心圧分散マットレス

 「あ、もしもし、どうもお世話になっております……あれ、林さんですか?」


 「ええ、先日はどうも。奥様からいただいて。事務のみんなもね、おいしいって喜んでましたよ」


 「ああ、いえ……とんでもない。こちらこそすみません、ご無沙汰して……でも来月あたりから、また時間がとれると思うので必ず伺います。あの……マットの件でお話が」


 「あ、お聞きになりました? そう、心圧分散のマット。レンタルもあるにはあるんですが、まあ、サイズとかでいろいろと……」


 「はい、その辺りは妻から聞いてます。なので購入したいと……保険も効くんですよね?」


 「もちろん。そこは」


 「え!」


 「はい?」


 「いや、ごめんなさい。今、"心圧”と聞こえたんですが"体圧”ですよね? 体圧分散マットレス。褥創予防のでしょ?」


 「いや、。心圧であってます。褥創に対しては、引き続き適時の体位交換で大丈夫だと思いますが……もしかして、そこは聞いてない? あ、"心圧痕”の心圧とは違いますよ」


 「えっと、聞いたかもしれませんが、ちょっと疲れていたもので……ただ、怪我をしたとかどうのって」


 「そう。一応コールの説明はしてあるんですが、ボタンを押さずに全部自分でやろうとして、それでとうとうベッドから転倒してしまってね。まあ、手の甲に小さな内出血ができたくらいで済みましたけどね」


 「あんな体で自分でやろうと……。それは……お手数を」


 「いえ、前に『周りに迷惑かけたくない』とか何度も仰ってましたしね。特に息子さんには……あ、じゃあ購入という形で。届くのはだいたい……」


 「あのところで、その心圧とは結局なんなのでしょうか? そういえば、前に林さんから貰ったカタログに載っていたような気もしますが……」


 「あの……ひょっとして、今仕事から戻られたばかりじゃないですか?」


 「え? まあ、はい……」


 「そしたら、お疲れでしょうし、詳しい説明はこの次にいらしたときの方がよろしいかと」


 「そう……ですね。わかりました。そうだ、サイズの件で思い出したんですが、父の体格だと大型の方が適しているとは思います。ただ、それだとベッドからははみ出てしまうらしいと……」


 「いや、もう転倒の件で、ベッドではなく床対応とさせてもらってますので。一応奥様にはその辺も説明して了承されてますが。それは聞いて……」


 「あ、そうでした、そうでした。ははは、ごめんなさい、思い出しました……では、改めてよろしくお願いします」


 「いいえ。こちらこそ。本当にお疲れ様です」


         ※


 エレベーターで二階に上がり、廊下を左に曲がった先が、親父の入所していたフロアだ。


 入口はテンキー式の施錠ドアになっており、暗証番号は受け付けで渡されたカードの裏に書かれている。


 四桁の数字を押し中に入ると、若い男性職員が目に入ったので声を掛けた。たしか島岡という名前だったはずだ。


 「こんにちは。あの、父の荷物を」


 「ああ、どうも。この度は……急な事とはいえ、何と言ったら……」


 「いえ、父の状態とかは、ケアマネの林さんや師長さんから説明されてましたし……こちらこそ本当にお世話になりました」


 「そんな、とんでもない。ああ、どうぞこちらへ」


 島岡に案内され、親父が過ごしていた居室に入る。表札入れには、まだ名前の書かれた紙が挟まれたままだった。


 「衣類等の荷物は奥様と妹さんが持ち帰られたので、あとはこれだけですね」


 掃き出し窓の前の壁には、青色のマットが立て掛けてあった。これが例の心圧分散マットレスだろう。


 「聞いていたとおりの大きさですね。これなら父も……あれ?」


 「どうかしました?」


 「いや、このいくつかある窪みは何かなあと……。まるで人の形のようだ」


 「ええ"圧”ですから……」


 島岡はキョトンとした表情で答えた。


 「あの……申し訳ない。こないだの電話では、林さんからの説明をあまり詳しく聞かなかったもので」


 「なるほど。えっと、介護用品には寝たときに体へかかる圧を分散するマットがありますが、このマットは心へかかっている圧を分散します。そして分散された圧は、このようにひとつひとつ形状となって裏面に現れます。恐らく、真ん中の小さいのがお孫さんでしょう。その両隣にある大きめのが……」


 「もしかして、俺と妻ですか? そこまで俺たち家族に対して……」


 「ただ、こう言うのもなんですが、これのおかげで安眠できてたみたいですね……あ、もう段々と元の状態に戻っていく。そもそもこの仕組みというのは……」


 俺は島岡の話を聞きながら、それぞれの窪みを撫でていた。だが、その中でも特に目を惹いたのが、右下隅にある一番小さな窪みだった。


 「これだけが、いつまでたっても浅くなりませんが?」


 「ええ。おそらく、その頃のプレッシャーを、ずっと抱え続けてこられたからでしょうね……」


          ※


 「ただいま」


 玄関のドアを開けると、廊下の奥からママの声がした。小さくてよく聞こえなかったけど、たぶん「おかえり」って言ったんだろう。


 きっと疲れてるんだ。キッチンに行くと、思ったとおりママはテーブルに頬杖をついて目を瞑っていた。でも僕がもう一度声を掛けると、パチリと目を開けた。


 「うん……おかえり……どうだった、久々の学校は?」


 「べつに、みんないつもと同じだったよ」


 「そう……同じか」


 そりゃそうだ。久々と言っても休んだのは三日間だけだし。


 「でもやだな……その分勉強しなくちゃいけないし」


 そう言って、自分の部屋に入ろうとしたとき、居間の押し入れの横に、大きなマットが立て掛けてあるのが見えた。


 「ねえ、あれがお爺ちゃんの使ってたやつ?」


 「そう、心圧分散マットって言うんだよ」


 「しんあつ……ぶんさん……?」


 ママは欠伸を手で抑えながら椅子から立つと、押し入れの前までノロノロと歩いた。


 「この上で横になればね、辛かったり嫌な事とかあっても、全部忘れて寝られるんだってさ」


 「ヘえ! そんなのすご……」


 僕が言い終わらないうちにママはマットを倒して、自分で言ったとおり横になった。


 「早っ……! ねえ……どんな感じ? そんなに寝心地いいの?」


 返事がないので近寄ってみると、グゥグゥと鼾が聞こえてきた。もうすっかり眠ってしまったみたいだ。


 ふと、ママの右足の隣を見ると、そこだけ変な形で窪んでいるのがわかった。何となくだけど、赤ちゃんの形にも見えた。


 「ただいま」


 ドアが開く音と一緒に声がした。玄関にパパを迎えに行こうとすると、ママが苦しそうに喉を鳴らした。肩を揺すってみても、機嫌が悪いときの猫みたいな声を出すだけだった。


 「おーい、いるのか……っておい、何をやってんだ? どうしたんだママは?」


 「パパ、ママがマットで寝ちゃってから変なんだよ」


 「マットで? ははあん……これは反対にして寝てしまったからだな。どうれ、ちょっとどいてみな」


 パパがママを抱き起こし、その肩を強く揺すった。


 「うう……あれ、パパ……お帰りなさい……。私、今なんか嫌な夢を見てたみたい」


 「ただいま……あのね、ザックリ言うと、このマットは表面で吸収した心圧とやらが、裏面に出てくる仕組みらしいんだよ」


 「え……それはつまり、裏面の方で寝たから、圧がそのまま自分に返ってきちゃったってこと? うーん……どうりで具体的なものばかり出てきたわけね。ごめん、ありがと……もう大丈夫だから」


 「そうか。ねえママ今晩……出前頼もう」


 ママがパパに支えられながら立ったあとマットを見ると、窪みの形は変わっていて、もう赤ちゃんには見えなかった。そして僕が触ると、パチンと音をたててマットは平らになった。


 「パパ、今のって……」


 「ああ……お爺ちゃん、本当に安心してくれたのかな」

       

          ※


 トイレに起きたあと、つい横になってしまったが、確かに寝心地は良かった。


 昔の夢を見ていた気もするが、内容は全く覚えていない。


 ぼやけた目を拭き起き上がり、マットを裏返してみた。予想通り、クッキリとした形の窪みが幾つかできていた。


 右上にあるのはデスクに向かっている上司、左上のふたりは仲違いしたまま会っていない弟夫婦か。


 そして左下隅にあるのは……昨日消えたはずの窪みじゃないのか? いや、形はそっくりだが場所も違うし、新しくできたものだろう。


 「パパ、起きた? 先行ってるよ!」


 俺を呼ぶ声と共に、玄関のドアが開く音がした。



(了)


初稿∶SSG 2020/10/2

第二稿∶カクヨム 2021/3/1

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