第2話

 朝、目覚めるように目を開ける。視界がボヤッとしていて上手く周りを見ることができない。ただ当たりが真っ白で、自分の部屋にしては物がないことに違和感を覚えた。

「あ……」

 喉が掠れて声も出すことができない。そんな光莉に、誰かが声をかけた。

「宇佐見光莉さん、わかりますか?」

「せ……んせ……?」

 光莉が寝ているベッドのそばに立っていた白衣の男性は、優しく微笑んだ。

「おはよう。今は君がコールドスリープしてからちょうど六年後の世界です」

「ろく、ね……んご……」

「入ってもらって」

 壁際で控えていた看護師に医者が声をかけると、静かに頷きドアを上げた。

「光莉!」

「あ……おかあ、さ……」

「光莉! よかった! 本当に良かった!」

 飛び込むように入ってきた母親は、光莉の身体を抱きしめた。後ろには涙を流している父親の姿もある。

「お母さん……」

「なあに?」

「……老けたね」

「っもう!」

 茶化さないと泣いてしまいそうだった。そんな光莉の気持ちをわかってか、口では怒ったように言いながらも母親も、そして父親も泣きながら笑っていた。

 ――そして。

「……久しぶり」

「朝人、くん……?」

「うん……」

「え、あ……大きく、なったね?」

「まあ、ね……?」

 顔を見合わせて、二人は「ふはっ」と笑った。


 ――目覚めたばかりで筋力が低下していたり疲れやすくなっているということもあり、家族以外の面会は一日十五分までと決められた。

「退院までどれぐらいかかるって?」

「リハビリとかも含めてあと一ヶ月ぐらいかな」

 大学に進学した朝人は放課後、毎日病院に寄って光莉が眠っていた間のことを話して聞かせてくれた。朝人のように大学や専門学校に進学した子だけではなく、就職している子もいるらしい。二十一歳。大学三年生。朝人も今、就活真っ只中なのだと言っていた。

 十五歳の頃から成長していない光莉とは大違いで、みんな大人になって自分の人生を歩み始めていた。

 わかっていたことだったけれど、それでも目の当たりにすると自分以外のみんなが駆け足で走って行ってしまったような焦燥感に駆られた。

 入院はあと数日で終わる。そのあと光莉は、もう一度中学三年生からやり直さなければならない。

 焦りを覚える光莉の耳に、スピーカーから流れる音楽が聞こえて来た。

「アイネクライネナハトムジークだ」

「懐かしいね」

 小学生の頃、音楽鑑賞の授業でやったのを思い出す。陽気なメロディの第一楽章から穏やかな第二楽章へと移り変わる。

 ――たしか、テンポはアンダンテ。『ゆっくりと歩くような速さで』という意味だったはずだ。

 今の光莉の心境とは正反対の曲に、胸の奥がザワザワする。

「光莉? 大丈夫?」

 ベッドの上で教科書を広げる光莉に、朝人は心配そうに声をかけた。

 六年間眠っていたと言っても、光莉にとっては昨日眠って、今日目覚めたのと変わらない。勉強していたことも忘れてはいなかったことが幸いして、六年の間に変わってしまった箇所を確認するだけで済んだ。なので勉強は心配していないのだけれど。

「学校生活が、不安かな」

 病院にいる間は医者と看護師、それから両親と朝人にしか会わなかったので気にならなかった。でも、外に出ればきっと六年という短くない年月を目の当たりにすることもあるだろう。それが不安で仕方がなかった。


 数日後、無事退院の日を迎えた。一度、両親と三人で校長や担任となる先生との面談があった。当時、光莉の担任をしていた先生はもう在籍しておらず、見知らぬ先生ばかりになっていた。

 その日から復学まではあっという間だった。初日ぐらい着いていこうか、という母親の申し出を断り、光莉は一人家を出た。

 玄関のドアを閉め、ひんやりとした空気を吸い込む。冷たい空気が肺を満たす。最後にこの道を歩いたときは、まだ秋の装いが残っていたのに、今ではすっかり冬景色だった。光莉にとっては一ヶ月、けれど世界はあの日から六年と一か月の年月が過ぎていた。

 一歩踏み出そうとするのに、足が震える。学校に行くのが怖いなんて思わなかった。こんなことなら、やっぱり母親についてきてもらえば――。

「光莉!」

「……え?」

「やっぱり光莉だ! 今日から学校だって聞いてたから会えるかなって思ってたけど、ホントに会えた!」

「だ、れ……?」

 誰、と尋ねながらも本当はわかっていた。ただ心が彼が誰か認めることを否定していた。

「誰って俺だよ、俺。純也! 隣の家の!」

「純也、くん……? お隣の小さくて生意気な?」

「小さくて、は余計だけどその純也だよ」

 光莉よりも随分と小さかったはずの純也は、見上げるほどに大きくなっていた。

「身長伸びただろ? あの頃より四十センチは伸びたんだぜ」

「凄い……」

「へへ。って、まあいいや。そんなこと言ってたら遅刻しちまう。ほら、行くぞ」

「行くぞって……」

「学校だよ。光莉、俺と同じクラスだから。三年四組。何かあったら俺のこと、頼ってよ」

 あどけなさを残す純也の笑顔は、幼かった頃の純也の姿を思い出させてくれて、少しだけ張り詰めていた光莉の気持ちを安堵させた。

 想像していた通り、学校は居心地のいいものとは言えなかった。腫れ物に触るように扱う教師達、遠巻きにヒソヒソと何かを言うクラスメイト、まるで珍獣か何かを見るかのように覗きに来る他クラスの生徒達。そのどれもが煩わしくて仕方なかった。

 でもそれも仕方のないことだ。光莉自身も、今さらできあがっている輪に入るのも気が進まない。高校進学ができる程度に出席して、二度目の中学三年生は終わらせよう、そう思っていた。なのに。

「次、移動教室だよ」

「弁当の卵焼き、一個ちょーだい」

「久しぶりだからって校内で迷子になるなよ」

 一人でいようとする光莉を純也は何かにつけて構う。休み時間、授業中、そして――。

「友達と帰ればいいじゃん」

 昇降口を出ようとする光莉を追いかけるようにして、純也は隣に並んだ。

「俺が光莉と帰りたいの」

「部活は?」

「とっくに引退したよ」

 光莉の記憶の中では小学生だった純也が、中学で何の部活をしていたのか知らないし、知りたいとも思わなかった。「そっか」と相づちを打ちながら、隣を歩く純也を見上げる。小さくて生意気だったはず、なのに。六年という年月がどれほど長い時間だったのか、思い知らされるようだった。

「光莉」

「あ、朝人くん!」

 いつも待ち合わせしていたコンビニ、ではなく朝人は中学の前まで迎えに来てくれていた。手を振る朝人に向かって駆けていく光莉。けれど、朝人の視線は光莉の後ろに向けられていた。

「どうしたの?」

「……あいつ」

「覚えてる? 純也くん。私の隣の家の」

 振り返ると純也が小さく頭を下げていた。

「覚えてるよ」

 そう言って微笑むけれど、朝人の目は笑っていないように見えた。

「あの頃も生意気な奴だったけど……」

「朝人くん?」

「なんでもない。帰ろうか」

 光莉の手を握ると、朝人は屈むようにして顔を覗き込んだ。

「言い寄られてたんじゃないの?」

「そんなわけないじゃん。それに、もしそうだったとしても純也くんだよ? 私にとっては小三の小さな男の子だよ」

「……でも今は、同い年だろ」

「そう、だけど」

 微妙な空気が辺りに漂う。黙ったまま帰り道を歩く。光莉よりも随分と背が高くなった朝人は、気づけば少し先を歩いてる。あの頃は隣にいたのに、今では歩調が合わないことが、少し寂しい。朝人の隣に並んでいて、本当にいいのだろうか――。

「……っ」

 マイナスな思考を振り払うように首を振ると、少し歩調を速めて朝人の隣に並ぶ。合わないのなら合わせればいい。置いて行かれそうになっても追いつけばいいだけだ。

「ねえ、あさ――」

 光莉の言葉を遮るように、朝人のスマホが鳴った。

「ごめん、ちょっと電話出てもいい?」

「大丈夫だよ」

「ありがと。……『はい。うん、ああそれなら明日のゼミの時間に――』」

 スマホから漏れ聞こえて来たのは、可愛い女の子の声だった。

「……大学の子?」

 朝人がスマホをポケットに入れるのを確認してから、なるべく明るいトーンで尋ねた。

「あー、うん。ゼミが一緒の子。この間からちょっと相談に乗ってて」

「そっ……か」

 ゼミではどんなことをしてるの、とか相談って何かあったの、とか聞いてみたいことは色々あったけれど、どれ一つとして聞くことはできなかった。ただ、自分の知らない朝人を知っている存在に、胸の奥がざわつくのを感じていた。


 年が明け、光莉の受験勉強が本格化した。それと同時に、朝人の就活も追い込みの時期を迎えた。それでもどうにか合える時間を、と朝人は光莉の家へと足を運んだ。

「ねえ、有り難いけど無理しなくていいよ? 今、忙しいんでしょ」

「大丈夫だよ。……それに、俺が教えなきゃあいつに教わるでしょ」

「あいつ?」

「なんでもない。あ、そこ間違ってる」

 指摘された数式を直すと「正解」と朝人は微笑みかけてくれる。その笑顔が嬉しくて、つい朝人が大丈夫だというのなら、と甘えてしまっていた。けれどそれが間違いだったと気づかされるのに、そう時間はかからなかった。

 その日、学校からの帰り道。いつものように純也とともに自宅までの道のりを歩いていた。朝人の言った『今は、同い年だろ』という言葉が気になってはいたが、どうしても純也を前にすると生意気でやんちゃな小さな姿を重ねてしまい、強く断ることができなかった。

「あれ……?」

 光莉の家の前に、誰かが立っているのが見えた。スラッとした、花柄ワンピースのよく似合うその人は、光莉の姿を見ると頭を下げた。

「知り合い?」

「違うと、思うけど……」

 光莉がコールドスリープから目覚めたことは誰にも言っていない。それでも、何人かの友人はどこからか聞きつけて会いに来てくれた。見覚えはないけれど、もしかしたらあの人もそうなのかもしれない。

「とりあえず話してみる。純也くんはもう遅いから家に入って」

「遅くないって。と、いうか子ども扱いすんなよな」

「はいはい」

 膨れっ面をした純也が家に入っていくのを見送り、光莉は女性に声をかけた。

「あの……?」

「あ、すみません。えっと、光莉さん、ですよね」

「そう、ですけど。誰ですか?」

 光莉であることを確認するということは、コールドスリープ前の友人ではなさそうだ。そうだとしたら、あの頃と姿が一切変わっていない光莉に対して、確認なんてするわけ亡いのだから。

 光莉の質問に、その人は控えめな笑顔を浮かべた。

「私は櫻井陽茉莉といいます。朝人くんの同級生です」

 その言葉に、もしかしてという予感が胸を過った。

「朝人くんと……同じゼミの……?」

「あ、そうです。私のこと知ってるんですね」

 知っているわけではないけれど、知らないというのも話しが長くなりそうなので黙ったまま頷いた。いつもならもうすぐ朝人が来る時間だ。できれば陽茉莉と朝人を会わせたくない。

 気が急いている光莉に気づいたのか、陽茉莉の表情からも笑みが消えた。

「……単刀直入に言います。朝人くんから離れてくれませんか」

「な……」

「お願いします。彼、今就活の凄く大事な時期なんです。行きたい会社に入社できるかどうかが決まるんです。彼に言ってもあなたのことが大事だからと、首を縦には振りません。だから、あなたに……。もしあなたにとっても朝人くんが大事なら離れてあげてください」

 どうしてそんなことを初対面の人間に言われなければならないのか、喉元まで出かかった疑問は、陽茉莉の表情を見れば一目瞭然だった。

 でも――。

「帰って下さい」

「あ……」

「帰って!」

 感情的に言葉を吐き出す光莉に、陽茉莉は頭を下げると背中を向けてその場をあとにした。残された光莉は、思わずその場に座り込んでしまう。

 朝人のために離れた方がいいということは痛いほどよくわかった。大事な時間を削ってまで、光莉のところに来てくれて、光莉のために時間を使ってくれていた。だけど……でも……。

「どうしたら……いいの……っ」

 頭が、割れるように痛い。こんな痛み、知らない。

 体勢を保つことができなくなり、その場に倒れ込んだ。どこか遠くから、光莉の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。


 目が覚めると、真っ白な部屋にいた。ここがどこかなんて、聞かなくてもわかった。

「光莉!」

「お母さん……」

「よかった……本当に、よかった……」

 ボロボロと大粒の涙を流す母親の姿に胸が痛くなる。病院にいるということは、あのとき急な頭痛に蹲り動けなくなったのだけれど、どうやらそのあと病院に運ばれたようだった。

「心配かけて、ごめん」

 もう母親のこんな顔なんて、見たくなかったのに。あの頃よりも少し皺が増え、年老いた母親の表情には、当時と同じ心配と不安が浮かんでいた。

「え、えっとこれってどうしたらいいの? 目が覚めたらもう帰っていいとか? っていうか、頭痛いぐらいで病院に運ぶなんて大げさ、だ、よ……ね……?」

 明るく話しながら、光莉の言葉にだんだんと母親の表情が曇っていくのがわかった。

「何か、あるの……?」

「…………」

「ねえ!」

「再発、だそうよ」

「は……?」

 乾いた声しか出なかった。六年もの間、コールドスリープで眠り続けていて、手術が無事に終わったから光莉は目覚めることができた、はずだ。それがたった二ヶ月やそこらで再発なんて。

「まさか、また、眠るの?」

「いいえ。……今度は、手術もできるし治療法も増えているからコールドスリープをする必要はないって先生が。ただ……」

「再々発の可能性が、ある、とか?」

 恐る恐る尋ねた光莉の言葉に、黙ったまま母親は頷いた。

 再発、再々発の可能性――。

 今度は治ったとっして、次は? その次は? いつまで再発に怯えていかなければいけないのか。そのたび母親に、そして朝人に心配をかけるのか――。

「そうだ、朝人くん! ねえ、お母さん。私が病院に運ばれたこと、朝人くんは……」

「言ってないわ。ちょうど朝人くんが来る前だったから……。お隣の純也くんが倒れてる光莉を見つけて私と救急車を呼んでくれて……。そのときに朝人くんが来たら『急用で外出している』って言っといてって頼んできたの。……知られたくないかもしれないって思って」

「……ありがとう」

 朝人のことだ。きっと光莉の現状を知れば心配してそばについていてくれるだろう。自分の時間を削って、就活を疎かにしてでも。

 そんなの光莉は嫌だった。自分が朝人の足かせになるのだけは、嫌だった。

「六年、か」

 たくさんの時間を、朝人は光莉のために使ってくれた。告白だってされたかもしれない、いいなって思う子もいたかもしれない。それでもあの日の約束を守って、ずっと光莉を待ってくれていた。

「もう、解放してあげなきゃ、だよね」

 ポツリと呟いた言葉は、真っ白な部屋に吸い込まれるようにして、消えた。


「今、なんて――」

 数日後、久しぶりに自宅前で会った朝人は少し窶れていた。就活で疲れているのだろうか、大学が忙しいのだろうか。朝人が今、何をしていて、何を頑張っているのか。光莉は一つも知らなかった。

 光莉は深呼吸を一つすると、とびっきりの笑顔を浮かべた。

「だからね、別れたいって言ったの」

「なんで……!」

「……好きな人が、できたの」

「は……? 嘘、だろ?」

 朝人の傷付いたような表情に、胸が突き刺されるような痛みを感じた。嘘だ、と言ってしまいたかった。

 こんな未来が待っているなんて、あの頃は思っていもいなかった。

 本当は今でも大好きだと、朝人のことしか好きじゃないと、そう伝えられたらどれほど楽だろう。けれど……。

「ホントだよ。やっぱりさ、実際に生活してみて六つの差ができちゃうと、どうしても歩調が合わないっていうか。すれ違うことって多いじゃん。一緒にいるのも朝人くんとよりも……純也くんの方が多くなったの。だから、お互い別の道を歩いた方がいいんじゃないかって、そう思ったの」

「純、也……?」

「……そういう、ことだから」

 呆然とした表情を浮かべる朝人の前に、外壁の向こうに隠れていた純也が姿を現した。

「こいつのことは、俺が幸せにするから。もうあんた、用済みなんだよ」

「待っ……」

「あんたはフラれたんだよ。わかったらさっさと帰れよな。……行こ、光莉」

「……うん」

 立ち尽くしたままの朝人を置いて、光莉と純也は光莉の自宅へと入ろうとする。

「嘘、だろ……。光莉、もっとちゃんと話しをしよう。光莉!」

「……っ」

「振り返るな」

 今にも朝人の元へと駆け出しそうな光莉の手を、純也が握りしめた。

「決めたんだろ」

「純也くん……」

「なら、振り返るな。あいつのためにも、それから……光莉のためにも」

 黙ったまま頷くと、光莉は玄関のドアを閉めた。その場にしゃがみ込むと、まだ外にいる朝人に聞こえないように嗚咽を必死に堪えながら、涙を流し続けた。

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