第二十九話

 私は覚悟を決め、忙しく鳴り響くタイピングの音を両耳に課長のもとへ。

 一歩一歩、前に出す足が重く、課長の席が遠い。

 息を呑み、震える手を震える手で抑え、うるさい心臓の鼓動音を体全体で感じ、視界がぼやける中、やっと課長の席に着いた。

 課長は私に気付くと、仏頂面で目だけをこちらに向ける。


「何かね? 休んでいたことを謝るつもりなら、全てが片付いてからにしてくれ」


 覇気のない声で淡々と言葉を紡ぐ課長。

 二秒後には、課長の瞳はパソコンの画面を映していた。


 顔、首、肩は固まったように動かず、手だけが高速に動き、キーボードが叫ぶように音を鳴らす。私など相手にしてられないといった態度だ。

 いつもの私ならここで引く。だが、今日の私が違う。

 覚悟を持ってこの場に来た。後には引けない。


「ふぅ」


 軽く息を吐き、手汗で少しふやけた紙を無言で課長の視界に入れる。

 同時にキーボード音が消え、課長が難しい表情で顔を上げた。


「な、何だねこれは?」

「退職届です」


 私は震えながらも、課長の顔を見つめ、噛まずにハッキリそう言い切る。


「……は? 退職届だと⁉」


 私の言葉に、課長は一瞬ポカーンとした表情を見せ、回らない頭を回し理解すると、立ち上がりオフィス中に響き渡る声で叫んだ。

 その瞬間、オフィスに響くタイピング音が死ぬようにピタッと止まり、反射的に皆がこちらに視線を向ける。仕事より私と課長の会話が気になって仕方ない様子。

 そのせいで、オフィス内は謎の緊張感に包まれ、怖いぐらいの静寂が流れる。


「日高、会社が今どんな状況か分かっているだろ?」

「はい、分かっています」

「なら! なぜ今このタイミングで退職届なんて出すんだっ!」


 課長は鬼形相で私を睨め付け、自分のデスクに退職届を叩きつけた。

 その行動に私の体はビクっと跳ね、血の気が引き、富士山の山頂ぐらい息苦しくなる。


 恐怖で課長の顔なんて見てられない。

 前から聞こえてくる荒々しい鼻息だけでも、頭がおかしくなりそうだ。


「何とか言えっ、日高ぁぁぁぁぁああっ!」


 怒鳴り声と同時に、首を無理やり掴まれ、私の顔は自動的に上がる。

 掴む力は物凄く、首に電気が走るような痛みを感じ、呼吸は更に苦しさを増した。

 私は恐怖のあまり声が出ず、首を絞める課長の腕を必死に叩くことしか出来ない。


「……うっ……」


 何とか出た私の声にもならない苦しむ音に、課長は何か察したのか「チッ」と舌打ち。

 私を地面に突き飛ばす。勢い良く尻餅をついた私はすぐには立てなかった。


「ゲッ、ゲホゲホ……」


 首の絞め付けから解放された反動で激しい咳が止まらない。

 手足には全く力が入らず、心臓は今にも破裂しそうなほど大きく波打っている。

 怖い、苦しい、辛い。

 そんな言葉が頭一面を覆う。


 残念ながらこの場に私を助けてくれる人はいない。この場にあるのは絶望のみ。

 当然、覚悟はしていた。していたが、実際このような状況になると……しんどい。


「おい、日高! よく聞け」

「はぁっ、はぁ……」


 私は乱れた呼吸を整えながら、私の名前を呼ぶ課長の顔を見上げる。


「ここで働くことになった以上、勝手に辞められると困る。それに何社も落ちたお前みたいな使えない奴を、わざわざ働かしてやってんだぞ? 普通は感謝するもんだろ」


 課長はゴミを見るような瞳で私を見下げ、退職届をその場でビリビリに破って桜の花びらのように地面に散らす。紙くずとなった退職届は空気の流れに乗り、私の足元に。

 昨日書いた退職届の文字が紙くず一つ一つから目に入り、不思議と涙が溢れる。


 ――ああ、私はこの会社を辞めることができないんですね……。


 そう心の中で思い、絶望的な現実を受け入れるしかなかった。


「ほら、みんな仕事しろ」


 課長の一言で、手を止めてこちらを見ていた社員が一斉に動き出す。

 一方、私はやっと乱れた呼吸が整い、手足に力が入るようになった。

 退職が不可能だと分かったら、逆に恐怖も何もかも無くなったようだ。

 あるのは……溜まりに溜まった仕事だけ。


 私は立ち上がり、腰を落として退職届を一欠片ずつ拾う。

 回収後、静かに立ち上がり、自分の席に戻ろうと課長に背を向けた。

 その時……


 ――日高さんには自分に自信を持ってほしい!


 ――希実さんには自分に自信を持ってほしい!

 

 いきなり小好君と先生の声が脳内に雷のように走る。

 その言葉に背中を押され、反射的に手の中にある退職届の紙くずを課長に投げ捨てた。


「わ、私は今日でこの会社を辞めますからっ!」


 続けて、ガラガラな声で唾を吐くように課長に向かって叫ぶ。

 自分自身、今の行動を理解できない。抵抗したことはあったが反抗したのは人生初。


 人生の中で納得できないことは、山ほどあったが全て我慢してきた。

 なのに、今回、行動を起こしたのは、心の奥底では諦めきれなかったからだと思う。

 そしてその気持ちを表に出すよう押してくれたのが、脳内に雷のように走った二人の言葉。

 私に自信と勇気をくれた。


「あのな、話を聞いてたのか? それとも小さな脳では理解できなかったか?」


 課長のドスの効いた声で、オフィスはピリッとした空気に包まれる。

 今回の私はそんな課長から視線を外さない。

 ここまで言ったんだ。何があろうとも意地でも辞めてやる。


「課長こそ退職届を不必要な書類と間違えたんですか?」

「不必要な書類にしか見えなかったが、その紙くずが必要だったのか?」

「そうですね、必要なものです。なので、そこに散らばる紙を拾ってテープで止めて再度確認をお願いします。とても大切な私の『退職届』ですから」


 面と向かって言い合っているが、内心ドキドキで意識が飛びそうなぐらい怖い。

 ここで引けない。その理由を武器に前へ前へと突き進んでいる。

 油断すれば腰が抜けそうだ。


「……」


 私の言葉の後、課長は黙り込み、オフィス内は無音。自分の呼吸音だけが聞こえる。

 当然、その間も私は瞬きせず、課長の腐った瞳を睨みつけていた。


 とにかく攻める。私が本気だと、絶対に引かないと知らしめるために。

 今はそれしかないと思ったし、それが私に出来る唯一の行動だった。

 数秒間が数時間に感じる無言の戦い。戦場とは真逆の空間。

 その地獄に終止符を打ったのは、意外にも課長のほうであった。


「はぁ……チッ、そんなに辞めたいのか?」

「はい」

「理由は?」

「その退職届に書いてあります」

「見ての通り紙くずだ。口で言え」


 私は乾燥した瞳を閉じ「ふぅ~」と一度息を吐き、ゆっくりと瞼を上げ口を開く。


「理由は、異常な労働時間、上司のパワハラ、それと私に夢が出来たからです」

「……」


 その言葉に課長は、視線を左右に揺ら揺らとさせ、何も言えないのか唇を嚙み締める。

 他の社員は「えっ?」「うそ……」「マジかよ」と言った言葉をヒソヒソと交わしていた。


 もしかしたら、私以外は何も酷いことをされてなかったのかもしれない。

 かもしれないじゃない絶対にそう。私だけがそのような扱いを受けていた。

 今更、驚くことでもない。まず今となってはどうでもいいこと。

 会社を辞めれば、関係なくなるのだから。


 今後、他の社員が受けたところで、この場でパワハラは既に共通認識されている。

 それぞれ助け合い、酷い目には合わないはずだ。


「課長。私の退職を認めてくれますよね?」

「……ああ」


 課長は少し考えた後、目を合わせることなく、小さな声で肯定した。

 私はやっと肩の力が抜け、ホッとしたのか自然と頬が緩む。

 最後に課長に向かって一礼。酷い扱いを受けていたとはいえ、働かせてもらったんだ。

 一応、感謝はしておきたかった。


「ふぅ……」


 やっと解放される。全てが終わった。

 そう安堵し、帰り支度のため席に戻ろうとした時、一人の男性が声をあげる。


「おいっ! なーに勝手に辞めてんだよ!」

「えっ?」


 声がしたほうを振り返ると、あのパワハラ上司が怒り狂った表情でこちらに走ってきていた。

 私は慌てて逃げるが、足が思ったように動かない。

 先ほど課長とバチバチにやり合い、恐怖していたせいで足がガクガク。

 そうこうしているうちに、パワハラ上司に右手で肩を掴まれ、デスクに体を押し付けられる。


「なぁ、俺様の仕事が終わってないよな? 終わるまでは何があろう俺様は辞めさせんぞ?」

「い、いいい、嫌です」

「だまれぇぇぇぇっ! お前が決める権利なんてねぇーんだよ、ガキがっ!」

「……」

「あん? 何だよ、その顔は? 喧嘩売ってんのか、こらっ!」


 その言葉と同時にパワハラ上司は左手を振り上げ、拳を握って振り下ろす。


 ――なっ、殴られる⁉


 目の前の光景に恐怖で目を閉じた。

 しかし、数秒経っても、なぜか振り下ろされた手は顔面を殴ってこない。

 それどころかパワハラ上司の右手は、私の肩をゆっくりと離す。


「おい、オッサン。日高さんに何手出そうとしてんだよ。今すぐ離れろ」


 聞き覚えのある声が耳に入り、恐る恐る瞼を上げる。

 すると、そこにはパワハラ上司の左手を掴む小好君の姿がった。

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