灰色のベランダ


 十一月を迎えようというアパートのベランダは、気温以外変化するところは全くない。灰色で硬く無機質な素材に季節を表す力はなく、そのお陰でアタシは衣替えのタイミングが判らずによく体調を崩す。


 植物でも置けばいいのかも知れないけど、正直育てられない。サボテンを根から枯らしてしまったもの。ムリよ。話しかければ元気になるなんていうけど、アタシにはまずそれができない。照れくさくない? だって。だから植物は置かない。


 ベランダを彩るものは、モノトーン調の洗濯物と、たまに干すふとんの明るい緑だ。


でも、いまは何もない。


 コンクリートが、傾いて穏やかになった日に直接照らされているくらいね。ベランダに光がさし込んでいるのに気づくと、アタシは上着をはおって、まるで吸い寄せられるようにベランダに出て、窓を背もたれに座り、上着からタバコとライターを取り出しているんだ。


「さむ……」


 思わず呟くけど、部屋にもう一枚服を取りに戻る気はなかった。それほどここに光が入る時間は短いんだから、日が落ちてしまうまで戻らない。


 なんだか……蛾みたいね。光を求めて、でも届かなくて地上にとどまってる。蝶のように鮮やかでも、キレイでも、喜ばれる存在でもない。ピッタリだわ。蝶は光を追わないもの。

 タバコを一本くわえて火をつけると、白い線がアタシの空間に色を添えた。昇る先を目で追うと、少し離れたところに白い満ちかけた月がこちらを見下ろしていた。


「明日くらいかな」


声にならないくらいの呟き。含んだ煙は、苦く口内に広がった。


 両手の親指と人差し指で窓を作って風景を切り取ってみると、ベランダから見える空は、その四角より少し広いくらい。


 三階建てアパートの二階のまん中の部屋のベランダは、横にも縦にもなんとなく狭くて、しかも目の前にもここより高い建物があるから、そんな手窓くらいの景色しかない。


 でも、別に嫌いじゃないわ。


 限られた空も、フェンスと前の建物とのピントが定まらなくてクラクラする感じも、この季節だと肌に触れる風の冷たさなんかも、アタシは嫌いじゃない。


 それに、満月の夜だけはここは特等席だ。


 その夜は手窓の枠の中心に、落ちてきそうなくらい膨らんだ満月が顔を出す。アタシが一番好きな夜だ。月がアタシを求めているようで、蝶のような存在になった気がする。光を追わなくていい時間だ。


 でも、満月の夜はロクなことがない。イライラしていた時には、お気に入りの時計を壊したし、イスが座っただけで壊れた。


 ……イスは古かったのよっ。


 そういえば、サボテンが枯れてしまったのも満月の日だった気がする。ホントに良いことがない。



 そして先月は、学校を辞めてしまった。



 場所は違うけど、学校でのアタシの居場所もベランダだった。日当たりはアパートよりずっと良くて、よく一人でぬくぬくしていた。ここなら、教室のヒソヒソや騒音にイライラしなくて良かったから。


 群れに馴染めなくて、周りもアタシを遠巻きに見ていた。明るいのに闇の巣窟なんて呼ばれてもいたわ。バカね…住人は一人だったのに。


「おはよっ」


 学校に通っていた頃、先生以外でアタシに挨拶してくる人が二人いた。


 一人はわりと誰でも仲の良い印象を受ける『トモ』と呼ばれる女子と、もう一人は、「中島さん」とか鳥肌ものに丁寧にアタシを呼ぶ名も知らぬ男子だった。トモも、中島さんと呼んでいたけど、別のモノだ。


「おはよ」


 いつもアタシの巣窟にわざわざ踏み込んで来るのは、ほとんどがトモで、アタシはもう慣れてしまっていた。


「暑くないの?」


 陽射しに目を細めながら、彼女はアタシの隣に座った。


「もう大分マシよ」

「そう? まぁもう九月だもんねぇ」


 トモはそこでニッと笑った。アタシにとってみればそっちの方がずっと眩しいわ。でもトモの笑うポイントは中の人たちと同じでよく解らず、そこは苦手だった。


「また増えたよ、伝説」

「今度は何?」

「中島さん実は整形伝説」


 少し力強く発音された言葉に、アタシは思わず吹き出した。


「うわぁ、くだらない」


 伝説、つまり悪口。中の人たちはよく、こんな風にありもしないことをでっち上げては楽しんでいるらしい。明るい場所に居るなら、闇なんて見なければいいのに。


「でも最近ちょっとタチが悪いよね」


 そう言ったともに、アタシは裏で苦笑した。


「アナタだってそれを一度は笑って聞いてるんでしょ?」


 そう、呆れた。それくらいのことは言える間柄。でも、それだけ。


 そんなことないとトモは苦笑するけど、歯切れの悪さに意図は察する。もっと反論とか、同情とかしてくれてもいいじゃない。そして、そう思ってる自分自身にも呆れた。


「でも、中島さんホントに整形じゃないんだね」

「どういう意味よ?」

「怒らないでよ。前髪で見えなかったりするけど、中島さんカワイイからさ」


 真顔で言うトモに、アタシは惨めになった。


 彼女の表情の一つ一つは、作り物みたいに隙がなくて綺麗だ。濃く深いブラウン調の大きい瞳も、日に当たると計算したように煌めく黒髪も、艶のある唇もスッとした鼻も、笑うと浮かぶ小さいえくぼも、誰が見ても息を呑んで奇跡だと思うだろう。


 そのともがアタシをカワイイなんて言うなら、貴女は女神だよ。


「バカなことを言わない」


 かろうじて、それだけ返した。


「あっ、ホントだよ」

「はいはい」

「ホントなのに」

「はいはい」


 意識すると一層彼女は綺麗に思えた。その光をアタシに向けていてほしい。そう思い始めていた自分は…怖かった。だから、始業のチャイムが鳴って教室に入る直前、


「今度、相談があるんだ」


 そう告げられた時は、胸が痛くなるくらい嬉しかったんだ。彼女が近い存在だと微かに思えたから。教室に入ると目がチカチカしていて、気絶しそうだった。それが太陽のせいか、トモのせいかは判らなかった。


「おはよう中島さん」


 そしてその高揚した気分が、一瞬で鳥肌がたつと同時に消えたのを…アタシは覚えている。いま思えば、それで良かったのかも知れない。彼の笑顔はトモに比べると素朴だった。



 夕日が沈む頃、今日は昨日より一枚多く服を着てベランダに座っている。鼻を一度すすった。お尻が冷たいけど、それはじきに慣れるだろう。


 風が少しでていて、煙はすぐにかき消されていた。寒くはない。


 曲げた膝の上に腕を置いてぶらつかせていると、なんとなく左手の傷が目立って見える。タバコを右で吸ってるからだろうか、ううん。多分…思い出したせいだ。風が染みる気がした。ひっかき傷にも似た、左手首の一本の線。この傷はトモの相談の時につけた傷だ。赤い日に当たると、まだ血が流れてるみたい。


 トモが持ち掛けてきた相談は、もうあまり覚えていない。

 年頃の女の子らしい話だったかな。

 アタシが関係ないと思っても、彼女はそう思えなかった。そんな話。


 トモはだんだん高ぶってしまい、ほとんど途中から聞き取れなかったから。取り乱した彼女を見て、アタシは友達気分で相談なんて甘い期待を抱いた自分を恨んだ。


 そして、目の前で泣きながらカッターナイフを取り出したトモからそれを取り上げ、アタシはそのまま左手首に当て引いた。別に狂ったわけじゃない。彼女がやろうとしたことを、アタシが実践してあげただけ。


「アンタのやろうとしてることなんて、所詮こんなもんよ。死にもしないし、傷つきもしない。…甘えてる」


 そう、冷たく言い放った。

 切味の悪いカッターでは、数滴血が浮かぶだけで、落ちもしなかった。鈍く強くなる痛みに顔をしかめてトモを見ると、唖然としてこちらを見つめていた大きな瞳から涙が溢れ、彼女は形よくますます泣いた。アタシはそんな仕草に嫉妬するしかなくて、座り込んで頭を抱えた。


「だって……だって……」


 トモはそればかり繰り返した。


 バカみたい……アタシもトモも。


 やがて泣き止まないまま、トモはフラフラと歩きだした。アタシは追いかけて送って帰ったりはしなかった。アタシは衝動的に窓を殴った。割れずに痛みが返るけど、反対の手首の方がやっぱり痛かった。思えば、その時も学校のベランダだった。


 その出来事で、アタシとトモの関係は終わった。彼女はベランダに来なくなり、アタシなど始めから居ないかのごとく視界に入らない様子だった。伝説を作り出す人たちと楽しそうに話し、まるで前の日の放課後のことなんて忘れたみたいだ。


 いや、ホントに忘れたのかも知れない。もしくは帰りにアノ子らの誰かに会って、彼女が望む答えが得られたのかも知れない。それか、アタシが誰かに言うのを恐れて、向こうに張り付いているのかも知れない。


 できれば、前の二つのどちらかであってほしい。


 どうせ離れた場所で笑うなら、せめて……。


 アタシの巣窟が永久に広くなった日、アタシは初めてタバコを口にし、次の日には学校に行かなくなった。手首に巻かれた包帯にどんな伝説が産まれたんだろうと、他人事のように考えた。


 もう感傷も湧かない、ただの過去。


 初めて口にした煙はひどく不味くて、頭痛がしたの。気持ち良くなんかなかった。肺が狭くなったみたいに息苦しくて、何度も深く呼吸を繰り返した。せきこんで、煙が目に染みた。


「おはよう中島さん」


 学校最後の日、なぜかいつもの彼の声に鳥肌はたたなかった。

 その後、登校拒否生から自由人に転職した夜は満月で、今日よりまだずっと暑くて気だるかった。



 秋は好き。でも染みる。


 冬も好き。でも染みる。


 日はもう暮れて、空は夕紅から紺へもう一枚ベールを被った。少し冷たい風が通り過ぎる。


 日常のほとんどを気づけばベランダで過ごしていたアタシは、夏にバテて秋口に元気を取り戻す。食べ物も、これからの季節の物が好きだしね。


 でも、これからの冷たい風は染みる。今年は特にそうね。フッとやってくる虚無感に、何をやっても落ち着かなくなるんだ。ただただタバコをくわえて、擦り傷みたいにジクジクする心に風を当てて、その痛みに自分の存在を確認するの。ココニイルと、アタシジシンに知らせるんだ。


 左手首の傷はもう塞がっていて、白い線のよう。拳をギュッと握り締めて、タバコを持つ手でクシャッと前髪の生え際を掻くと、煙が目に染みて涙が洗い流した。コンクリートににじんだ滴は淀んでいるように見えて、また風が痛かった。


 部屋のライトを消して出てきていたから、光源はタバコの火とたまにつけるライターの火だけだった。


 それと、満月。


 それだけでも充分に明るい。アタシの部屋のベランダから見える空には、星がない。月明かりが光を遮ってしまってるんだろう、手窓の中心に来てるからなおさらね。


「来たわね……」


 そう言ったアタシ自身が滑稽で、続きが出てこなかった。サボテンを枯らす人間が、月相手に語りかけるのよ? 笑えるわね。


「……」


 言葉は潰えてしまった。遠くで犬の吠える声が聞こえる。その子も月に向かって吠えてるんだろうか?

 やっぱり、アタシに独白はできない。言いたいこと、文句やグチを延々と考えて来たのに、一つも出てこない。月もサボテンも同じ、何も返ってこないのだ。含んだ煙は苦くて、吐き出しながら唇を噛んだ。強く噛みすぎて頬が濡れた。吹き抜けた風は頬にチリチリと痛い。


「――ッ!」


 声を上げそうになった瞬間、上着のポケットが突然歌いだした。

 ハッとなってタバコを灰皿に押し当ててポケットに触れると、固い物が震えていた。…なんてことはない、電話の着信。この上着に入れてたことすら忘れていた。それくらいこの電話は鳴らない。


 携帯は変わらず歌い続けている。でもその曲は親からの時の曲じゃない。恐る恐る、でもまた愚かとも言えるな期待を抱きながら、アタシは取り出して表示を見た。


『公衆電話』


 そんな知り合いはいない。


「うわぁ」


 思わず呟いた。イタズラかしらと、落胆は小さくなかったけど、なんとなく気持ちに余裕はできた。指は意外と軽く動いた。


「……もしもし」


「もしもし、中島さん?」


 一瞬ゾクリとした。低い男の声。でももう鳥肌は立たない。


「俺、斉藤だけど」


 口の中がねとついてる感じがする。名前は初めてたけど、声は憶えてる。


「うん、わかるよ」


 なんとか唾を飲み込むと、それだけ答えた。彼の声はもっと細いものに感じていたけど、それは見た目から想像したアタシの記憶のモノだったらしい。実際はしっかりとしている印象だった。

 

自分のこと『俺』って言うんだ。


「どうしたの?」

「いや、中島さん学校に来なくなっちゃったから、どうしたのかなって」


 まともに彼と話すのは初めてだった。穏やかなトーンで。いつもの聞いていたあいさつと同じ。でもその心を戒めるように、口内は辛くなった。沈黙を保って、またタバコ火をつける。


「アタシ学校辞めたんだよ? 聞いてないの?」

「エッ? ううん、学校じゃ辞めた人の話とか、ホームルームでもされないから」


 その反応はなんだか白々しく聞こえた。そう……期待なんかしちゃいけない。


「ふーん、アタシだからじゃないの?」


 爪でベランダの床をガリガリと掻く。指に伝わる振動が不快。


「違うよ! それは違う。だって友野さんが辞めた時も何も言わなかったし」


 そう強くフォローしようとする彼の言葉の一つに、アタシの心臓は飛び上がった。


「待って、トモが、辞めた?」


 トモガヤメタ。まるで別の国の言葉のような、アタシの理解出来ない呪文のような響き。


 信じられない。彼女は蝶だもの…。


「うん。女子たちの間では噂になってたからね。中島さんの番号も、友野さんから聞いたんだよ」


 胸が重たくなった。彼女は学校を本当に辞めた。そしてアタシのことを忘れてなくて、それでもアタシには一言も話さなかった。どんな思いで見てたんだろう…。


「どうして?」

「そこまでは知らないんだ。ごめんね」

「そう……。トモ、何か言ってた?」 

「いや? 何も特には言ってなかったよ? どうして?」

「ううん、なんでもない」


 そうよね、多分眼中になかったことは変わらない。そしてきっと、みんなが涙する去り方をしたんだ。


 別に怒りも、悲しみも沸き上がらない。

 ただ、吐き気がした。


「あのさ、中島さん」


 鬱屈したアタシの耳に、彼の穏やかな声音が染みる。


「ん?」

「いまから会って話さない? カード、尽きそうなんだ。あと六……五になった」

「え? そっか、公衆電話だもんね」

「うん。会って話したいこともあるんだ」


 真剣な口調で、彼は言った。

 アタシは天を仰いだ。膨らんだ月は、柔らかい光を注いでいる。でも、ロクなことがない。今度はアタシをベランダから追い出す気らしい。ゴメン、と電話越しに届いた声は本当に申し訳なさそうで、おかしかった。


「どこにするの?」


 そして、それだけ聞いた。


「いいの? 駅前の大きな公園は?」


 そこは学校の近くで、思わずウッと体がのけ反ったけど、フッと強く息を吐いた。いいわ。


「十分くらいね、わかった。着いたら連絡って……携帯ないの?」

「あ、うん。恥ずかしながら」

「じゃあ、ジャングルジム近くのベンチで」

「了解。ありがとう」

「ううん」

「じゃあ!」


 また静けさが戻った。相手が切るのを待たないところは、なんだか彼らしい気がした。

 多分緊張してたんだろう。アタシもだ。やめたトモからどうやって番号を聞いたのか、今更だけど不思議に思う。冷えた指で、またタバコを一本くわえて火をつけた。


 満月の夜はロクなことがない。結局アタシは傷を掘り返されてしまった。でも、いいわ。この後何があっても、それはそれでいい。電話をくれたことが奇跡みたいなものだもの。それ以上は望まない。アタシを知ったら、きっと彼だってアタシを見なくなってしまう。


 ねぇ、少しだけで待たせてもいい? 大丈夫。一本だけだから。


 じゃないとアナタを見て逃げ出したくなるかも知れない。


 月は落ちそうなくらい膨らんで、アタシを急かしているみたいだった。嘲笑してるようにも、見守ってくれているようにも見えた。ベランダの巣窟はなくならない。またいつでも戻ってこられるから、アタシの居場所はいつもある。満月の照らす、穏やかな場所。


 なんとなく傷跡をひっかくと、白い線に赤みがさす。彼は多分気づかない


 ベランダの蛾に興味を持つ人は居ない。けど、人によっては蝶になるかも知れない。彼にとってそうなのかは知らないわ。

 

でも、ありがとう。足取りは少しだけ早く、公園に行こう。貴方が怖くなる前に、月明かりに映える蝶に見えるように……。煙は軽やかに、綺麗に昇った。


 タバコを押さえ付けると、灰皿じゃなく地面に直接跡をつけてしまった。黒いけれど、ベランダに飾った初めての色。うん、何かが変わった。


 手窓の中の満月の前を、蛾でも蝶でもない何かが横切った。



 さぁ、公衆電話のレトロな彼に会いに行こうかな。

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