サマー・レイン

 息子が小学校に上がってから、隔世の感を覚える事ばかり続いていた。


 そして、それを上手く言い訳に使える場合もあるのだが、今朝はそうはいかなかった。


 「こんなにいい天気なんだから二人で外で遊んできなよ。せっかくの休みなんだしさあ」


 台所から妻が声をかけてきた。テーブルでは、息子が少し遅めの朝食を黙々と食べている。


 「こんな酷暑の中で遊んだら親子でぶっ倒れちゃうよ。もう昔の夏とは違うんだよ」


 箪笥の上の温度計は、昨日の午後より十度以上も低い数値を表していた。


 「ていうか、もうクーラーつけたの?」


 「つけてないよ。でも、やっぱそう思うよね! 今日の温度変だよね?」


 チリリンと風鈴が鳴り、ベランダから心地良い風が流れてきた。


 「うん、昔の夏の温……気温だね」


 横になったままリモコンを手に取り、スイッチを点ける。テレビ画面に、朝の報道番組が流れ出した。


 「あ、マイマイか、やっぱ同い年に見えないよ。若いし綺麗だし。昔からもてたんだっけ?」


 と、居間に来た妻が聞く。


 「うん、まあ……そうだったと思う」


 小学校時代、僕等の学年には可愛い女の子がそれなりにいたと思う。


 だが、その中でも"野木下舞"という子は際立っていて、今でもハッキリとその頃の顔が思い出せる。そしてそのまま崩れることなく成長した彼女が今、テレビ局の屋上から天気予報を伝えているのだ。


 「……ということは、今日はこのまま過ごしやすい一日になるということですね」


 「はい、ただ午後から急変する可能性も……無きにしも……あらず……」


 突然、流暢だった野木下の口調が辿々しくなり、顔付きも険しくなっていった。


 「……はは……じゃあ、野木下さんも仕事が終わったら、どこかに遊びに行くのかな?」


 「何で言わないといけないのかなぁ……あなたに!」


 咳払いと紙を捲るような音が聞こえた後、沈黙が続いた。カメラは切り替わらなかったが、スタジオの様子が目に浮かんだ。野木下は眉間に皺を寄せたまま、じっとこちらを見ている。


 「あのぅ……野木下……さん」


 アナウンサーが絞り出すような声を出した。


 「はい、なあに!」


 「いや……何でもないです。それじゃあ次は」


 「言いなさいよ!」


 「おほ!?」


 「言って……そうよ言ってよ! 何で最後まで言わなかったの!」


 「いや、だから、最後までって……つうかおま……いいかげ」


 ピーという音と共に画面が切り替わり、お約束の絵と謝罪文が表示された。


 「何、今の? マイマイどうしたの? アナウンサーも怒りかけてたし……番組の企画かなあ?」


 「いや、そんな実験的なこと、この時間帯の番組でやるかなあ? しかも演技だとしたら、女優顔負けだぜ」


 「でも本当だったら相当ヤバいでしょ」


 「うん、でも何だろう……前にも同じ事があったような……」


 台所で音がした。食事を終えた息子が「ごちそうさま」を言い、子供部屋に戻ろうとしていた。


 「ねえ、今日友達と約束はしてないんでしょ? じゃあ二人でどっか行ってくれば。涼しいし」


 妻の声掛けに動きを止めた息子の表情には、警戒の色が浮かんでいた。


 「その反応は何! ほらパパさんも起きて!」


 僕は妻に腕を引っ張られながら起き上がると、仕方なしに息子の背を押しアパートの部屋を出た。


 「で、お父さん、どこ行くの?」


 「それなあ、今お父さんも考えてるとこなんだよ……どこがいいかな?」


 最初に思い浮かんだのは市民プールだった。だが、水着を取りに戻ろうと玄関のドアノブを握ったところで、去年閉園したのを思い出した。


 そして次に浮かんだのは、ソーダ味のアイスだった。


 「ちょっと行きたい所が出来たんだけど、いいかな」


 僕は息子の返答を待たずに、その小さな手を握り歩きだした。


 「あそこの駄菓子屋はまだやってるかな」


 「川沿いのとこの? わかんないよずっと行ってないし……なんで?」


 「そこに行くからだよ」


 「出かけるってそこ? なんで?」


 「うるさい!」


 不意に大声が出た。案の定、息子は目を丸くして僕の顔を見上げている。泣き出すのでは……と思ったが、さすがにそんな歳でもなかった。


 「ごめん……びっくりしただろ……そうだ、他に行きたいとこはあるか?」


 息子は少し俯いたあと「別に」とだけ言い、川沿いへと歩きだした。今度は僕が息子に手を引かれていた。


 「ねえ、お父さん……」


 「なんだい?」


 「昔の夏って、ずっと今日みたいに涼しかったの?」


 「どうだったかな……? ただ、少なくとも最近の夏よりかは、過ごしやすかったとは思うよ」


 そうだ、今日は近年では滅多にない、清々しい夏の日なのに、なんでこんなにムカムカしてしまうのだろう? 


 こんな少年の日の頃を思い起こさせるような、夏の日なのに……。


 「ねえ、駄菓子屋で何を買うの?」


 「ガリガリ君だ」


 「ガリガリ君?」


 「うん、ガリガリ君。あれは……ガリガリ君の夏だ」


 あの頃の野木下をハッキリと思い出せるのには、もう一つ理由があったのだ。

 

         ※


 彼女と同じクラスになったのは五年生の時。


 「野木下って可愛いよな」


 クラスの男子は、三日に一度はそんな台詞を口にしていたと思う。


 もちろんそれには僕も同意だったが、彼女と会話をするのはもちろん、名前を呼ぶことすら躊躇われた。


 "高嶺の花”ということもあったが、既に彼氏がいるという噂を耳にしていたからだ。相手は隣のクラスの生徒で、笹尾芳雄という黒縁眼鏡の似合う成績優秀な男子だった。


 野木下が彼と一緒に下校しているのを目撃したという証言もあり、クラス中の男子が不安な気持ちになっていた。だが、他の連中も僕同様に、彼女と会話をする勇気を持ってはおらず、笹尾の方もどこか陰があり近寄りがたい雰囲気を醸し出していたので、誰も真相を聞くことは出来なかった。


 そんな年の夏休みの登校日、意外な出来事が僕を待っていた。


 帰りの会が終わりトイレに行ったあとだったろうか。一旦教室に戻ろうとしたところで、野木下に呼び止められたのだ。


 「ねえ、課題のモーターカー、ちゃんと作れなかったでしょ」


 思わず辺りを見回した。近くにいる他の誰かに話しかけたのではないかと思ったからだ。


 だが、そのとき廊下には僕たち二人しかいなかった。ならば、僕が別の女子を野木下と間違えてるのではとも思ったが、ストライプのシャツを着た、肩までの髪の美少女は、紛れもなくその日の彼女だった。


 「芳雄君が手伝ってくれるって言うから、あんたも来なよ」


 「………何で、僕なの?」


 「だって、あんた工作が苦手だって有名だから。この前も先生に怒られてたし可哀想だと思って。じゃあ、ちょっと遠いだろうけど、町外れの三角公園で待ち合わせね。明日の三時頃だから」


 野木下は僕の返事も待たずに素っ気なく言うと、踊り場で待たせていた女友達と帰っていった。もしかしたら動揺して首を縦にでも振ったのかもしれない。


 僕は、期待と不安がない混ぜになったような気持ちで学校を後にした。教室に友達を待たせていたのだが、それもすっかり忘れていた。


 その帰路にあたる川沿いの道には駄菓子屋があり、下校途中に寄り道をしてガリガリ君を買ったりするのだが、この日はそんな気になれなかった。


 もちろん野木下の事で気持ちが昂ぶっていたのもあるが、それ以上に涼しかったからだ。


 恐らく、それまで僕が経験した中でも、最も涼しい夏の日だったかもしれない。不思議と蝉の声も聞こえてこなかった気がする。


 これなら普段ムカムカしている父親も機嫌が良くなっているだろうと思っていたが、それは甘い考えだった。


 「スイッチを入れてみろ」


 帰宅した父が開口一番に放った言葉だった。


 「なあ、課題だか自由研究だかでモーターカーの玩具作ったんだろ? 父さんの子だ、きっと速く走るやつ作ったんだろうなぁ、俺も工作は得意だったからなぁ」


 とか、そんなことをネチネチと言いながら、鬼みたいな形相で睨んできた。


 僕は緊張しながらも、居間から自分の部屋に行きモーターカーを持ってくると、恐る恐るスイッチを入れた。


 「……あーれー? うーん……走らねえじゃねえかよ! ええ! どういうことだよ! 何作ってんだこれ! おまえ本当に俺の子かよ!」


 唖然とした。まだ法律や刑罰のことなんて殆ど知らなかったが、大罪を犯したような気持ちになった。


 「ちょっとあんた!」


 台所で夕飯を作っていた母が叫んだ。助けてくれるのかと思ったら、それも甘い考えだった。


 「どういうことよ! あんた本当に私が産んだ子なのぉ?」


 おまえが産んだ子だよ! どうしたんだ二人共……今日は度が過ぎてる。まるで悪魔にでも取り憑かれたみたいだ。


 一気に恐怖心が湧き、僕は家を飛び出した。無我夢中で走り続けた先には約束の公園があり、ベンチに座る野木下が見えた。


 「あれ? なんでここに?」


 「あんたも逃げてきたの?」


 側まで来た僕を見上げて彼女が言う。その声は確かに震えていた。


 「え、野木下も?」


 「うん、ママと喧嘩して。いつもこんな事ないのに急にカッカしだして。そういえば朝からちょっと変だったかな……」


 彼女はそう言ってブラウスの袖で目元を拭き、立ち上がった。


 「泣いたの?」


 僕の問いに答えず、野木下は川沿いの道へと歩きだした。笹尾の家とは逆方向だったが、後から聞けば、彼の両親にも同様の事が起こり家から出してもらえなかったらしい。


 それから暫く二人は無言で歩き続け、途中で駄菓子屋の灯りが見えたとき、ようやく野木下が


 「のど乾いた」


 と、小さな声で言った。僕は小銭を持ってなかった彼女の分も合わせて、ガリガリ君を二本買った。


 たぶん七時を過ぎた頃だったと思う。そんな時間まで営業中だったのは、店主の婆さんの息子夫婦が不機嫌で、自宅に入れてもらえなかったらしい。どうやら事態は思ったより深刻なようだった。


 「暑くてムカムカするならわかるけど、みんなどうしちゃったんだろうね」


 最後の一口を食べてから野木下が言った。


 「うん、こんなに温度が低いのにね」


 「それを言うなら気温だよ」


 後ろでシャッターが下りる音がした。今夜、婆さんは店に泊まるようだ。僕らはまた、あてどもなく歩きだした。


 「うん、温度じゃなく気温か……」


 「でもその気温も、これから年々高くなっていくんだって」


 「へえ、よく知ってるね」


 「芳雄君が教えてくれたから」


 それから笹尾の事に話題が集中し、僕は前から気になっていた事を思い切って尋ねた。


 「え? 芳雄君と! 彼女じゃないよ、なんでえ?」


 その答えを聞いた瞬間、僕の中で何かのスイッチが入った。


 そして野木下の手を握り、完成したモーターカーの如く走り出していた。彼女の方も、笑いの混じった悲鳴をあげながら併走してくれていた。


 「もう限界!」


 そう言って、野木下はその場にへたりこんだ。そこは隣の市へ入る橋の上だった。


 「ねえ、急にさあ、走ったけど、何で? 芳雄君の彼女じゃないことが関係あるの? なんでなの?」


 野木下が息を切らせながら訊く。


 「それは……」


 僕が答えを言い淀んでいると、強烈な灯りが目に飛び込んできた。それは僕らを探しにきた、車のヘッドライトだった。

 

         ※


 「おかえり、どこ行ってきたの? 御飯は?」 


 居間でテレビを観ていた妻が言った。息子は靴を脱ぎ玄関に上がると、さっさと子供部屋に入った。


 「川沿いの駄菓子屋に行ったけど、もうやめてたんだね」


 「駄菓子屋? それでどうしたの?」


 「うん、涼しいから二人で、そこら辺散歩してたんだ。御飯も近くのラーメン屋で食べたから」


 「ふーん……ねえ、そういえば、ちょっと大変な事が起きてるみたいだよ。今ニュースでやってる」


 テレビ画面ではキャスターが、しかつめらしい顔をして原稿を読み上げていた。


 「……と、いうことで気象庁は、急な温度変化により怒りのスイッチが入る事が原因として、一連の騒動をON怒〈おんど〉と命名したわけですが……その辺りについて今回ゲストでお越しいただいている、SF作家の笹尾芳雄さんにもご意見を伺いたいと思います」


 カメラが切り替わり、黒縁眼鏡を掛けた陰のある男が映った。


 「笹尾……」


 「知ってる? 最近よく出るよね、この人。でも何か近寄りがたい感じ」


 笹尾の表情は、少し強張っているようにも見えた。


 「笹尾さん、なぜ気温の低下がこのような事態を招いたと……」


 「はい、まずその前に、敢えて"気温”ではなく"温度”という言葉を使って話をさせていただきます。それに温度は"温かさ”のあるもの全般に対しての言葉だからなあ!」


 キャスターの顔が引き攣った。だが、すぐ元の表情になり、笹尾に話の先を促した。どうやら、今日初めて怒られたわけではないらしい。


 「失礼しました……。先程のVTRでもありましたが、二十年前にも同様の珍事が起きており、その際ON怒現象に巻き込まれた殆どの人達は、なぜ怒りのスイッチが入ってしまったのかを忘れていた。しかし、記憶が残っていた幾人かに共通しているのは、子供の頃の……そう、主に十代に入ってからまだ間もない頃の思い出が、急に甦ってきたという証言が残されていたそうです」


 僕の脳裏に、当時の両親の顔が思い浮かんだ。


 「しかも、それらは甘く優しいものではなく、悔恨の情ばかり。いや、そんな思い出だからこそ、多感な時期を過ごす少年少女の胸底に潜り、再び浮上するための切っ掛けを待っていた。そこへ日頃のストレスも重なり、怒りが抑制出来なくなったと……。ちなみに私の知人にも、今回スイッチが入り、記憶も残っていた女性がいます。彼女の胸に甦ったのは、二十年前のON怒騒動の日に起きた、ある少年との思い出だったそう……だよ」


 「ん……? いや、なるほど……しかし普段の夏でも、空調関係で急な温度変化に見舞われる事も頻繁にありますが?」


 「屋内を人工的に冷やすのとは、また話が違います。自然の温度変化に、外部の環境や規模も関わってきますからね。スイッチが入った人とそうじゃない人の違いは、そこにあると思います」


 「たしかに、私も昨夜から局に泊まったままで、外に出ませんでした。だからスイッチが入らなかったのか……。いや、なるほど! おもしろい! 流石SF作家らしい想像に富んだ見解ですね!」


 「はあ!? 馬鹿にしてんのか! おま」


 本日二度目の"お詫びのテロップ”が映ると、妻はテレビを消して


 「ホンマかいな、今の」


 と、下手な関西弁で言った。


 「彼の言ったことは当たっていると思うよ。僕も全部思い出したんだ……」


 「ふーん……。曇ってきた、天気予報当たったね」


 そう言うと妻は台所に行き、スーパーの袋の中身を整理し始めた。


 僕は、音を鳴らし続ける風鈴と、網戸越しの空を見上げた。


 「騒動は長くは続かない……。二十年前もそうだったんだ……」 


 「何か言ったあ? うわ、今光らなかった? 落ちたらやだな……」


 「僕にも雷が落ちたんだっけ……それで彼女への気持ちも……一気に冷めたんだよな……」


 あの夜、僕は車から降りてきた野木下の父親に、娘共々に叱られ、自宅に送り届けられた。その後、自分の両親からも、他所の家の女の子を連れ回したとして存分に絞られたのだが、その叱責の仕方から普段の両親に戻っているのがわかった。


 そしてそれ以降、僕は野木下と会話をすることも、もちろん二人でアイスを食べることもなかった。


 「子供だったんだな、結局それだけの事だったんだ……。あの空を見てたら、怒りも冷めきったよ」


 「もう、何をさっきからブツブツ言ってんの? ねえ、ちょうど三本残ってたから、みんなで食べようよ」


 妻の手に、それぞれ違う味のガリガリ君が握られていた。あの駄菓子屋が無くなった今でも、ガリガリ君は簡単に買えるのだ。


 「あ、そうそう、さっきマイマイがテレビで謝ってたよ。でも、みんな笑ってたし、また明日からも出られるみたいだね」


 「そう、良かった。そういえば全然気付かなかったけど、君も怒ってたの? だとしたら、どんな……」


 妻の返事が轟音でかき消されたあと、ポツポツと雨の音が聞こえてきた。



(了)


初稿∶SSG 2019/11/16

第二稿∶小説家になろう 2020/3/3

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