第22話 洞察鋭敏〈二見早苗〉

 シンさんの部屋を覗き込んだ刹那、血を流した女の人が床に倒れてて動転してしまった。


 それが急に動いて立ち上がって、顔が見えたらトシエさんだったから余計に驚いてしまった。


 すぐ横にいた沙衣くんを置き去りにして、ひとり風呂場に逃げ込んで扉を閉めた。


 そのまま下にヘタリ込んでしまった。


 一瞬で目に焼き付いた血塗りの恐ろしい光景‥‥‥



 どういうこと? どうしてトシエさんの幽霊は床で血を流して倒れていたの?


 胸が‥‥苦しい。深呼吸。すー、はー、すー、はー‥‥‥



 落ち着くのよ! 私はどうすればいいの? 考えるのよ!! 


 えっと、トシエさんの幽霊の目的は何? 茉莉児さんの家に居着いてる目的は、どう見てもシンさんよね。



 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ‥‥‥ん、んんん‥ん? ああーーーッ!!



 そうよ。トシエさんは死んだことに気がついていないんだわ! だから、死んだ直後から、その先にするはずだった事を延々と繰り返してるのよ!!


 あの頭から血を流した血塗れの姿。


 しかも、頭を怪我して、半ば正気を失っているの。



 ──ああ‥‥わかりかけて来た恐ろしい事実。



 ここで、トシエさんは亡くなったんだわ‥‥‥


 状況はわからないけれど。



 まさか、シンさんが? 今はわからない。口にすべきじゃないわ。何の確証さえないのに。



 とにかく今を3人無事に乗り切ることが大事だわ。ひとり風呂場で震えているわけにはいかない。


 扉の向こう側はなぜか静まっている。シンさんと沙衣くんは‥‥‥? ああ、私ったら一人で逃げて‥‥‥



 脱衣場の向こうは廊下。廊下の左右にトイレとシンさんの部屋の扉がある。突き当たりの左側は階段と玄関。


 私は少しだけ、風呂の扉を開ける。



「‥‥‥マ!?」



 一瞬、それが誰なのかわからなかった。


 あられもない姿をしたストレートの長い茶髪の女が、沙衣くんと抱き合っている。


 沙衣くんと、あれはまさか‥‥‥



 私はソロリと風呂場から出た。


 息を潜めて脱衣場の壁に身を隠しながら、恐る恐る間近で見た。



 トシエさんだわ! さっきのベッタリの血が消えてる。そして、全く年を取ってはいない。行方不明になったあの時から‥‥‥



 トシエさんからの軽いキスから始まったそれは‥‥‥



 うそっ、トシエさんが沙衣くんを誘惑してるって!? 沙衣くんも濃厚に乗ってるって、どうゆうこと?!


 二人重ねたくちびるの間から、青白い煙のようなモヤが漏れている。



 なあに? あのモヤモヤ。


 一瞬、くちびるが離れる度にモヤモヤがトシエさんにスーっと吸い込まれて行くのが見えた。



 沙衣くん? 沙衣くんの表情が見えない。どういうつもりなのよ? 


 思い切って脱衣場からも出た。もう、私をガードする身を隠す壁も扉も無いけど構ってられない。


 でもって、この二人はもう夢中のようで、私のことは目に入ってはいないようよ‥‥‥


 どうなってるの? まさか、沙衣くんがこんな時にこんなところで、人前にも関わらず見境なく継母の、しかも幽霊に欲情してるなんて!   



「あっ!」



 沙衣くんはトイレの扉に寄りかかって、そのままズルズル力無く、脚を広げてのばしたまま、だらしなく床に座り込んだ。目は閉じたまま。


 その間にも沙衣くんの口から、青白い線香の煙のようなモヤが一筋ゆらゆら立ち上ぼり、沙衣くんの脚の間に立っているトシエさんに吸い取られて行く。



 意識が無いのね。操られていたんだわ‥‥‥


 とは言え、まさかこんな状況で、沙衣くんとトシエさんとのラブシーンを見せられるとは‥‥‥



「沙衣くんっ! 起きるのよッ!! 起きなさいっ!!」


 ダメだわ。腑抜けな顔してる。それに重たくてほとんど動かないわ! こんなにひょろひょろなのに男の子って重たいのねっ。



「はーッ!! 沙衣、起きろッ!!」


 私は渾身の力で沙衣くんの片腕を引っ張る。すぐ前で、トシエさんが漏れた生気をうっとりと飲み込んで、一端途切れた。



「ここままでは、もっと生気を吸いとられてしまうわッ!」



 淀んだ虚ろな目のトシエさんが、沙衣くんの前で四つん這いになった。再びキスしようと試みている。私のことなど目に入っていないみたい。



「お願い、気がついてッ! 沙衣くんてばッ!!」


 私は力の限り叫びながら腕を引っ張った。ついでにトシエさんの肩に蹴りを入れた。



 もうこの非常時に、お上品に振る舞ってられないわ。普段はセレブっぽい奥様で通しているけれど、これはかりそめの姿よ!


 周りには敢えて言わないだけで、私は元々は農家のスポーツ万能おてんば娘だったんだもの。



 トシエさんは横に尻もちをついたようだけど、痛そうでもなく、何事もなかったような、相変わらず虚ろな目のまま。



「しっかりしてッ、沙衣くんてば!」


 申し訳ないけど、頬をベチベチ叩いた。




 トシエさんと繋がっていた煙が途切れたせいか、まぶたをピクピクさせてうっすら開いた。


 意識が多少でも戻ると、なぜか重さが違うのよ。私が引っ張った方によろよろと引きずられた。


 お風呂場に引き込んで扉をバシンッと閉めた。



「痛ってーッッッ!!」


 あら、沙衣くん、どこかにぶつかっちゃったかしら? 気にしないで。今はそれどころじゃないわよ!



「痛たたた‥‥ あれ‥‥俺‥‥‥???」


「‥‥‥沙衣くん、大丈夫? あなた今‥‥‥」



 この子、今してたことわかってないみたい。知らない方が幸せかもね‥‥‥継母の幽霊と熱烈なラブシーンを演じてたなんて。


 私の心に封印しておくわね。



「俺‥‥‥今何を?」


 沙衣くんたら、不安で目が泳いでるわ。



「あの‥‥今‥‥俺、どうなってたんですか? 何かしてました?」



 オロオロ声を震わせてそんなこと聞かないでよ! 私の口から言えるわけないわよ? 


「シッ! いいから、黙って! こっちが先よ。シンさんが逃げて向こうにいるの‥‥‥」



 私の緊迫した口調に沙衣くんはハッとして、顔つきが変わった。


「えーっと、俺、見ました。茉莉児さんは向こうに‥‥‥玄関の方に行ったような‥‥‥あ、ガタガタ扉を揺する音がしますね」



 風呂場の扉を半開きにしながら、二人でトシエさんの様子を窺う。


 ここからでは死角が多すぎて狭い廊下しか見通せない。



 《‥‥‥沙衣?‥‥‥あれ、今の沙衣?‥‥‥いら‥‥ない‥‥‥沙衣なんて‥‥‥い‥‥らない‥‥》



 トシエさんはトイレの扉に向かってボソボソ呟いていたけど、スッと向きを変えた。玄関のドアがガタガタ鳴っている方へ向かって。


 たぶん茉莉児さんが玄関から出られずにもがいている。



「茉莉児さんを、シンさんを助けに行かなきゃ‥‥‥」


 トシエさんが自宅ではなく、ここにいた訳がわかったわ。



「‥‥‥今わかったの。こうやって少しずつシンさんの生気を奪ってたんだわ‥‥‥気づかれないように‥‥‥」


「こうやってって?」


「‥‥あの痩せ方は普通じゃない。あんなにマッチョでがっしりしてた人が、病気でもないのに。さっきわかったわ! シンさんは無意識の内に、少しずつ生気を奪われていたのよ!」



 まさか沙衣くんに、私の推測を言うわけにはいかない。


 この家でトシエさんが亡くなったかもしれないなんて。それも、シンさんとの情事の直前に。


 だからあんなあられもない姿で現れたの。死んでからも続きをしているから。


 虚ろなトシエさんは、シンさんではなく、たまたまそこにいた男性の沙衣くんを相手にしていただけなんだわ。



 血を流していた理由は全くわからない。トシエさんの様子からして、怨恨のもつれの可能性は低いんじゃないかしら? シンさんを恨んでる様子は全くないもの。


 そうよ、あのご夫婦の息子さんのシンさんが犯人だなんて思いたくないわ‥‥‥



「あれ?‥‥二見さん、猫が来た。茉莉児さん、ネコ飼ってたんだ? 気がつかなかったな」


 沙衣くんが風呂場に入れようとして扉を大きく開けた。


 突然、現れた黒ネコ。


「にゃ~ん‥‥‥」



 違うわ! シンさんはネコは飼ってない。これは、このネコは白無垢さんの!!



 気づけば白無垢さんがそこにいた。


 こちらに背を向け、玄関方向に向かってゆっくり歩くトシエさんの背後に。


 まるでトシエさんの背後霊のように。



 ──えっ?



 二人の姿が揺らいでる‥‥‥


 体がスーッと重なったかと思えば、元に戻ったり。



 CGみたいに融合して一つになったけど、また二人に戻った。



「なに‥‥‥今の‥‥‥全身白い着物着た人と‥‥‥」


 沙衣くんの怯えた目と目が合った。



「‥‥‥沙衣くんにも見えたの? 白無垢の女の人。白無垢さん」


 沙衣くんはコクコクうなずいた。



 これって夢うつつな状態のトシエさんの幽体に、白無垢さんが入ったり出たりしてるの?


 幽霊に幽霊取り憑く!



「あ!!」



 閃いた! そうだったのねっ!! 私、謎が解けたような‥‥‥うふっ。


 今夜ここに来た目的がもうひとつ達成された。地縛霊の白無垢さんがお出かけ出来た理由。


 たぶん虚ろになってるトシエさんの幽体を一時的に乗っ取って利用したんだわ。



 ‥‥‥ハッ! 



 自分なりに謎が解明され、ぱしっと手を叩いて無意識に喜びの笑みを浮かべた私。


 そんな私に、不審者を見る目つきを向けている沙衣くん。


 非常時だっていうのに私。集中力、集中力。シンさん救出が先よ!



 そうだわ! 私は御札を持っていたのよ! これさえ出せば幽霊なんて‥‥‥



「大丈夫よ、沙衣くん! 私のバッグの中に最強アイテムが‥‥‥」


 そばに転がっていた自分のバッグを拾い、中身を探る。



 ん? 無い、無い、無いわ!! どうして? 私、玄関を出る前に‥‥‥あれ?



 ──ゲッ!! 入れ忘れてるッ!?



 そうよ、あの時ネコの鳴き声に気を取られて。それで、沙衣くんが待っているの見つけて‥‥‥


 ああ‥‥‥どうしよう‥‥‥



 玄関に追い詰められたシンさん。そしてその手前には、トシエさんの幽霊と白無垢さんがいる‥‥‥



 すぐそこにあるのに取りに帰れないわ‥‥‥





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