第三章:決別

第26話

 その日、一颯は朝早くからエルトルージェに呼び出された。


 場所は、同じマンション内のとある一室の前。


 人手がどうしてもほしいから協力してほしい、という端的なメール内容だったが、協力を要請していることになんら変わらない。


 先輩の頼みだ、一颯としても拒む道理は特になくこれを快く承諾した。


 肝心の内容については、まだ明かされていない。


 いったいこれから何をさせられるのだろう。なんだか悪い予感がしてきた……。一颯は難しい顔をして、エルトルージェが来るのも静かに待った。


 もうすぐで待ち合わせ時間になろうとした、その時。



「おっはよーいぶきちゃん!」



 もはやすっかり馴染みとなった元気で明るい声の主が、ぱたぱたとやってきた。


 相変わらず今日も元気そうだ。一颯は小さく手を振って返した。



「おはようエル……ちゃん。今日も元気そうだな」

「当然! 私はいつでも元気だよー! それに、あのへんなコメントもすっかり来なくなったからね」



 屈託のない笑みをする辺り、本当に嬉しいのだろう。一颯も釣られて笑みをわずかに浮かべた。



「――、それは何より。変なコメントをする輩は、なんであんな風にするのやら……」

「う~ん、多分目立ちたいとか、どうしても自分のコメントを見てほしいとかからじゃないかなぁ」

「あぁ、やっぱりそういう?」



 エルトルージェをはじめとするドリームライブプロダクションのVtuberは全員人気だ。


 その分当然、大勢の視聴者も配信にくるわけであり、コメントもあっという間に流される。


 如何にして自分のコメントを見てもらうか、それを解決するのがスーパーチャット機能なのだ。


 この機能使わずして目に留めるには、よっぽど注目を集めるような内容にする必要があるし、しかし絶え間なく流れるコメントでは不可能に近しい。


 自分のコメントを読んでもらう、ただそれだけのために結果悪意あるコメントとなってしまうのだ。


 安くてもスパチャすればいいものを……。タダでアイドルにコメントを読んでもらおう、などという考えこそが愚かなのだ。



「まぁ、今後更に減るんじゃないか?」

「そうかなぁ……でも、私もなんとなくだけどそう思う。だって、いぶきちゃんがいてくれるもん」

「いや、俺がいたからってアンチコメとかが減るわけじゃないと思うけど……」

「え~? でも、ホラここ。掲示板とかじゃいぶきちゃんが何かやったんじゃないかって噂だよ?」

「……え?」

「ホラ」と、エルトルージェが出したスマホを一颯は食い入るように凝視した。




56.名無しの視聴者 2023年YY月12日 10:45


ここ最近、めっきり変なコメ見たくなったなぁ。



57.名無しの視聴者 2023年YY月12日 10:52


いぶきちゃんが手を回したんじゃね? だって秘密結社の一員で執行人だし……。

え? もしかしてアンチコメしてた人、物理的に消された?



58.名無しの視聴者 2023年YY月12日 11:11


SNSとか見てたけど、アンチコメしてたことがバレて会社で降格したとか、人から避けられるようになったとか、そんな投稿ちらほら見かけるようになったような気が……。



59.名無しの視聴者 2023年YY月12日 12:00


つまり、アンチコメしたらいぶきたんに……天啓が、きた!



「な、なんだこのコメントは……」



 一颯は驚愕から目を丸くした。


 恐らく彼らも本気とは考えてすらいない。


 たまたま、“夜野よるのいぶき”の設定がそう連想させたにすぎない。


 しかし、これはいささか落ち着けたものじゃない。なにせコメントの内容はすべて事実であるのだから。


 少しばかり派手に色々とやりすぎたか……。情報者を使っての個人情報特定から暴露と、今月に入ってかれこれ100件以上となる。


 アンチコメントが落ち着いているのなら、今後は少し時間をおいてもいいだろう。一颯は判断した。



「――、さすがにここに書いてる内容は俺じゃないな。確かに前に自分の配信でそれっぽいことは言ったけど、俺の言葉を聞いて動いた誰かの仕業だと思ぞ?」

「な~んだ、そうなんだ。でも、いぶきちゃんが守ってくれるのは本当だからいいんだけどね」

「その期待に沿えるよう頑張らせてもらうよ――ところで、今日俺はいったい何をしたらいいんだ?」



 一颯は早速本題を切り出した。


 内容については、先にメールでも尋ねている。その時の返答は一言だけ――来たらわかる、と。


 たったこれだけの短文を最後に、一抹の不安を抱えながらの起床はあまり清々しいものじゃなかった。



「ゴメンねいぶきちゃん。だけど、いぶきちゃんが知ったら逃げるんじゃないかなって思っちゃって……」

「……え? そんなにヤバい内容なのか?」

「ん~……まぁ、とりあえず入ったらわかるよ! ほら、百聞は一見に如かずって言うし!」

「……まぁ、とりあえず入ってみるか」

「それじゃあ、はいコレ」

「……これは?」



 一颯は思わず尋ね返した。



「いぶきちゃんの家、前に行った時見当たらなかったし買っといたよ」



 そう言ってエルトルージェが出したのは、ゴム手袋に使い捨て用のエプロン、長靴とマスク。


 そういうことか……。持ち物の内容から一颯は納得の吐息をそっと吐いた。


 箒と雑巾とそこに加われば、もはや疑いようの余地はない。



「……今から掃除するってことか?」

「そだよ」

「……それなら最初からそう言ってくれればよかったのに」

「だってぇ、多分いぶきちゃんがイメージしてるよりずっとすごいと思うよ?」

「そんなにか?」

「うん」



 あっけらかんと答えるエルトルージェに、一颯は表情かおをわずかに強張らせた。


 逃げ出すほどのゴミ屋敷を掃除するとでもいうのだろうか。だとすると、たった二人で終わるとは到底思えないのだが……。明らかに人員不足なのは言うまでもないし、他の三期生の面々が不在であることも疑問である。


 まさか、逃げたのか……? 一颯は沈思した。


 最初からゴミ屋敷を掃除するとわかって、快く引き受ける人間が果たして何人いることやら。


 それ相応の見返りがあるのならばいざ知らず、無償ボランティアで実施する人間はほんの一握りだろう。


 かく言う自分も無償ボランティアで掃除はしたくない。



「……一度はやるって受けた身だし。こうなったらとことん付き合うよ」

「えへへ~ありがとうね、いぶきちゃん!」

「――、因みにだけど。かすみとか、りんねさんとかは?」

「二人は今日は配信とかあるから無理だって。まぁこればっかりは仕方ないよね」

「そう、か。配信だったら仕方がないな」

「それじゃあ、いぶきちゃん……覚悟はいい?」



 エルトルージェの瞳に真剣みが帯びた。


 いつものワンコのような愛くるしさは鳴りをすっと潜め、あまりに真剣な言動だから一颯は一抹の不安を憶えた。


 そんなにもひどいぐらい散らかってるのか!? いったいどんな住人が住んでるのだろう。


 不安は拭えないが、しかし鬼と比べればたかだがゴミ屋敷ぐらい、かわいらしいものである。



「――、それじゃあ行くよ」



 鍵を開けて、目的の部屋の扉がゆっくりと開放されていく。


 開いた瞬間、まず一颯は顔を微かにしかめた。なんだ、この異様な臭いは……? 鼻腔を優しくくすぐる香りは大変甘ったるしく、かと言って不快感は不思議とない。アロマの類だろうか。



「足元気を付けてねーいぶきちゃん」

「……は?」



 先行するエルトルージェに続いて、一颯は言葉を失った。


 新たな住居であるマンションの一室は、高級とだけあって質が極めていい。


 そんな高級感をゴミというゴミがすべてを台無しにしていた。


 机の上にずらりと並ぶペットボトル飲料水――よくよく見やれば、全部中途半端に残っている。


 足の踏み場は、そこそこあるものの散らかっていることになんら変わらない――本音を吐露すれば、靴下であがることにひどくためらう自分がいた。


 これは紛れもない、ゴミ屋敷だ。一颯は頬の筋肉をひくりと釣り上げた。唯一配信するスペースだけは奇跡的に保たれている。


 室内を包む甘い香りという不相応極まりない臭いの元に、いよいよ警戒せざるを得ない。


 身体に有害なガスとかじゃないだろうな……。一颯はようやくエルトルージェに追い付くと、再び唖然とした。


 玄関付近の惨状がまだマシな方とは、果たして誰が想像しよう。


 これはいくらなんでもひどすぎる、むしろ部屋の住人はよくこの劣悪な環境で平然と暮らせているものだ。



「エ、エルちゃん。この部屋にはいったい誰が――」

「おっはよーこころちゃん! もう朝だよー!」

「えっ!?」

「――、それじゃあいぶきちゃん。私達でちゃちゃっと片付けちゃおっか!」

「いやいやいやいやいや! 今どう考えてもとんでもない名前出たけど!?」



 さも平然と言うエルトルージェに、一颯は激しく困惑した。


 まさかゴミ屋敷の住人が自分の先輩とは想像できないし、まず第一にしたくなかった。


 “犬房いぬふさこころ”……表ではいつもうつらうつらと船を漕ぎ、配信時では同性さえも魅了する中性的な声が印象的な犬系Vtuber――その実態がこれとは、リスナー達も想像すらしていないに違いない。


 一颯は周囲を一瞥いちべつした。


 部屋の主が誰なのかはわかった、が肝心の本人がどこにも見当たらない。



「――、ん~……眠いよぉ……」

「うぉっ!」

「あ、おっはよーこころちゃん!」


 布団からのそりとあがった右手がひらひらと力なく動く。どうやらあそこにいるらしい。


 この部屋でぐっすりと入眠できるほどの図太い神経は、どうすれば養えるのやら。一颯は頭を抱えた。

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