第十三話 協力

「上がって。いま、暖房付けるから」


 学校指定のローファーを丁寧に脱ぎ、上がり框を飛び越えて駆けていく。


 未友は親元を離れて一人暮らしをしている。もともと東京に憧れていたらしく、なんとか頼み込んで成績の上位維持といい大学に行くことを条件に了承してもらったという。


 この近辺は高校のほかに大学も多く、学生向けの安アパートはいくらでもある。とはいえ、未成年の女の子が一人で暮らしていくには、憧れだけでは埋められない寂しさや心細さがあるような気がする。芯の強い未友にとっては、そんなもの考えるだけ無駄なのかもしれないが。


「どしたの?」


 いつまでも上がろうとしない私に彼女は六畳一間から顔を出している。


「なんか、慣れなくって」


 何度か来てはいる。でも、いつまでたっても人の家は苦手だった。自分のものに決してならない誰かの空間に足を踏み入れることは、どうあっても臆してしまう。まあ、私の家なんてものはもうないのかもしれないけれど。


「いっつも少しためらうよね」


「お邪魔します」


「はい、どーぞ」


 促されるままに、扉の向こうへと足を踏み入れる。広がっているのは、相変わらず年頃の女の子とは思えないほど質素な部屋だ。


 クリーム色の無地のカーテン。柄のない布団と真っ白なシーツの、使っているのかもわからないほどきれいなベッド。しゃれっ気のない折りたたみ式のローテーブル。薄く、安っぽい座椅子。小さな本棚が一つあり、そこには教科書、いくつかの文房具が押し込まれている。個人の嗜好を表していそうなものは、フェルト生地のティッシュケースのピンク色くらいのものだ。


 急いで出てきたから持ってきた荷物はない。ポケットの携帯をいじくりまわしながら、自分の居所を掴めずに突っ立っていた。


「座りなよ。座椅子、使っていいからさ。座り心地の悪さは知ってるだろうけど」


 未友に言われてようやく行動に移せる。どことなく様子が気になっていた。道すがらとにかくいろいろなことを話したからだ。


 幻滅しているだろうか。それとも見放すつもりだろうか。とにかく、未友の元気がないように思う。私のところへ来てしまったことを、協力を頼みこんでしまったことを後悔しているのなら、今からでも遅くはない。辞退の意志を申し受ける用意はいつでもできている。


「ねえ」


 背中を向けて上着を脱ぎ、ハンガーにかけて丁寧にしわを伸ばしている未友を見る。


「なに?」


「ほんとにいいの?」


「なにが?」


「さっき話したこと。あんな話を聞いても、未友は協力してくれる?」


「もちろん。言ったじゃん、味方だって」


 振り返った表情は、無理矢理作っているようにも見えた。


「頼れる人が誰もいなくなったんでしょ? でも、私は最後まで仲間で友達。親友だから、ね?」


「でも……」


 言いかけては、自分が口にしたことを後悔しそうになる。もう取り戻せない。いや、できるけれど、やろうとは思わない。私にはいまを諦めるだけの胆力はない。


「いいんだよ。それよりも、燐の方こそ大丈夫? 家族を、失ったんでしょ?」


「うん、それは……」


 私は過去のことをすべて話した。記憶が戻っている。そのすべてを。


 久世咲良が倒れたあと、私は家族の下へ駆け寄った。でも、なんというか、当たり前の反応をされた。


 怯えていた。私が見せたものに。私が家族のためと叫んでも、流石に納得が難しいことくらいは理解ができる。どこまで行っても、どれほど望んでも私は普通じゃない。私のフツウを守ろうとすれば、家族の普通からは遠のく。知ってた。でも、あそこで抵抗しないわけにもいかない。でなければ、永遠に私のフツウは失われる気がしたから。


 敢えて何も言わなかったのは両親の優しさだったと思う。でも、あの時の私は今よりもっと莫迦だったから、その反応に悲しくなって涙を流した。


 私はようやく自分の失ったものの大きさに気が付いた。でも、もう遅い。だから、自ら姿を隠そうと思い、逃げた。


 けれど、私は結局弱かった。一人でずっと生き続けるなんてできそうになかった。かといって家族の下へ戻っても顔を見るのは辛い。忘れようとしても忘れられないことも知っている。私がそんなことを望んでいないから。家族を欺くことはできる。でも、それでは私の辛さが増すだけなのはわかり切っている。だから、新しい家族を作ったうえで、過去のことには鍵をかけて思い出すことを禁じることにした。


 それが今の家族の始まり。苗字が似ていたのは自然なことだったのかもしれない。思い立って街で聞こえた声に耳を傾け、幸せそうな会話の一部に私も加えようとした。でも、偽だらけで塗り固めては、誰かにばれるのなんてある意味で当たり前のことだったんだ。その相手が、ヤツらともなれば。


「それで、どうするつもり?」


 すっかり部屋着に着替えた未友はベッドの上に座り込んだ。見下ろす顔と目線が交わる。彼女も不安ではあるのだろう。どこか電灯のせいではない翳りを感じる。


「荷物、なにも持ってきてないんでしょ?」


「うん、携帯だけ」


「なら、服もいるかな」


「いいよ、そこまで迷惑はかけられない」


「でも、平日に動くとなったら、制服のままだとまずいんじゃない」


「それはどうにかできるから」


「目?」


「そう」


 思案している。ひとつひとつのことを丁寧に考えてくれているのだろう。それが余計に心苦しくもあった。不真面目、なんてのはその場しのぎでしかないことくらい、視なくてもわかるというのに。


「やっぱりだめだよ。頼らないで済むことはそうしなきゃ」


 そう言って立ち上がり、プラスチック製のタンスをいくつか開いては取り出す。


「体型は似てるから、着るのは問題ないと思うんだ」


 大した時間を要することもなく、てきぱきと取り出し、ベッドに広げた。


「まあ、いつもおしゃれをしてる燐の趣味とは少し合わないかもしれないけどね」


 出されたのは、ニットセーターとジーンズという未友らしい、落ち着いたシンプルなものだった。トップスの編み込み模様が精いっぱいのおしゃれポイントなのかもしれない。


「これなら、数日着るのにも問題ないだろうし、動きやすいと思うよ。それと――」


 と言って、今度は大きめのリュックをクローゼットから引っ張ってくる。


「中に着るものはこの中に入れておくから、その都度着替えてね」


「中はそのままでもいいのに」


「だーめ。下着こそ変えた方がいいよ。清潔さは、大事だよ?」


「でも、そこまでしてもらっても返せるかはわからないし」


「いいのいいの。返せなくても。私がしてあげたいって思ったんだから」


 ね、と言いながら、また表情を作る。やはり、未友にも重荷を押し付けていることに変わりはない。秘密の共有は信頼の証だが、今となっては枷として縛り付けているような気がする。


「ほら、着替えて着替えて。一応サイズの確認とか、違和感がないかだけでも見ておこう? 私は向こうで待ってるからさ」


 出ていこうとする彼女から電子音が鳴る。着信音だ。なんのメロディーも設定していないことも知っている。


「親からだ。毎日、掛けないといけないことになってるからさ。私は出てくるから、その間にね?」


 扉を開け、そそくさと行ってしまう。と、思えば、再度扉があき、顔だけを出して、言った。


「そうそう、鏡はないからさ。悪いんだけど、ベランダに出る窓ガラスを使ってくれない? 前は道路だけど、二階だし、夜だから大丈夫だと思うんだ。それじゃ」


 閉められた扉の向こうで足音がする。そして、玄関扉が開けられる音。行き際に聞こえた声は謝っているような気がした。やっぱり私は未友の普通を壊しかけている。やはり、いつまでも頼るわけにはいかない。


 カーテンを開けた。夜の闇を通すガラスに私の姿が映る。映えない制服姿だけど、きっとこれを脱いでしまえば、さらに道を進むことになる。戻れない道を。


 戻るつもりはないと覚悟を決めきれない自分がもどかしい。迷惑をかけるとわかっていても未友を頼ってしまったのはそんな心象の表れだ。


 唇を噛み、眉間を震わせてみた。


 性に合わないな……。


 きっと私は我慢強い方じゃない。すぐに誰かに頼る臆病者だ。少なくとも今見えている私の映し身はそんな見た目をしている。


 一つため息をつき、それでも着ることにした。ベッドからニットセーターを取り、自分の前で合わせてみる。やっぱり断ろう、そう思った。


 似合わないのは私のせいだ。私が普通に似合わないからフツウでいられないんだ。


 そうしてもう片方の手でカーテンに手をかけたとき、夜闇の彼方に光るものを見た気がした。

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