十五話

 鈍い痛みで俺は目を開けた。顔中が痛い。だがそれ以上に後頭部が痛む。確か、最後に見たのはゼルバスと燭台――この痛みは、それで殴られた痛みか。おそらく切れて出血しているに違いない。それを確かめようと俺は手を動かそうとしたが、どんなに力を入れても左右の腕は動かない。何だ、これは……?


 ぼーっとする頭と視界を目覚めさせ、改めて見下ろした自分の体には、縄が何重にも巻き付いていた。さらに下を見れば、両足にもそれぞれ縄が巻き付いている。俺は椅子に座らされ、そこに縛り付けれらている状態のようだった。……最悪だ。これではもう逃げようがない。


「休憩時間は終わったか?」


 声に顔を上げれば、少し離れた正面に椅子に座ってこちらを眺めるゼルバスの姿があった。その背後には数人の部下達も見える。皆険しい目付きで俺を見ている。


「起きたなら、仕置きを始めるとしようか」


 ゼルバスは笑顔を浮かべながら、手に持った酒瓶をあおっている。


「……ん? 何だ、お前も飲みたいのか?」


 何も言っていない俺に酒瓶を差し出し、ゼルバスは勧める素振りを見せる。


「遠慮はいらない。この広間には酒が山ほど置いてあるからな。ほら、飲めよ」


 俺は黙って見ていた。絶望的な状況……だが、まだ諦めたくない。命がこうしてあるまでは。しかし一体どうすれば……。


「おおそうか。それだと腕が伸ばせないな。じゃあ俺が飲ませてやろう」


 おもむろに立ち上がったゼルバスは俺の前まで来て見下ろしてくる。


「寝起きで喉が渇いているだろう。好きなだけ……飲めよ!」


 酒瓶が振り上がると、それは勢いよく俺の頭に振り下ろされた。ガシャンとガラスが派手に割れる音と共に、俺の脳天には激しい振動と重い痛みが走った。


「最後の酒だ。よく味わって飲め」


 ゼルバスは踵を返し、元の椅子に戻っていく。くらくらする頭をもたげ、その後ろ姿を眺めるが、衝撃で視界は揺れていた。飛び散った酒が髪からしたたり、むせるほどの臭いを放っている。そのうち額の上部に生温かいものを感じ、やがてそれは左の目尻辺りをゆっくり流れていった。そんな俺を、椅子に座ったゼルバスは笑みを浮かべて見ていた。


「ふうむ……ただ仕置きをするだけでは趣向がないな。お前も、死ぬだけでは不満だろう。少しおしゃべりでもして、この世の後悔を痛感してみるか?」


 膝に両腕を置いた姿勢で、ゼルバスは俺を見据えてきた。


「それにしても、アリピアから話を聞いた時は本当に驚いた。まさか部下にこんなことをされるとは……。お前は、いつからエメリーにちょっかいを出していたんだ?」


 どくどくと脈打つ傷の痛みを感じながら、俺は黙ってゼルバスを見ていた。


「……そんな気分ではないか? せっかく過ちを振り返る時間を与えてやっているのに。それとも、俺のものを盗ろうとしたことは過ちには入らないとでも思っているのか?」


 俺のもの――反吐が出る言い方だ。 


「何か言いたそうな目だな。言いたいことがあるなら言ってみたらどうだ。とりあえず聞いてはやるぞ」


 余裕の表情のゼルバスを睨み、俺は痛みで声がかすれないよう、腹に力を入れて言った。


「エメリーは、物ではない。ましてお前の私物でもない」


 俺がエメリーと呼んだことに、ゼルバスは表情を変えて反応したが、それは次第に不気味な笑みに変わっていった。


「ほお、やっと本心を見せたな……それで? そっちの言い分は何だというんだ」


「お前は子供だ。エメリーに興味をなくしながら、いざ離れていく彼女を知って、やはり自分のものだと言って惜しんでいる。手放した玩具を奪い返す子供とまるで同じだ。エメリーの心は誰のものでもない。彼女のものだ。彼女だけが、自由にできるものだ」


 これにゼルバスは、やや表情をしかめながらも、首をかしげて俺を見ていた。


「何を言っているのか、さっぱりだな。そもそもエメリーは俺が見つけて連れてきた女だ。あいつも自らここに留まっていた。俺がすべての面倒を見ていたんだから、俺のものであるべきだろう。それに、俺がいつエメリーを捨てたというんだ? お前の勝手な妄想を現実にしてもらっては困るな」


 さげすむ目が俺を嘲笑していた。


「では、アスパシアという女をどう説明する」


「アスパシア? ……ああ、あの女がどうした」


「お前の了承を得て、エメリーの部屋を使うと言っていた。あの女はエメリーの代わりに連れてきた女だろう」


 問いただすと、ゼルバスは大仰に溜息を吐き、椅子から立ち上がった。


「なるほど。お前は大いなる誤解をしたようだな。あのアスパシアとかいう女は、見た目だけのつまらない女だった。俺の言うことには何でも従順で、口を開けばあれが欲しいこれが欲しいとしか言わない。おまけに頭のほうは空っぽだ。確かに俺は部屋を選べとは言った。だがエメリーの部屋には入るなと言っておいたんだ。その程度のことも守れない女だったとは……早々に追い出して正解だったな」


 エメリーは、捨てられたのではなかった? では今もゼルバスは――正面からゆっくりと近付きながら、ゼルバスの言葉は続いた。


「その点、エメリーは魅力に満ち溢れている。常に反抗的で、無愛想で、笑顔など見せない。呼んでも来なければ、邪魔だと押し退けたりもする。俺は、そんなエメリーにたまらなくぞくぞくさせられる。わかるか?」


 目の前で立ち止まったゼルバスは恍惚の眼差しを向けながら、俺の前髪を鷲掴みにして頭を持ち上げてきた。


「別に冷たくあしらわれるのが好きなのではない。毎日そんな態度をされては、俺だって苛つくこともある。そんな時は、少しだけ本気を見せて怒鳴ってやるんだよ。そうするとエメリーは怯えた子猫のような顔で俺を見てくるんだ。自分はこの男には勝てないんだと思い出したかのようにな。俺は、その瞬間がたまらなく快い。普段は立場が上だと思い込んでいるエメリーが急に大人しくなる様は、ある種の快感を覚えさせてくれる。俺がその気になれば、お前などどうとでもなると思うと、反抗する態度に高ぶりを覚え、さらにはその先で屈服するエメリーの姿を想像すると、顔がにやけるのを抑えられない。俺はな、そんなエメリーの歯向かう心をいつ粉々にしてやろうかと、楽しみに取っておいているんだよ。その醍醐味を味わわずに、俺があいつを捨てるわけがないだろう」


 唖然とした。こいつは、抵抗するエメリーが恐怖でいつか服従する姿を、ただ見たいがために側に置いているのか。そこに愛など微塵もない。支配したいというくだらない欲望を満たすために、エメリーの時間と心を縛り続けて……。


「……お前は、地獄行きだ」


 俺はゼルバスを睨んで言ってやった。


「はん、何様のつもりだ? そう言うのなら、俺から大きな楽しみを盗ろうとしたお前も地獄行きだな。まあ、俺に行く予定はないが。……さて、おしゃべりもここまでにするか。言い残したことはあるか? ないなら仕置きに移るが」


 半笑いの顔が俺を見下ろしてくる。……ああ、一発でも殴り飛ばせればいいのだが、あいにく今ある武器は口しかない。だが、使わずに殺されるよりはましだろう。諦めたくはなかったが、もう、どうしようもない――俺は笑うゼルバスを見据えて言った。


「エメリーは、お前などには一生服従しない。卑劣なお前が、気高いエメリーを支配できると思っているのか? 夢を見るならもっと現実的なものにしたらどうだ」


 直後、目を吊り上げたゼルバスは俺の前髪を引き抜く勢いでつかみ上げると、俺の顔に拳を打ち込んできた。顎が歪みそうな衝撃と痛みに、俺の頭は再びくらくらと揺れた。


「正気に戻ったか? 随分な妄言を吐いていたぞ。これから仕置きを始めるんだ。気はしっかり持っていてもらわないとな……」


 俺から手を放したゼルバスは、後ろに並ぶ部下に言う。


「ナイフを用意しろ。まずは……こいつの指を一本切り落とせ」


 俺を、切り刻んでいくつもりか――衝撃で耳鳴りが聞こえる頭をもたげ、俺は前を見る。ゼルバスの指示に部下達は動き始めているが、何か様子がおかしい。その顔は落ち着きなく、周囲にきょろきょろと視線を泳がせている。


「おい、どうした」


 様子に気付いたゼルバスが聞いた。


「何か、臭いが……」


「臭い?」


 それを聞いて、俺も臭いを確かめてみた。髪を濡らす酒の臭いが邪魔をして、はっきりしたものではなかったが、言われるとかすかに、何かが焦げたような臭いがした。


「外でごみでも燃やしているんだろう。こいつも仕置きが済んだら一緒に燃やしてやれ」


 気にする素振りのないゼルバスは続けようと、ナイフを持つ部下を呼び寄せる。


「そうだな……左手の小指から始めろ。ステーキを切るように、ゆっくりと切り――」


「ボス! 大変です!」


 その時、廊下から一人の部下が駆け込んできた。かなり焦った表情を浮かべている。


「俺の邪魔をするな! 一体何だ!」


 苛立ったゼルバスに畏縮しながらも、その部下は言った。


「す、すみません。ですが大変な状況で……」


「何が大変なんだ」


「庭で、火事が起きて――」


「火くらいお前達で消せ! そんなこともできねえのか」


「ち、違うんです! 庭の他にも各部屋が燃えてて……」


「はあ? どういうことだ」


「俺らにもわからないんです。庭の火を消してたら、いつの間にか部屋からも火が上がってて……」


 ろうそくの火の不始末だろうか。それにしては庭と部屋と、離れたところで起こっているのが解せないが。確かに、煙臭さが強くなっている――ふと視線を奥へやると、広間の天井付近には灰色の煙がゆらゆらと流れ込み、溜まり始めていた。


「ボス、一時避難したほうが……」


 背後の部下達は不安顔を見せて言うが、ゼルバスは意に介していないのか、部下からナイフを取り上げて言った。


「消火にてこずっているなら、お前達が手伝いに行ってやれ。俺は忙しいんだよ」


「しかし、ここまで煙が――」


「聞こえなかったのか? 煙が嫌なら消しに行けって言っているんだよ」


 話を聞いてくれそうにないゼルバスに困惑を見せながら、部下の大半は広間を出て消火に向かっていった。それでも二人の部下はゼルバスの身を心配してか、煙が満ちていくこの場に残っていた。


「仕方がない……俺の手で仕置きをしてやるか」


 磨かれたナイフを握り、ゼルバスはそれをこちらに向けてくる。だが俺はそれよりも、広間にどんどん流れ込んでくる煙のほうに気を取られていた。その速さは確実に増している。先ほどまで見えていた天井は、今や黒い煙で覆われ何も見えない。ここにい続ければ、俺達は間違いなく煙に巻かれてしまう……。


「お前も、地獄へ行くことにしたのか」


 上目遣いに聞くと、怪訝そうな目が見てきた。


「何を言っている? 招かれているのはお前だけだ」


「このままでは、じきにお前にも招待状が届くぞ」


 天井付近に溜まっていた煙はもはや広間全体に充満しようとしている。視界は徐々に曇り、鼻を突く臭いは気道にこびりついて呼吸を苦しくさせている。口元を手で覆うにも、俺の腕は椅子に縛り付けられて動かすこともできない。意識がはっきりしている今のうちに逃げなければ、これは本当にまずいことになるぞ。


「地獄に住所を教えたことはない。行くのは、お前一人だ」


 不敵な笑みを浮かべ、ゼルバスは俺の首筋にナイフを当ててきた。……こいつ、まだ酔っているのか? この状況が見えていないのか。


「ボ、ボス、もう逃げましょう。煙がひどすぎて視界も――」


 残った部下も、さすがに危機感を覚えたようだ。だがゼルバスは俺からナイフを離そうとしない。


「俺は仕置きをしないといけないんだよ。これでずたずたにしないと……」


 首にちくりと小さな痛みを感じた。刃が皮膚に当たっている……煙に巻かれても、それでも俺を殺すことに執着するのか。


「無理です! ボス、急いで逃げないと! そんなやつは放っておいて、さあ!」


 部下二人はゼルバスの両脇を抱えるように無理矢理引っ張って行こうとする。が、ゼルバスはそれを振り払ったかと思うと、二人にナイフを振りかざした。


「ボス! 何を――」


「俺に逆らうのか! これ以上邪魔をするなら、その目をぶっ潰すぞ!」


「しかし、ここにいたら……ひっ!」


 何の躊躇もなく、ゼルバスは部下に向かってナイフを突き出した。咄嗟に避けた部下は、あわや顔を刺されそうになった恐怖に表情をこわばらせている。避難を促す自分の部下を刺そうとするなんて、正気ではない……。


「避けやがって……」


 ゼルバスは苛立った声で呟く。


「駄目だ、逃げたほうがいい。これじゃどっちにしろ死ぬ……」


 二人の部下は後ずさりしたかと思うと、煙に覆われた廊下へ一目散に逃げていってしまった。くそっ、俺も早く逃げないと……もう、辺りは煙しか見えない。


「ふん、腰抜けが」


 ゼルバスは自分を置いていった部下を見送ると、再び俺の前に立った。


「さあて、続けるか……指から切り落とそうと思ったが、気が変わった。その生意気な目からえぐり出してやる」


 笑いながらナイフを構えるゼルバスに俺は言った。


「俺に構っている間に、逃げ道はどんどんなくなるぞ。この館も、火に飲み込まれて崩れ落ちるかもしれない」


「俺の気をそらすつもりか? そうはいかない。お前は大事なエメリーを盗ろうとして、俺を怒らせたんだ。それも、ただの怒りではない。一度殺すだけでは物足りないくらいの怒りだ。館など、どうでもいい。崩れ落ちたならまた建てればいいだけのことだ。今はこの怒りを、お前の苦痛と命で収めさせるほうが俺には重要だ」


 やはり、正気ではない。酒が入っているとは言え、ゼルバスの感覚は異常だ。こんなに煙が入り、呼吸も困難になり始めているというのに、命の危険を感じないのか……。


「俺が死ぬ頃には、お前も死ぬぞ」


「何度言わせる。悔やんで逝くのはお前一人だ」


「この状況がわからないのか。もたもたすれば、お前も確実に死ぬんだぞ」


「まさか俺の心配をしてくれるとはな……余計なお世話だよ。そんなに俺に死なれたくないと言うなら、さっさと仕置きを……始めようじゃねえか!」


 突如突き出されたナイフに、俺は反射的に身をそらせた。その瞬間、体は椅子ごと背後に傾き、ガタンと床に倒れ込んだ。縛られた姿勢で仰向けになった俺は動かない手足を懸命に動かしたが、縄はきついままで自由にさせてくれない。そんな俺をゼルバスは高い位置から見下ろしてくる。


「まったく、むかつく野郎だ。……そこを動くなよ」


 横に回ったゼルバスは倒れる俺の目を狙い、ナイフを構え、そして振り下ろした。寸前、上半身をひねった俺は、そのまま椅子ごと横に回転し、今度はうつ伏せの状態になった。無様な姿勢で、再び手足を動かしてみると、背もたれの付け根辺りから、キシッと乾いた音がわずかに聞こえた。このうつ伏せの姿勢になったことで、背もたれに力がかかりやすくなったのかもしれない。これなら上手くいけば――


「動くなと言っただろうが!」


 ゼルバスは俺の腰を思い切り蹴飛ばしてきた。成す術もなく、俺はまた仰向けにさせられる。だが上半身を動かすと、背もたれが明らかにぐらついていた。身を起こすように力を入れれば、次には折れて座面と分離するかもしれない。だが、失敗すれば、ゼルバスのナイフが突き刺さる……。


 俺の両足の間に足を置き、椅子を押さえたゼルバスは、殺気の見える目で俺の顔に狙いを付けてくる。


「目一杯、叫び声を上げてみろ!」


 口の端を歪ませながら、ナイフが正面から降ってきた――それに近付いていくように、俺は意を決して上半身を持ち上げた。ギシと背もたれが鳴る。が、そこまでだった。上半身はそれ以上持ち上がってくれない。ナイフが来る――慌てた俺は無意味にも、咄嗟に上半身をひねり、そのナイフをかわそうとした。縄で椅子に固定されている身で、避けることは不可能……なはずだった。


 直後、バキッと背中に振動が響き、俺の上半身は右にひねっていた。しかしほぼ同時に、左肩にずんと重い痛みが走る。そこには避けきれなかったナイフが垂直に突き刺さっていた。


「外したか……」


 悔しそうに言うも、ゼルバスは笑みを見せ、刺さったナイフを抜こうとしてくる――これ以上はやらせるか!


 ナイフに気を取られているゼルバスの隙を突き、俺は両足を椅子ごと振り上げた。すると押さえていたゼルバスの足が持ち上がり、その体は見事に後ろへひっくり返った。その間に俺は床に椅子を叩き付け、破壊を試みる。何度かやると椅子の脚は折れ、両足を縛っていた縄も緩み、ようやくほどけて立ち上がることができた。だが両腕は未だ折れた背もたれと共に縄で縛られた状態だった。早く外さないと……いや、それより逃げるべきか――


「くっ……ううっ」


 小さなうめき声を漏らし、ゼルバスが煙の中から起き上がってきた。


「げほっげほっ……てめえ、殺してやる!」


 ものすごい形相でゼルバスはつかみかかってきた。両腕が使えない状態ではあまりに不利だ――俺は逃げようとしたが、煙で見えなかった机にぶつかり、足留めされた。その間にゼルバスの手が俺を捕らえてくる。


「次は、どこをぶっ刺してやろうか!」


 肩に刺さったままのナイフをゼルバスは握ると、一気に引き抜いた。


「うあっ……」


 強烈な痛みに思わず声が出た。


「もっと苦しめ! 血まみれにしてやる!」


 楽しそうな口調と顔で、ゼルバスはナイフを振り上げた。しかし、こちらはもう動けるのだ――俺は身をかがめ、攻撃を避けると、ゼルバスに体当たりをした。ぐらりとよろめいたゼルバスは近くの壁まで後退する。だが、一歩近付いた俺に、ナイフはすぐさま向かってきた。


「おらあ!」


 不意の攻撃に俺は動きが遅れた。正面から来るナイフを避けようと、反射的に背を向ける。ドン、と押されるような衝撃……しかし、続くはずの痛みがなかった。そこで俺ははっとした。ナイフは、折れた背もたれに刺さったのだ。


 慌てて距離を取り、俺はゼルバスと対峙する。すると、背中の背もたれが縄の隙間をずるずると下がったかと思うと、次には床にカタンと音を立てて落ちていた。気付けば両腕ごと巻かれていた縄も緩み、触らずともはらはらと勝手にほどけていく。どうやら背中に受けたナイフが、縄を切ってくれたようだ。偶然の幸運……逃すわけにはいかない!


「その目だけは……えぐり取ってやる!」


 ゼルバスはまるでやけになったかのようにナイフを振り回してきた。体の自由さえ戻れば、こんな感情に流された攻撃など怖くはない。俺は一定の距離を保ちつつ、ナイフをかわしながら隙をうかがう。ゼルバスは横薙ぎにしたり、振り下ろしたりを繰り返している。そして、再び大きく振り上げたのを見て、俺は一気に間合いを詰めた。


「なっ……」


 驚くゼルバスの横に付いた俺は、首に手をかけ、その足を思い切りすくい上げた。瞬間、空中に浮かんだゼルバスの体は、首にかけた俺の手により、腰をバネのようにしならせ、背中から勢いよく床に叩き付けられた。


 俺はすぐにナイフを奪い、その喉元に突き付けたが、顔を見下ろすと、その目は半分白目を剥いていた。頭を打ち付けたのか、気を失ってぴくりともしない。痛め付けて足留めする手間が省けたか……。こいつは本土で裁かれる運命だが、そのために助け出すほど、状況にも俺にも余裕はなかった。広間にはすでに濃い煙が充満している。床を這うように進まないと、煙は容赦なく鼻と口から入り込んでくるが、俺はここまで、大分吸い込んでしまっている。体はまだ動くが、正直頭痛と吐き気を感じる。まずい症状だ。急いで逃げ道を見つけなければ……。


 低い姿勢のまま、俺は手探りで廊下へと出てみた。見えるものは広間と変わらず、黒い煙ばかりだ。耳を澄ますと、遠くから怒声のようなものや、助けてと叫ぶ甲高い声が聞こえた。消火はもう諦めたのだろうか。誰かがどこかにまだ取り残されている。だが俺にはどうしようもない。自分のことで手一杯だ。何だかめまいもする……。


 廊下を少し進んでみるが、先に炎が見えて引き返した。反対の方向も同じ状況だった。広間以外は炎に飲み込まれてしまっているのか。他に道は――鈍くなってきた体を動かし、俺は広間に戻った。そうだ。窓から出られるじゃないか。ここは一階だからすぐに逃げられる――手探りで窓を見つけると、俺はすぐに開けた。黒い煙が生き物のように、外へもうもうと出ていく。その先の光景を見て、俺は愕然とした。


「裏庭まで……」


 緑一色のはずの裏庭は、赤い炎の海と化していた。芝や植木は多くが焦げ、それでもなお炎が焼き尽くそうとしている。立ち並ぶ樹木も、その幹を黒くされ、枝葉には勢いの衰えない火が夜空を照らすように燃え上がっていた。パチパチと音を立て、風が火の粉を舞い上がらせると、熱風と共にこちらへ流れてきた。俺は壁に身を隠し、窓から入る火の粉を呆然と眺めるしかなかった。進退きわまったか――脱力と息苦しさに、俺は体を床に横たえた。あともう少し、目と鼻の先に、あの美しい笑顔が待っているというのに……エメリー……誓いを守れず、すまない――胸の中で詫び、俺はゆっくりと目を閉じるしかなかった。

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