第4話

 月曜日の朝は、慌ただしかった。

 週末に取引先に搬入した商品で、不具合が発生したのだ。

 深津は上司である部長の米山と一緒に取引先を訪問して、これでもかと頭を下げて回った。


「頭を下げすぎて腰痛が悪化したよ」

 取引先からの帰り道、営業車の中で米山が笑いながら言った。

 運転席に座るのは深津であり、米山は助手席に座っている。


 今回の不具合は大事には至らなかったことから、取引先も米山と深津の謝罪で許してくれた。だが、一歩間違えば損害賠償請求に至るような不具合であったため、気を引き締め直す必要があった。


 会社に戻ると、不具合を起こした製品の開発担当者たちを会議室に呼び、今回の不具合の原因究明と今後の不具合修正についての話をした。


 あっという間に時間は過ぎていき、気づいたときには夕方になっていた。


「あー、疲れた」

 独り言をつぶやきながら、深津は事務室の入り口にあるコーヒーメーカーから自分の湯呑み茶碗にコーヒーを注ぐと、それを持って自席へと戻った。


 その様子を見ていた部下の今埜こんのレイカが、険しい顔をしながら近づいてきた。

「課長、湯呑でコーヒーを飲むのはやめてくださいって、いつも言ってますよね。何のために、わたしがマグカップを買ってあげたと思っているですか」

「あ、ああ、すまない。今度から気をつけるよ」

 深津は今埜レイカの気迫に押されながら、苦笑いを浮かべて席についた。


 今埜レイカからもらったマグカップは机の二段目の引き出しに入っていた。もらった時に一度だけマグカップを使った。使ったのは、その一度きりだった。悪気はなかった。ついつい、マグカップの存在を忘れてしまい、習慣的に湯呑でコーヒーを飲んでしまうのだ。


 自席のパソコンで書類に目を通していると、別部署との打ち合わせを終えて戻ってきた男性社員が深津に声をかけてきた。

「あ、課長。課長が席を外している時に、サクマさんって方から電話がありました」

「サクマさん? またか」

「席を外していると伝えたら、また連絡をすると言って電話を切られましたが」

「わかった。ありがとう」

 深津はそういってから、しつこく電話を掛けてくるサクマという人物について考えていた。電話を掛けてきているサクマという人間が、自分の知る佐久間だとすれば、なぜ今になって電話を掛けてくるのだろうかという疑問がある。もう、佐久間は自分には用はないはずだ。


「――――です、課長」

 声をかけられたことで深津は我に返った。

「え?」

「もう、終業時刻ですよ」

「あ。おお、もうそんな時間か」

 深津は慌てて腕時計に目をやり、時間を確認する。


 余計なことを考えていたせいで、時間が経ってしまっていた。

 今日中に終わらせなければならない仕事は、すべて片付いていた。

 パソコンをシャットダウンさせると、深津は席を立ち上がった。

「おつかれさま」

 まだ仕事をしている課員たちに声をかけながら、深津は職場を出た。


 会社の玄関を抜けると、目の前にあるガードレールに見覚えのある顔の男が腰を下ろしていた。色の濃いサングラスを掛け、茶の革ジャンを羽織った、無精ひげの男だ。

 男は深津の姿を認めると、火のついていない煙草を口に咥えたままの状態で、愛想のいい笑顔を向けてきた。


「ご無沙汰してます、深津さん」

 男はガードレールから腰を上げ、深津に対して頭を下げた。


「どうして、私の前に姿を現すんだ、佐久間さくま

「そんな冷たい言い方しなくても、いいじゃないですか」

 深津は、男――佐久間の言葉を無視すると、駅の方へと歩きはじめた。

 佐久間は無言で、深津の後をついてくる。


 駅までの道のりは、深津と同じように背広姿のサラリーマンが圧倒的に多かった。

 だが、佐久間の姿が目立っているというわけでもない。佐久間は深津の後ろを歩きながらも、自分の気配を消して、まるで空気の様に周りと同化していた。


 駅に着き、定期券を取り出そうと鞄の中へ手を入れたところで、佐久間に腕を掴まれた。強い力ではなかったが、簡単に振りほどけるような力でもなかった。


「待ってくださいよ、深津さん」

 周りに聞こえないぐらいの小声ではあったが、佐久間のその声は低く妙な響きがあった。


 深津は動きを止めていた。腹の奥底から、忘れかけていた何かが湧き上がって来ようとしていた。だが、その湧き上がって来ようとしているものが何であるかわかった途端、気持ちは冷めていた。

 いや、冷めさせようと、深津は自分の感情を押し殺した。


「放してくれないか」

 その言葉に、腕を掴んでいた佐久間の力が弱まった。

 佐久間を睨みつけるような目で見たが、佐久間はその視線を無表情のままで受け止めていた。

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