自分の意志で

「砂蒸し温泉、めっちゃ楽しみだな~。鹿児島でのホテルでしかやれない気がする!」

 と信弘が言い、

「圧迫感すごそうだよね」

 と亜黒が返す。

 ホテルに着き、班の男子メンバーの僕、亜黒、信弘は、ドアを開ければきいぃと音がするほどの古めの和室で着替えのジャージを準備しながらそんなことを話していた。とはいっても、僕は二人の会話の輪にはなかなか入れなかった。


 タイムリミットが、近づいている。


 僕も二人に合わせて、バッグからジャージを出す。それでも、僕はこのまま二人に大浴場までついていくつもりはない。これからのことを考えると、自分を簡単に傷つけられるのはこの時間以外にない。

 ホテルに着いた後はすぐに大浴場に行き、食事へと移る。その後は自由時間となる。就寝時間を過ぎて、先生が見回りにくる中自分を傷つけるなんてリスクが高い。僕は誰にも見つけられずに、この腕を切りたかった。

「じゃ、行くか!」

 そう信弘が言って立ち上がり、亜黒はそれについていき、僕も後ろをついていく。二人はスリッパを履き、僕はその様子を一段上から見ている。

「今日忘れ物した奴は、明日草むしりの刑の可能性があるってよ!」

 信弘は亜黒に振り返って、きいぃとなるドアを開けながら楽しそうに話す。

「そりゃ大変だね」

 亜黒も気楽に返す。僕だけ、仲間外れにされていく。

「ね、ねえ……」

 その二人に、僕は後ろから声をかける。二人がこちらを向く。

「えっと、ちょっとトイレ行ってるから、先に行っててくれない? 先生に訊かれたらトイレ行ってるって言ってくれないかな?」

「ああ、いいよいいよ」

 信弘がそう返す。

「じゃ、これ鍵ね」

 そう亜黒が言って、僕の持つジャージの上に部屋の鍵を置く。二人は廊下に出て、ドアを閉めた。

 

 さっきまで信弘と亜黒の声でにぎわっていた和室が、あっけなく静かになった。

 明るい声は廊下から聞こえてきて、誰も部屋で一人になっている僕には気付かない。

 僕は床にジャージと鍵を置き、畳へと足を踏み入れる。誰もいなくなった和室で、畳の上を歩く音だけが嫌に耳に付く。

 部屋の隅に置いたバッグから、僕は筆箱を取り出す。チャックを開け、シャーペンや消しゴムや定規の下に、それは隠されている。

 僕はそれに手を触れただけで、血の気が引いていく。

 僕は誰もいない部屋の中であるというのに、変に周りを気にしてしまう。

 本当に誰にも見られない場所に行きたくて、それを抱きしめて僕はユニットバスの部屋に入る。鍵を掛け、これで誰にも邪魔されない、と僕は一息つく。

 僕はドアに向かい合ったままうつむく。木の皮が剥げている個所や、きれいに並んでいるのか疑問になるタイル張りの壁が目に入る。そのまま僕は、それを握りしめる手を緩める。

 そこには、美術の授業用で持参する、黄色いカッターナイフがある。

 これから、僕は自分の意志で自分を傷つけないといけない。そうしなければ、僕は亜黒と会うことはできず、罪を背負った人間に戻ってしまう。

 僕は裸足で白い床を移動して、右にある空のバスタブに向き合う。

 僕は親指で、カッターナイフの刃を出す。

 カチカチカチカチ……。その音と連動するみたいに、僕の手は震えていく。

 左腕の袖を捲り、腕を出す。その上にカッターナイフの刃を当てる。

 冷たい感触がして、僕の体中の血管の動きが止まったような気分になる。

 うまく、手を動かすことが出来ない。

「ね、ねえ、ハイイロさん……」

 震える声で、縋るように僕はハイイロさんを呼ぶ。

「なんだい?」

 いつの間にか、ハイイロさんはバスタブの縁に座っていて、僕を振り返っている。

「腕を切ったら、ここでこうしていたことも、なかったことになるんだよね」

「ああ、そうだね。あんたがそうすれば、あんたは大浴場にあの二人と一緒に向かったことになるだろうね」

「わ、分かった……」

 僕は腕の上に当てられるカッターナイフにずっと目を向けながら、答える。

「訊きたいことは、それだけ?」

「うん……」

「そ、じゃあまたね」

 そう言って、ハイイロさんは消えた。

 それが分かっても、まだ自分の腕を切るのが怖くて、何分も躊躇っている。

 何回もゆっくりと刃を腕の上で走らせ、そのたびに体が拒否反応を起こしている。

 そうだ、と、僕は小学生の頃を思い出す。

 あの時、自分の頭に鋏を突き付けた事。それをお母さんに止められたこと。

 小さい頃、自分を傷つけようとしていたことは、数えきれないほどあった。だから、僕は本当の自傷行為の痛みなんて、目の当たりにしたことがなかった。でも今は、この痛みに向き合わなければならない。あんたが小さい頃にしようとしていたことは、こんなに残酷なことなんだと、罰欲センサーから言われている気分だった。

 すると、部屋の外、廊下の奥から、足音が聞こえてきた。

 誰か、先生が僕を探しに来たのだと分かる。僕がこうやって迷っている間、何分も経っているのだ。さすがにおかしいと、気付き始めるのは当然だ。

 迷っている時間なんてない。

 それでも、僕はどうしようもない焦りに駆られる。

 カッターナイフと左腕が馬鹿みたいに震えている。

 早く、早く、早く、早く……。

 そう焦っている中、僕は思う。

 僕は、僕が嫌いなんじゃないのか? 

 僕は、僕が憎いんじゃなかったのか?

 こんな感情的になってしまう人間でなければ、亜黒を殺すことなんてなかったんだ。どうしようもない罪に追われることなんてなかったんだ。これは、全部全部自分のせいなんだろう⁉

 こんな自分が、恥ずかしくないわけない!

 そう思ったから、僕はこの魔法を使うことを選んだんだろう?

 自分を傷つけて、何もかも真っ白な自分からやり直して、告白をやり直して、あの日亜黒を殺してしまった自分を上書きするんだろう⁉


 そんな思いが浮かんでは弾けていく中、ぷつんと、頭のどこかで理性がちぎれた。


 気づけば空のバスタブの中は血まみれで、白い床には、僕の血がこびりついたカッターナイフが投げ出されている。僕は膝から崩れ落ちて、左腕をバスタブの縁に置く。バスタブの外側に涙のように血液が伝っていく。

 きいぃ、と、部屋のドアが開かれる音がする。

 僕は、ユニットバスの部屋のドアのノブを確かめ、ちゃんと鍵を閉めているのを目にとめる。後は、罰欲センサーが発動するのを待つだけだ。

 こんこんこん、と、鍵を掛けたドアのノックが鳴り、僕の呼吸は荒くなっていく。

「眞白くーん、ちょっと遅くなーい?」

 詩織先生の声だと、僕は気づく。

 早く、早く発動して! と、僕は目をぎゅっと瞑りながら願う。

 ドアのノックが聞こえるたび、声も発することが出来ないくらい心臓が暴れていく。

「眞白くーん、大丈夫?」

 お願い、お願い……。

 すると、ドアのノックがピタッと静まった。

 僕は目を開け、思い出す。事故に遭って、あの車の中にいた、時間が止まった人のことを。

 また、時間が止まったの? ということは……。

 僕の思った通り、バスタブの外側を伝う血が、淡く光り始めた。

 そして、そこから赤い糸が生え始める。バスタブからも、うじゃうじゃと赤い糸が溢れ出してくる。糸は白い床を真っ赤にし、タイルの溝を走り、ドアノブに絡みつき、この部屋の中を丸ごと覆っていく。いつの間にか、ユニットバスだった部屋はペンキで塗り固められたみたいに真っ赤になっている。

 赤い糸は僕を膝から覆っていき、体を丸ごと飲み込んでいく。そして何も見えなくなっていく。全部、全部赤い色に染められ、事実が塗り替えられていく。

 僕は初めて、初めて自分で自分を傷つけたのだ。

 達成感とも安堵とも似つかない感覚に浸かりながら、僕は目を閉じた。


 朝、気づけば僕は、ジャージ姿で和室の布団で目を覚ましている。

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