相対性殺人計画

第8話 継母登場〈河原崎沙衣〉

 ──マズい。


 まさかこんなことになっていたなんて。


 茉莉児さんが持っていたはずの箱が棄てられてしまってたなんて。



 何てこった!


 三人で行った封印とお清めの儀式が水の泡。



 白い方はどうなっているのか今はわからない。あれもこの家のどこかにいるはずだ。


 これ以上佐久間さん夫婦にあの女のことで迷惑をかけるわけには‥‥‥



 この人たちに俺の事情は隠したまま、なんとか抑えなきゃなんない。

 それってめっちゃムズくない? だけどやるしか道はない‥‥


 封印前はじわじわ寄せて来てただけで、こんなに速攻で殺ってやろうって霊じゃなかったのに、封印されたことで怨みが募ったようだ。


 茉莉児さんはそのせいで、の可能性が高い。



 ったく、どうしてくれんだよ? 茉莉児さんがしらばっくれたせいで封印が解かれたばかりか、佐久間さんに小道具まで廃棄されちまったじゃんか!


 茉莉児さんはこの家を出て、もう箱とは無関係を装いたかったみたいだけど、あの女の最期に執着されてたのは自分自身だってこと忘れちまってたのかよ?



 ‥‥‥おいおい、俺、死んだ人に泣き言、言ってらんないぜ? なんにせよ封印は解かれたんだ。



 そのせいで茉莉児まりこシンさんが亡くなったという確証はないけど、少なくともこの佐久間さんの奥さんの凛花さんは、あの女の霊に、束の間だが取り憑かれたのは確実。


 まさか、あの女が人に乗り移って操るなんて芸当が出来るなんて思わなかったから、凛花さんの様子がおかしいとは思ったけど、最初はわかんなかった。



 自分のテリトリーに入った俺を本気で殺ろうとしてた。凛花さんを使って。


 あの女の生前の願望そのままに───




 ── "あの女" とは。


 それは俺の義理の母親で、源氏名マリア、本名はトシエという元キャバ嬢。




 *****




 俺は本当の母親の顔を知らない。存在自体はなんとなく覚えているけど、ほぼ記憶に無いのと同然だ。母親は病気で死んだと聞かされていたが、実際は違うらしい。他に優良物件の男と知り合い、夜遊び好きのオヤジと、幼い俺を棄ててどこかに行ってしまったとか。


 俺が小学校に上がる少し前に俺の家にやって来たトシエに、それを嗤いながら告げられた。


 俺は信じたくはなかったけど、事実だろう。現状にピタリとはまるし。資産家でもないオヤジが20代後半で、ここに家を買えたのは、多分その慰謝料でだと推測してる。


 オヤジは、まだ幼い俺を持て余し、面倒を見てくれる女性が欲しかったんだろうな。派手な女が俺の前に現れた。それがトシエ。


 トシエには連れ子がいた。俺の2つ下の女の子、レイラ。レイラはまだ、目が離せない幼児だった。


 今思えば、愛で再婚したというよりお互いの利害が一致したんだろう。


 家でのことをなんとかしてもらいたいオヤジと、幼子を抱えて安定した立場が欲しいトシエと。いつまでもやってられる仕事じゃねーし。



 トシエは、オヤジが仕事に行っている間は俺にレイラを見させた。自分はいつもスマホをいじっているかどこかへ出掛けているか。俺らの食事はスナック菓子とたまにカップラーメン。


 オヤジが帰らない夜は、スーパーの出来合いの惣菜か、デリバリー。


 それでも、俺はその他大勢と共によそに預けられているよりはずっとましに思えていた。レイラもなついてくれてかわいかったし、保育園の先生のお仕置きは無いし。


 ──だけど。


 その2年後、オヤジとの間に夜明よあが生まれた。



 それからだ。



 トシエがレイラと俺を邪魔にし出したのは。



 思い出す。あの日のこと。



 俺たち二人は見知らぬ大きな公園に連れて行かれて、後で迎えに来るからって言ったのに、トシエは来なかった。


 暗くなって星が瞬くまで待っていても。


 俺たちは泣きながら家を探して、途中見知らぬ大人に助けられた。


 やっと家に着いたが、悪いのは俺のせいにされた。俺が勝手にレイラを連れて遊びに行ったきり、夜になっても帰らなかっただけだと。


 それからは暴力も始まった。特に俺は目の敵にされた。トシエにとっては血の繋がらない俺は邪魔なガキ。だよな。前の奥さんの子どもなんて。


 いつも家で泣いていた俺。俺を庇って一緒に泣くレイラ。


 朝も出勤が早く、夜はねえちゃんのいる店でいつも飲んでるらしく帰宅の遅いオヤジは俺らのことはトシエに任せっきり。


 トシエには生活費だけ渡して、後は良しなにって感じだった。


 まあ、自分を棄て出て行った先妻の子どもの俺と、連れ子のレイラなんて、そこまで愛しい存在でも無いんだろう。


 オヤジにとっての家族はトシエと夜明よあだ。レイラと俺はこの夫婦にとってはお荷物だってわかってた。


 だから、俺は耐えるしかないって悟っていた。



『ああ? お前誰に食わして貰っていると思ってんだ?』


 俺が反抗する度に、トシエに髪を掴んで言われる言葉。


 俺は自分が子どもだということをどれだけ恨んだか知れない。たかが8才でも働けるなら働いて稼いで、この家を出ていけたらいいのにってずっと思っていた。


 俺一人なら家出していたところだけど、俺はレイラを護らなきゃなんなかった。


 『お兄ちゃん、大好き』って俺を慕ってるレイラを置いたまま、一人で逃げるなんて出来るわけない。


 この家で耐えるしかないと思っていた。どっちにしろ、俺に行く当てなんてないし、ここにいるしかなかった。



 だけど、腹減ったって言えば『あ? なんて卑しいガキなんだよ?』って罵られ、俺とレイラだけろくろくおかずも無くて、メシに文句を言えばビンタが飛ぶ。


 垢を落とすという名目で、俺の体をごしごしタワシで擦り、引っ掻き傷を作ってから熱い湯に無理やり入らされ、余りの痛さに泣き叫ぶ俺を見て嗤っていた。


 鳥好きな俺が道端で保護した傷ついたスズメは、放課後イモムシを探してから帰ると、トシエに棄てられていた。


 涙と鼻水にまみれた日々の息の苦しさ。ヒリヒリする頬の熱さ。繰り返す度に俺の中にトシエへの憎しみが募って行った。


 なあ? 8才の子どもに人を殺したいって思わせる環境ってどうだったんだろう?


 世間では、俺が異常なサイコパスだと思うのかな? でもな、俺は実際に思った。


 ──あの背中をキッチンにある包丁で刺したら、この人、血がいっぱい出て死んでくれるかな? ってさ。



 もちろんそんなことは出来なかった。それは悪いことだって知っていた。もし実行していたら、反対に非力な俺が殺られていたことだろう。




 この時には俺は気づいていなかった。


 俺は事故に見せかけて、トシエに殺されようとされてたなんて。



 『海を見に行こう』って、急に優しくされて、台風一過の海岸に連れ出されたあの日のことは忘れてはいない。


 夜明はレイラに見させて俺だけが連れて行かれた。



 足だけ海に入ってみようかってトシエに誘われた。いつになく優しくされて俺は本当に嬉しかったんだ。


 その時、ずっと向こうの波は激しく立っていたけれど、この遠浅の砂の海岸の手前の方はただ、薄く平らな波が押し寄せているだけだった。


 空は青いし、風も水も心地良かったし、一番は、トシエが俺だけに構ってくれたことが幸せだった。すごく楽しい時間。



 ──だったのに。



 ふと振り向けば俺のすぐ後ろで、サーファーがくぐり抜けるような波が立ち上がり、砕けていた。さっきまでは、もっと向こうで立ってたのに。


 波が俺の脚元に来る迄には既に平らに広がっていたから海岸の方を向かされていた俺は、それまで全く気がつかなかった。徐々に満潮が近づいていたなんて。


 膝下だった深さは、いつの間にか ももまで達していた。


 横にいたはずのトシエは、向こうの波打ち際で横を向いてじっと遠くを見つめている。



 怖いよ‥‥‥



 あの高く上がって渦を巻く波に巻き込まれたら、小さな体の俺なんて、あの果てしない広い海に引きずり込まれてもう海岸には戻れないって、足りない頭でも容易にわかった。本当に恐怖だった。


 もう、恐ろしくて振り返ることは出来ない。波の向こうに広がる果てしなく広い海に畏怖した。


 海岸に戻りたかったけれど、ここで一歩でも歩いたら、押す波にでも引く波でも足を取られて転ぶ自信があった。大人に手を取って貰わなければ、歩くのは無理だ。


 水流の力はマジ強いことを、この時学んだ。


 水中では波が引く時に、俺の足の回りの砂が足形に沿って削られて行くのがわかる。そして波が押し寄せるその度、俺の足には、かき上げられた砂が舞い降り、少しづつ沈んでゆく。


『おかあさーん』


 俺が必死で叫んでもトシエは知らんぷり。


 その日は、台風が通過した直後の雨上がりの朝の時化しけた波。


 このままでは俺は波にのまれて死ぬ。海岸には波で打ち上げられた海藻を拾ってる年寄りがひとりふたりはいるけど、ここから助けを呼べる距離じゃない。こっちのことなんて無関心だし、波と風の音で聞こえないだろう。


 ならば自力で戻るしかない。



 俺は繰り返す波に耐えている間に、ちょっとした法則に気がついた。


 波が押し寄せてから引きに変わる刹那に、一拍の凪の隙間があることに。


 俺はそのわずかな凪の隙に一歩、凪を待って一歩、慎重に波打ち際に向かった。焦ったら転ぶ。転んだら終わりだ。



 ようやく普通に歩ける深さまで戻ってから振り返った。


 あの大きく立ち上がって渦巻き、崩れてから白い裾を薄く広げ次々押し寄せて来る波。


 波打ち際まで来て本当にホッとした。



 戻って来た俺にトシエは言った。



「‥‥‥あれ? 戻って来たんだ」


「‥‥‥うん」



 さわさわする俺の心。


 だけど、その時はまだ幸せなことに、自分が殺されかけてたなんて、それでも気がつくことは無かったんだ。




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