お嬢さまは血塗られた大人の世界を知らない

明日乃たまご

Ⅰ章 英雄の子

第1話 お嬢さま、脱走!

 ――ズンズンチャッチャ、ズンズンチャッチャ、ドゥーン――


 アップテンポの音楽が大音響で空気を震わせる室内……。無数の小さな照明が色を変えながら忙しく点滅を繰り返す。


 その中央で、本宮もとみやルミルが10人ほどの友人と踊っていた。


 ただ踊るだけだ。音楽が大きすぎて声は届かない。それでも、仲間と一緒に踊るのは楽しい。同じ場所で同じリズム、身体を動かすだけで、心の波が同調する。


「ヒャッホ―」


 ルミルは心のままに叫んだ。その時だ。音楽が止まり、照明の点滅も止まる。一緒に踊っていた友達の立体映像も消えた。そこは緑色一色のバーチャルスタジオだった。


「何をするのよ、ママ!」


 ルミルは吠えた。視線の先には出入り口に立った母、鈴木杏里すずきあんりの姿があった。彼女はれっきとしたルミルの母親で、従業員120万人を抱える宇宙発電企業スマートエナジーテクノ社、通称SETの経営者だ。ルミルと杏里の苗字が違うのは、ルミルが父親の本宮地大もとみやちひろの姓を使っているからに過ぎない。子供は18歳までに、父親の姓と母親の姓のどちらを使うのか、決めればいい。それがこの時代のルールだ。


「ルミル、たまには、まじめに勉強したらどう?」


 いつの時代でも、母親というのは子供の機嫌を損ねる天才だ。それは、子供が母親の機嫌を損ねる能力と同等なのだけれど、親子共にそのことに気づくのは難しい。


 本宮ルミルは17歳。家庭は裕福だが、本人は体力、知力、女子力共に普通の女子高生だった。何をもって普通というのか、ここでは問題ではない。とにもかくにも、彼女は現代社会というゲームの参加者の一人だ。


「ママ、勉強、勉強ってうるさいわ。友達と遊んでいる時ぐらい、自由にさせてよね」


「やることをやったら自由になさい。まずは昼食よ」


 杏里は先に立ってダイニングルームに向かう。


「みんな、また後でね」


 ヘアピン型ウエアラブル端末にむかって別れの挨拶を投げる。


『ホーイ』『またね』『いっちゃうのぉ』『バイバイ』


 友人の声を聞いた後、端末をインターネットラジオに切り替える。脳内に送られてくるラジオの音楽は、お気に入りのロックバンドの最新アルバム曲だ。


 夕食は大好きなハンバーグだった。それを胃袋にかき込むと、母親の顔を見なくて済むように2階の自分の部屋に逃げ込んだ。機嫌を悪くしても、母親の言うことが間違っていないことは理解している。理解できるからこそ、心が荒れる。


「問題は話すタイミングと言い方なのよ」


 ルミルは自分を正当化しながら学習端末のスイッチを入れて、社会科学のテキストを開いた。そのテキストには、地球環境の回復に努めなければならないとか、異種族との文化交流を図って理解を深めなければならない、といった堅苦しい文字が並んでいる。


 オゾン層の破壊と温暖化の影響で地球環境が悪化したのは人類の罪だが、それはルミルにとってはゲームで与えられた既存のステージだった。ルミルが嘆いたところでステージが変わるわけではない。


 オーヴァルと呼ばれる異種族は、20年ほど前から地球上のゲームに突然参加した人工生命体で、人類とは3年に及ぶ戦いが繰り広げられた。結果、人類とオーヴァルの間で和解が成立したが、その戦いで人類は40億の命を失っていた。


 人類は大きな犠牲を払ったが、その代償として手に入れたオーヴァルの森によって、世界中の砂漠や有毒物質による汚染地帯の環境が改善し、地球は復活しつつある。


 学習端末の記憶支援ソフトはインターネットラジオの音楽を強制的に止め、ずかずかとルミルの頭に踏み込んで、真っさらな脳細胞に、政府公認の知識を強制的に書き込む。そうした機能は、いつも正論を振りかざす母親の真面目な顔と重なった。


「異種族の文化なんて、たったの20年前に始まったばかりじゃない。もともと、誰がこんな世界をつくったのよ」


 ルミルの疑問に学習端末が応えることはない。


 大人は自分たちの失敗を棚に上げ、その後始末を子供たちに押し付けているのだと思うと、また腹が立った。


 学習端末の隣には、オーヴァルの木で作られた高さ20センチメートルほどの人形がある。それは父親がオーヴァルの国を旅した時の土産物みやげもので、その姿は人間と全く変わらなかった。大人のオーヴァルは身長2メートル以上もある獣のような迫力ある姿なのに、その赤ん坊は、人間の赤ん坊同様に可愛らしかった。


 ルミルは人形を手に取った。見た目に可愛らしいオーヴァルの赤ん坊だが、その性格は凶暴で人を襲うこともあるという。


「都市伝説よね。こんなちびっこにびくつく方がおかしいわ」


 ルミルは人形を置いた。そして、自分が母親にびくついているのだと気づいた。


「もう、ママったら……」


 腹の底から熱い憤りがふつふつと湧き上がってくる。


 気持ちのコントロールができなくなったルミルは、セキュリティーを切って窓を開け、スカートをひるがえして屋根に出た。勾配のきつい屋根を猫のようにスルスルと軒先のきさきまで下りてから、雨どいを伝って庭に下りた。


 §


 庭のセキュリティーセンサーが反応して、ルミルの脱走風景は母親のウエアラブル端末に届けられた。「またか……」と杏里はため息をつく。休日は娘とゆっくり話し合って愛情を育みたいと思うのだが、顔を合わせるとついつい小言が先に口を出て、親子の間には反発しあう空気が生まれる。娘の言うことにも耳を傾けなければいけないと分かっていても、ルミルの反抗的な態度が次の小言の原因になってしまう。


 §


 広い庭では、セキュリティーロボットのが花壇を作っていて、仲のよい老庭師夫婦のようだった。季節は秋で、来春のためにスイートピーや菜の花の種をまく準備をしているのだ。ちなみに、シンゴさんとアサさんというのは、名前ではなくの製品名だ。


「ルミル様、どちらへ?」


 人のよさそうな顔のアサさんが駆け寄ってきてたずねた。


向日葵ひまわり叔母さんのところに行ってくるわ」


 ルミルは正直に応えてシンゴさんとアサさんに手を振る。


 向日葵は杏里の妹だ。杏里が真面目で几帳面なのに対して、向日葵は明るくおおらかな性格だった。言い換えれば、能天気でアバウトだ。ルミルは、そんな叔母の性格が自分と似ていると感じていて、母親より親近感を覚えている。


 寡黙なシンゴさんは立ち上がっただけで、広い庭を横切るルミルを見送った。


 ルミルは大きな車庫から自分のドローンを引っ張り出して飛び乗った。それを動かすには、行先を命じるだけでいい。


「向日葵叔母さんの家に行ってちょうだい」


『かしこまりました。離陸準備をしますので、シートベルトの装着をお願いします』


 ドローンに搭載されたオートパイロットシステムは母親のような堅物で、簡単には言うことを聞いてくれない。ルミルが妥協してシートベルトを締めると、ドローンは六つのプロペラを前後左右に展開して離陸した。


 ドローンは50メートルほどの高度を時速30キロで飛んだ。ルミルのドローン以外にも、数台のドローンが飛んでいる。それを持っているのは裕福な人間たちだ。


 秋の景色は美しかったが、空気は冷たく部屋着で飛び出したルミルを後悔させた。


 その日、ルミルの運は悪かった。薄暮の中、ドローンの進路にムクドリの巨大な群れが現れたのだ。それでも、進路をドローンのオートパイロットシステムに任せておけば問題はないはずだったが、若さに任せて「突っ切れ!」と命じたものだから、ドローンとムクドリの群れは正面衝突することになった。


 周囲をムクドリに囲まれてからルミルは慌てた。


「あっちへ行って」


 手を振って追い払おうとしたが無駄だった。


 オートパイロットシステムは機体を上下左右にコントロールして懸命に小鳥との衝突を回避したが、パニックに陥ったムクドリたちが無茶苦茶に向きを変え、数羽がドローンのプロペラに巻き込まれ、その一つを止めてしまった。


「あら、たいへん」


 言ったものの、ルミルは落ち着いていた。

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