡をかければその世界は消える。でもだぶって見える世界だって、酒入さんにとっては現実なわけでしょう。実際には月が八個だったり、信号機の灯りが二十個だったりはしないわけだけど、そう見えている、という事実は否定できない」

 酒入さんはやんわりと、「当時は視力、悪くなかったですよ」

「そうかそうか。私が言いたのは、人それぞれ見えてる世界が違うってこと。正体見たり枯れ尾花、じゃないけど、実際にはまったく違ったものを脳内で補完して、竜として認識してしまった可能性はあるよね?」

 やり取りを聞きながら私は腕組みし、「でも少なくとも、お祖母さんにも竜は見えていたんじゃ? 見せてあげる、と宣言して見せたわけだから」

「その場合、お祖母さんには視覚トリックを引き起こせる確信があった、のほうが正確かな。とりあえずこの仮説について、酒入さん自身はどう思う?」

「――見間違いだったかもしれない、とは何度も考えました。でもかなりはっきり、竜の形をしていた覚えがあるんですよね」

「映画で見たとかアニメで見たとか、そういう記憶の混在でもないんだよね?」

 この私の問いかけにも、彼女は首を振って、

「現実の記憶だったと思う。家にあった絵本とか、古いビデオとかも、いろいろ見返してみたんだよ。でもやっぱり違った」

 ふと琉夏さんが屈んだかと思うと、足許の鞄から袋入りのグミを取り出した。私たちにひとつずつ配り、残りは自分で抱え込んで食べはじめる。彼女は大の甘党で、この種のお菓子を常備しているのだ。

「じゃあ物質として竜が存在したって方向で考えてみようか。それは酒入さんとお祖母さんしか知らないものだったのか。それとも他の人たちにも知られていたのか」

「知られてたら騒ぎになりませんか」と私。

「そうとも限らない。ごく当たり前に日常に存在するものだったのかもしれないよ。たとえばだけど、動物園に大蜥蜴がいるのは当然だし、博物館に恐竜の化石があっても誰も驚かないでしょう。でも初めて見た子供はびっくりする」

「だけど現場は砂地だったんですよね。ということは屋外。屋外に当然のように竜がいるって、どういう――」言いかけて、はっとした。「――分かったかも」

「ほんと?」酒入さんが身を乗り出してくる。「志島さん、聞かせて」

「お祖母さんに何度も連れていってもらえる距離にあって、屋外で、砂地で、竜の形をしたものがあっても不自然じゃない場所。公園じゃない? つまり竜の正体は、公園の遊具だった」

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