第十七話 布告

 あの時の手の感触が本物だったのかどうかを考える。


 もうすぐ日を跨ごうという深夜の公園。住宅街の一角の空き地を利用して作られたここは、子供たちが楽しく遊ぶためには少し鬱屈としている。四角い敷地の二辺は建物の壁がすぐそばに迫り、もう二辺は車一台がギリギリ通れるだけの幅しかない小道がある。街灯はひとつきり、遊具は申し訳程度の小さな滑り台と動物を象った乗り物だけ。鉄棒やシーソーでないところがある意味で小さな公園としての個性なのだろう。


 そんな公園の二つしかないベンチのひとつに座り、広げた自分の両手を見ていた。


 未友が私に告白したことは、私が考えるまでもないことのはずだ。事実として彼女は初めから敵だった。私を裏切るつもりで近づき、計画を練り、そして一番の好機と判断して、さっき、私の前に立ちふさがった。


 彼女らしい賢明な判断だったと思う。実際、私はほとんど死にかけていたと言ってもいいのだから。


 裏切りなんて、慣れていると言ったらおかしいかもしれないけれど、まあ慣れた感覚ではあった。それゆえに私は一瞬何も考えられなくなった。


 慣れたものというのは単純に知っているだけだ。あの感情の揺さぶりを冷静に整理することは、どれほど繰り返しても不可能だと思う。そういう意味での彼女に対する賛辞を私は持っている。


 けれど、それでも私が彼女にあんなことをすることができたのは、私にもあんなふうになってまで譲れないものがあったからだと思う。


 揺るぎない信念を持つ質ではない。生涯をかけてやりとおしたいことなんてない。夢や希望は二の次で、今をどうにかしたとしか思っていない。そんな程度の安っぽい想いでも、私にとっては確かな意志だったということだ。


 けれど、それでも、と、うつむき、額を抑える。


 囚われている、か……。


 当たり前と言えばそうだ。私はずっとあの場所を夢見てる。私にとってのフツウと家族にとっての普通が交わっていたあの場所を。


 あそこはただ単に私にとっての家でリビングというわけではない。わかってる。あそこは私がまだ幼かったころのリビングだ。カーテンの色が違う。ソファも少し古く、ローテーブルに敷かれているクロスは柄が以前のもの。つまり、私がただ純粋に自分という存在の異質さを知ることなく、両親との日々を過ごしていた時代のものだ。


 ずっと忘れていた、それでも捨てられなかった思い出。けれど、同時にもう帰りたいとは思わない。気が付いてしまったんだ、居場所なんて初めからなかったことに。


 いま、私がこの眼を使ってあの光景を視、囚われ、あそこに居続けたとして、私自身が真っ先に堪えられなくなると思う。


 思い出してしまったことがほかにもあるから。


 それは両親の、最後に見た表情のこと。わかってる。怯えていた。恐れていた。私を、私が視る眼を、どうしようもない絶望に包まれた目で見ていた。あの時はその表情を真摯に受け止めることができなかったけれど、今は違う。理解できる。そして、そのために私は戻れない。笑顔の裏側に、その表情を夢想してしまうから。私が作り上げた、過去の両親は、未来を知っているがゆえにつながり、私が堪えられなくなり、すぐに破綻する。私はもうどこに戻ることもできない。進むことができる路は前にしか用意されていないのだ。


 遠くで救急車の音が聞こえ始めた。未友の部屋に向かっているのだろうか。けれど、誰一人として助からないだろう。私がそうした。もうすべてを敵に回す覚悟はできた。だから、どれほど抗おうと誰にも一部の隙も与えてなどやるものか。


 この両手に残る彼女の首の感触は、その原初の衝動を忘れないためにある。温かみ、表情、柔らかさ、息をするときの音。すべては始まりに過ぎない。あの光景を今度は忘れまいと焼き付け、過去と今をむすび、復讐の始まりを告げる。


 携帯が鳴っている。きっとそうだろうと思った。これは未友の携帯。


 救急車の音は少し前に止んだ。であれば、彼らは気が付くだろう。そして、誘われているとわかっていながら、それでも彼らは乗るしかない。知っている、彼らがもう引き下がれないことを。理解している、叶わないとわかっていても、彼らにはほかに手段がないから、私に挑もうとすることを。


「――七星燐か?」


 電話口から聞こえるのは勧修寺のものだった。


「これは宣戦布告ととらえていいのかね?」


「はい、そうです」


「柏木くんが最後まで君を生かしたままで捕えようとしていたことは知っているのかな」


「そうだったんですね」


「そうだったんですねとはひどいじゃないか。曲がりなりにも友達だろう?」


「弔いの気持ちがないわけではないですよ。だからこその、この手法です。ところで、私のことはまだ追えていますか?」


「残念ながら。君、もしかして隠していたのかい?」


「いいえ。そうではありませんよ。ただ、そうですね、人間って覚悟を決めれば、意外と思ってもみない力を発揮するものですよ」


「そうか。それで、どうするつもりだい?」


「私はもうどこにも行くところはありません。でも、私はここで生きていく以外の方法を知らない。だから、


「言っている意味がわかっているのかな。僕もね、君が一応未成年だからという理由でそれなりに温情ある対応をしてきたつもりだけど、もういろいろと厄介ごとが溜まりすぎている。そのうえ君にこういう態度を取られては、僕だって我慢の限界だよ」


「取り繕いはもういいじゃないですか。私はあなた方を視にいきます」


「いいだろう。ならこちらもそうさせてもらう」


 勧修寺の最後の声は、震えを伴いながらも、明らかに携帯越しではない、ここにいる私に向けられたものだった。


 つまりはそういうことだ。私はこれでとうとう本当に居場所を失ったお尋ね者になったわけだ。でも、それでいい。いや、それがいい。私はこの世界から外れた場所にいる方が似合っている。


 また、携帯が鳴っている。今度は聞きなれた流行りのメロディーだった。私は自分のものを取り出した。


「はい――――

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