三つの光

 桜に匂いがなくてよかった。

 そんなことないよって、きっとあの人は言うだろうけど。

 近づけば香るのかも知れないけれど。

 この誰もいない真夜中の交差点に風が吹いて、アタシに向かって走ってくる花びらの絨毯には、むせ返るようなあの日の春の匂いはしないから。

 よかった。そう思えた。


 光。この一文字を含んだアタシの名前。

 名前の由来を親にインタビューしよう! なんて、小学生の頃にそんな宿題があった。結果はハッキリと覚えている。


 ──みんなを照らせる明るい光のような人に成長してほしい。


 なら、アタシは?

 アタシは誰が照らすの?

 そう感じて聞いたのは、自分がおかしかったのか。あの日、あの時から二人の顔は影がかかったよう見えている。


 ──私たちが居るじゃない。


 そう聞こえる前に見えた二人の顔は、驚きじゃなくて落胆だったと、今でもアタシは覚えている。


 あれから何年も経って、アタシはランドセルでも制服でもなくなった。けれどまだ社会人にはなりきれず、夜の学校に通っている。

 家を出たわけでもなく、インターネットカフェで深夜シフトに勤めながら、受付以外の会話もなく、バイト代も使わず、親にも渡さず。


 自分の名前すら忘れそうになるほど、なんにもない生活だ。苗字だけで完結する。

 学校前の時間に起きて、深夜のバイト。太陽が昇る前に帰って、こっそりシャワーだけ。洗濯物はその間に一人で済ませるけど、二人が起きてきたことはなかった。

 台所に置かれている、ラップを被せてあっても少し乾いた夕食を感情なく見つめ、アタシは二階へといつも逃げた。

 もう何日、顔を見ていないのかも分からない。


 誰も照らせないアタシ。

 ただ、夜の中に生きていた。


 そして、今夜みたいなバイトが休みの日は、家にすら帰れず、真夜中の交差点に立っている。別にヤケになってるわけじゃない。

 ここに立つと、家の明かりが確認できる。消えるまで待って、帰る。それだけだ。


 春が来るまでは、こんな事をしているアタシに、奇特な話し相手も居た。

 その人も、名前に光が入っていた。もう居なくなってしまったけれど、自分の境遇を呪わず、優しく笑ってアタシを照らしてくれた人。

 あの二人が望んだような光を放っていた。





「俺に会いに来てくれたの?」


 まだ息が白む季節だった。

 道路に面している一軒家。歩道側の窓のそばに、その人のベッドが置いてあって、今夜と同じように家の明かりを見つめているアタシにそう声をかけてきた。

 少し髙い声。アタシよりも年下なのかもしれない。

 セリフだけなら、ちょっとした恋愛ドラマみたい。でも、開いた窓から見えた部屋は、SFのような物々しさで。


「どうしたの? たまにそうやって立ってるの気づいてたんだけど、家出するにはこの辺、何にもないからさ。ジュースも買えないだろ?」

「あ……、すみません」

「え? なんで?」


 返事を待たずに話し続けたその人の言葉に、アタシは驚いて謝罪を口にしていた。

 その反応に、心底不思議そうに彼は首を傾げる。


「いや、お休みになっているのに気になりましたよね。失礼します」

「違う、待って――」


 慌てて頭を下げて立ち去ろうとするアタシを呼び止めて、彼は咳きこんだ。

 その様子にアタシの足は止まるけど、どうして良いのか分からず、ただ眺めるようになってしまう。口元を覆う手の甲から手首までの筋が浮いていて、とても痩せていた。


「大丈夫……ですか?」

「ん、引き留めたのにでかい咳して申し訳ない」


 申し訳ない。なんだか普段は聞かない言葉。

 なによりも本人のまったく深刻さを感じさせない声色に、アタシはキョトンとしてしまう。


「そんな睨まないで」

「にらっ? 睨んでなんかいません」


 神妙な顔つきでそう言った彼に慌てて否定を返すと、面白そうにニヤッと笑われる。やられた。


「見ての通り暇なんだ。よくこの時間に居るよね?」

「……はい」

「どうして?」


 どうして。その言葉に胸が重くなる。声色に好奇の色は感じないから、本当にただ疑問に思ったんだとは伝わってきていた。


「ああ、ごめん。言いたいことを言うって決めてるから、踏み込みの塩梅が分からないんだ。答えたくないならハッキリ言って良いよ」

「いえ、アタシの家あそこなんですけど、電気消えるの待ってるんです。帰りたくなくて」

「ふーん」


 ふーん。

 正直なところ、話したくないことだったけど、さっきの咳をさせてしまったことがチラついてお詫びの気持ちもあった告白だったのに、あまりの肩透かしな返答に少し苛立つ。


「興味ないなら聞かないで」

「いや、興味があったから聞いたんだ。でもゴメン、あんまり面白い答えじゃなかったからさ」


 最初の部屋の物々しさや、痩せた体躯に似合わないずけずけとした性格だとアタシは認識を改めた。でも、嫌味ではなく本心で言っているのだろう。さっきのあの返事より嫌な感じはしない。

 ふっと力が抜けて笑みがこぼれ、白い息が流れる。


「面白くなくてすみませんね。寒いんだからもうアタシと話さずに窓を閉めた方が良いんじゃないですか?」

「あはは。そうやって言い返してくれた方が楽しいね。いや、歩道に居るだけじゃなくて、車道にも立ってたりしたからさ、なんか特別な意味があるのか気になっててさ」

「例えば?」

「芸術関係の制作のなんかこう……。なんで俺が答える側?」

「ふふ」


 この夜から、アタシは窓越しの会話を交わすようになり、彼にも名前に光の字が入っていると何度目かで知った。由来は、自分の道をしっかり自分で照らせるように。この答えの時だけは皮肉交じりだったことを覚えている。

 彼はアタシが望まれたような、誰かを照らす人。

 夜、何度か話して、その間はアタシの家の電気がこのまま点いていれば良いのにとさえ思えた。消えた後も、見送る彼のカラッとした表情が、足取りを軽くしてくれた。


 でも二人の夜は、何回もではなかった。

 言いたいことを言うと決めている。その言葉が気になって尋ねた夜。


「いや単純に、もしかしたらあんまり時間がないかも知れないからさ。聞くのをためらわないようにしてるだけ」


 出会った時の明るい調子で彼はそう答えた。痩せた姿に、自宅のはずなのにSFのようなベッド。意味がないとは思わなかったけれど、その時は現実味は湧かなかった。

 返答に困っていると、彼は桜の形をしたメッセージカードを何枚かアタシに見せた。ほのかに花の香りがするカード。


 ――待ってるぞ。

 ――一緒に卒業しよう。


 かわいい桜のカードには似合わない。鉛筆で濃く書かれたメッセージ。

 同級生の男の子の文字だろうか。


「男子校なんだ。買うとき並んだと思うと面白いよね」


 彼は機嫌よくそう言い、大丈夫でしょ、と暢気に笑ってくれた。

 その笑顔が、まさに光だった。アタシは、笑い返せただろうか?


 それから、なんの前触れもなく部屋の窓は開かなくなって、数日後、彼が居なくなった印が彼の家に示された。初めて会う両親は、彼とは全然似ていなくて、新しく引っ越してきた人なのかとすら思えて、


「ここのところ、女の子の友だちができたって機嫌が良かったの。ありがとう」


 そう涙を流す母親に、「じゃあなぜ泣くのか」とまだ実感が湧かずにモヤモヤとした感情だけが生まれた。でも、彼の光を見たアタシだけれど、彼のようにハッキリと口にすることはしなかった。

 きっと、泣いたら彼に申し訳ないと感じるアタシがおかしいのだから。


 最後に通されたあのベッドがある彼の部屋は、ツンとした消毒のにおいと、春の訪れを願うあの桜型のメッセージがたくさん重ねてあった。

 そういえば歳も知らない。

 痩せて儚げな、明るく、落ち着いていたようにも見えた彼。

 春を願われ、願っていたのだろう。


 当たり前の事実。今日まで考えなかったアタシが、彼にどれだけ寄りかかっていたのか。そのことに気づき、むせ返る消毒のにおいに混ざった桜の香りにアタシは咳をし、ツンと鼻に沁みるにまかせたんだ。





 桜に匂いがなくてよかった。

 そんなことないよって、きっとあの人は言うだろうけど。


 今夜はバイトが休み。学校も終わり、立ち読みなんかの時間つぶしもバイトほど長く出来るわけはなく、日が傾いてすぐからいつもの交差点に立っていた。

 彼の家には、あの日以来行けずにいる。

 手くらい合わせても減らないのになんて言うだろうか。それとも、まだここに居るのかと呆れるだろうか。分かるほど重ねた時間はない。


 真夜中になるまで時間がたっぷりあったからか、今日はあの寒かったけど温かな夜のことを思い出す。

 足元を通り過ぎる桜の花びらが、信号の光で真っ赤だ。


「あ、ホントに居る。こんばんわ」


 カチャカチャとカバンか何かの金具の音がしているのは気づいていたけど、その通行人に話しかけられることは予想していなかった。見ると、少し離れた場所にあるコンビニの制服に、フード付きの上着を羽織った男の人。アタシとそんなに歳は変わらないように見える。

 声を掛けられたことに動揺して言葉に詰まってしまい、アタシは首だけで曖昧な挨拶を返した。その反応に、彼は苦笑する。


「驚かせてしまってすみません。えっと、その家に住んでたやつと同級で、彼女さんですよね?」

「え?」


 彼が指さした家は、あの人の家だった。でも、当たり前だけど彼女なんかではない。けれど、そう言った同級生と名乗る彼が嘘を吐いているようにも見えなかった。


「夜、喋ったりはしてたけど……彼女では、なかったです」


 どう答えたら良いか分からず、そのまま事実を口にする。

 最期の前向きな話にアタシを出した? 少しの時間しか過ごしてないけど、そんな風には思えない。

 彼はじっとアタシを見て、あいつ、と呟きふっと笑う。

 その笑い方は、あの人にどこか似ていて、過ごしてきた時間の重なりを感じさせた。


「えっと、他のやつには言ってないと思うから、あんまり気にしないでください。多分そう言わないと、オレが頼みを聞かないとでも思ったんだろうと思います」


 そう言いながら、彼はカバンから一枚の紙を取り出した。半分に折り曲げられた、さくらのメッセージカード。


「アイツからです。もし夜中居たら渡すように頼まれてて、読むの待ってるように言われてるんですよ。あっち向いてるんで、いま読んでもらって良いですか?」


 一方的に伝えて、彼は後ろを向く。信号機の光では読みにくくて、スマホで照らした。お見舞いメッセージが書いてあったものと同じメッセージカード。匂いは薄くなっていた。

 贈られた物なのに、白紙を持っていたのかしらと少し疑問を感じる。


 ――これを読んでいるということは……って書き出し一度やってみたかったんですよね。残念。紙が狭いから手短に。夜中のおしゃべり、楽しかったです。女の人なんでドキドキしました。


 あの人の字を、アタシは初めて見た。痩せた腕から想像していたよりも、濃く書かれた筆跡に、男の子だったと実感する。書き出しからあの日の口調のままで、声が聞こえるみたいだ。


 ――本当にありがとう。夜中……心配だから、帰ってほしいなー。光にコレ渡してあるから、近所だけど送ってもらって下さい。この紙を二枚重ねて渡してくる、ドジで憎めないヤツですから安全です。では。


 最後の方は文字がどんどん小さくなっていた。無理矢理「では」で締めているところがなんだかおかしくて、ふっと口角が上がる。そして、寂しくもあった。


 もう思い出の中でしか、声は聞こえない。


 本当に最後の言葉なんだと、あの日突然会えなくなったから実感が湧いていなかっただけなんだと、思い知る。

 ぽたりとメッセージが滲んで、慌てて服で拭う。


 強い春風が吹いて、大量の桜の花びらが舞った。

 あの人とアタシの時間に桜の季節はない。

 けれど、あの部屋で見たたくさんの桜のメッセージカードと、消毒液と混ざった香りが、あの人自身とあの人を待っていた人たちの願いと強く結びついて、アタシに想起させた。


 桜の花びらは、アタシにお礼を言っているのか。

 ……違う。きっと帰ってほしいと言っているわね。


「……大丈夫ですか?」


 ずっと黙っていたからか、くんが気遣わしげに声を掛けてくれた。

 目じりを拭い、大丈夫と返事する。


「光くんに送ってもらえって書いてあったわ」

「え?」

「夜中にここに居るから」

「それは分かります。まぁ、オレしかいないからか。オレは構わないですが、お姉さんは大丈夫ですか?」

「光くんが迷惑じゃないなら、アタシは大丈夫」

「あー、アキラです」


 少し気まずそうに、彼は頬を掻く。光って書いてあったんでしょう? と、メッセージを指さし、


って書いて、って読むんです。オレ」

「ごめんなさい、てっきりって読むんだと思い込んでた」

「大丈夫です。いつも最初は間違えられるんで」

「……どうして、光って書くのか気になったりした?」


 その質問に胸が重くなり、我ながら初めて会った相手にぶしつけな質問だと思う。けれど、アタシにも、あの人にもあるという一字。あの人が彼に頼んだ理由が、無意味だとはなんとなく思えなかった。

 彼は特に気にする様子もなく答える。


「字画です。アキラって名前は決まってて、一番姓名判断の良い画数の字にしたって言ってましたよ?」


 彼の口にした回答は、アタシが今まで聞いてきたどの内容とも違った。字の意味も、言葉の意味も、親から引き継いだものでもない。


「みんなそんなもんなんじゃないんですか? お姉さん名前は?」


 彼の質問に、アタシは光の字が付く名前を口にする。

 三人同じ字が付いていることを初めて知る彼は驚き、なんでその質問をしたのかを理解したようだった。アタシのことではなく、あの人の名前に籠められた願いは知っていたのだろう。


「お姉さんの名前、意味とか聞いたんですか?」

「……みんなを照らせるようにって」

「マジすか、ピッタリじゃないですか。アイツ、お姉さんと話すようになってすごく嬉しそうだったし」

「そうなの?」

「そりゃもう」


 二ッと、彼は笑う。その笑顔は自分のことのように嬉しそうにも見えた。


「仲良かったんだね」

「ほぼ毎日会うか電話してましたよ。お姉さんのことも聞いてました。夜中に年上のお姉さんと話してるって。彼女ってのはアイツが盛ってましたけどね」


 そう可笑しそうに笑い。彼はあの人の家の方を見る。


「お参り……行きました?」

「一回だけ」

「なら今から一緒行きましょうか、アイツん家電気点いてるし。オレなら怒られないっすよ」


 あの人と話している感覚に近づいているのか、彼の口調がくだけたモノに少し変化していた。日付が変わるほどの時間ではないけれど、もう誰かの家を訪ねるような時間じゃない。

 けれど兄弟が待つ自分の家に帰るような口調で、彼は話した。


「オレが送るってことは、帰ってほしいって書いてあったんでしょう? お姉さんは帰りたくないけど」


 あの人の家に顔を向け、こちらを見ないまま彼は問う。もしかしたら、こういう問答が照れくさいのかも知れない。


「アイツに顔見せて、帰るって言ってあげましょうよ。すげー喜びますよ」

「そう……かも知れないね」


 アタシも彼の部屋があった窓に視線を向ける。もう息が白むことはない。

 ずっと指で握っていたメッセージが、柔らかくなって指の曲線に合わせて曲がっている。

 触れたことはないけれど、こんな風にじんわりと温かかったのかも。


 ある意味では、深夜の特別な関係だった。アタシとあの人。

 アタシはあの人と過ごす時間で家から逃げていて、あの人はあの人の現実から逃げていたのかも知れない。でも、確かにお互いが照らし合っていた。

 そんなあの人が、アタシ自身の家の光に帰るように導いてくれている。


 名前になんて、アタシが思っている程の意味なんかないと、それを体現する友だちにメッセージを託して。


「ここで逃げたら、先輩として恥ずかしいわね」


 お。と、アタシの言葉に彼が反応する。


「なんか急にかっこいいですね」

「そんなことない。初めて会ったけど、晩御飯食べていかないか誘いたいくらい」

「それはアイツに恨まれそうなんでイヤっす」


 ふふ、と、その反応に思わず声が漏れる。

 きっとあの人に伝えてしまえば、いってきますを伝えれば大丈夫。そう思い始めていた。


「今からお参り、本当に怒られない?」

「……先にオレだけで聞いてきます」


 そう言って、彼はあの人の家に先に駆けていった。


 一つ深呼吸して、メッセージを鼻にくっつける。

 もうあのむせ返るようなあの日のにおいはしない。


 少しの、桜の香り。

 ただ穏やかな夜の、あの人の声が聞こえるような、ほのかな香りだった。






 



 



 



 



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