八月 1

 夏休みになって、久しぶりに実家へ帰る。自宅アパートから電車で一時間ほどの距離。子供の頃から使い慣れた駅につく。ジージーやシャワシャワシャワと聞こえる蝉の鳴き声を聞きながら坂を上る。バスも出ているが、停留所三つ分の距離は、歩けばバスを待つ時間と同じくらいで着いてしまう。見上げる昊天は遥かに深く、美しい紺碧。今年も猛暑で、駅から歩くだけでひどい汗だ。

「ただいまー」

 玄関を開けると、実家特有の匂いがする。夏の終わりの、実家の匂い。私が育った、家の匂い。

「ああ、さあ坊、暑かっただろ、早く入れ」

 リビングから顔を出した父が言う。半袖の肌着みたいなTシャツに甚平のズボン。隣のおっちゃんみたいな服装だな、と思う。うちの父のほうが痩せていて色も白いけれど、きっと他人が見たら、おっちゃんと同じくらい、「おっちゃん」なのだろうと思うと、なんだか少し切ない気もした。自分が年を重ねるごとに、親も年を重ねる。それは当たり前のことなのだけれど、いつか親が高齢者と呼ばれるような年齢になったとき、いつまでも甘やかされている私は、そのことをしっかり受け入れなくてはいけないのだろう。

「暑かったわー」

 リビングはクーラーが効いていて最高に気持ち良かった。

「さあちゃん、おかえり。スイカあるわよ」

 母がキッチンから出てくる。

「スイカ! 食べる!」

 反射のように返事をして、私はソファの父の隣に座る。父は「暑かっただろう」と言いながら読んでいた新聞で私をあおいでくれた。

 実家に帰ってくると、あっという間に「さあちゃん」と「さあ坊」に戻ってしまう私。いつか両親は老いて、弱って、私より何もできなくなるときがくるのかもしれない。でも、まだ今は、甘ったれのままでいたいと思った。

 両親と一緒にスイカを食べる。瑞々しくて甘いスイカにかぶりつき、私の体は汗で失った水分をぐんぐんと吸収している。旬のものを食べる幸せ。体が喜んでいると感じた。

「さあ坊は、なんだか機嫌が良さそうだな」

 父がそんなことを言う。

「そお? 別に、いつも通りだけど」

「なあ、母さん」

「そうね、何かいいこと、あった? そんな顔してるわ」

 二十代後半まで育てているのは伊達じゃない、ということか。私は、彼氏ができました、と報告するかどうか迷う。でも、その前に報告しなければならないことがある。今日は、そのために両親に会いに来たようなものなのだ。

「別にいいことがあったってわけじゃないんだけど、報告しなきゃいけないことはある」

 私の発言に、両親は顔を見合わせた。あまり愉快な話ではなさそうだ、と私の口調から読み取ったのだろう。

「実はね、看護師、辞めたんだ。言ってなかったけど、もう一年くらい前に」

 両親はまた顔を見合わせた。そして、なぜが「ふふっ」と笑った。

「何? なんで笑うの?」

「知っていたわよ」

 母が言う。

「え? 知ってた?」

「うん。辞めたって、思ってた」

「なんで?」

 母が父の顔を見る。

「去年の夏頃までの一年くらい、さあ坊がひどく疲れているように思えてな。ちょっと忙しすぎるんじゃないか? って母さんと心配していたんだよ」

 そんな風に思われていたなんて、全く気付いていなかった。

「それで、まあ、看護師は立派な仕事だけれど、それでさあ坊が体を壊したんじゃ仕方ないって思って、ちょっと休んだらどうだ? って言おうと思っててな」

「知らなかった」

「まあ、言わなかったからな。それで、詩織に相談したんだよ」

「お姉ちゃんに?」

「そうだ。そしたら、詩織が、『冴綾だったら、自分の仕事にちゃんと向き合って、自分の疲労とも向き合って、辞め時が来たら自分で決めて辞めると思う』って言ってきて、それもそうだな、と思ったわけだ」

 姉は「お父さんとお母さんに言われて仕事辞めたら、そのあと何か後悔したときに、二人のせいみたいになっちゃうの、冴綾は嫌だと思う。自分のことには、ちゃんと自分で責任持ちたい子だと思う」と言ったそうだ。

「詩織ちゃんの言う通りだと思ったわ。それで、とりあえず少しの間、見守ろうということになったのよ」

 母も、思い出すように語る。

「それで、夏が過ぎた頃に、詩織が『冴綾、仕事辞めたと思う』って言ってきたんだよ」

「なんでわかったんだろ?」

 私は姉と仲が良い。でも、子育てに奮闘している姉に、自分の仕事の愚痴などは言ったことはなかった。

「夏以降、少しずつ元気になってるって、詩織ちゃんが言うから、それなら良かったと思ってて、そしたらさあちゃんが『お正月休みとれたから久しぶりにそっち泊まる』って連絡してきたから、本当に少しは休める仕事を探したんだ、と思って、安心していたのよ」

 心配かけまいと何も言わなかったことで、余計心配をかけて、しかもそれを自分だけが知らなかったとなると恥ずかしい気持ちになった。末っ子の甘ったれは、結局甘やかされている。

「じゃ、辞めたの知ってて、何も言わないでいてくれたんだ」

「さあちゃんが、自分から言ってくるだろうからって、こっちから言うのはよそうって話して決めたのよ」

「さあ坊は、辞めたことをどうしてすぐに言わなかったんだ?」

 どうしてだっただろうか。

「なんかさ、看護師っていう仕事をしていると、しっかりしてるっていうか、人の役に立ってますって感じするじゃん。立派な仕事してる大人って感じ。でも、その看護師の看板を外しちゃった私には、何も残っていない気がしたの。それで、お父さんとお母さんに心配かけたくなかったし……辞めた理由も、何か逃げて辞めたみたいな感じだったから、言いにくかったんだよね。でも、言わなかったことで余計に心配かけていたんだね。ごめんなさい」

「謝らなくていいんだよ」

 父は、スイカでべたべたになった手で私の頭をぽんと撫でた。

「それで、どうして今になって報告しようと思ったんだ?」

「看護師の看板がなくなっても、ちゃんと私は、私だったから」

 そう言うと、両親は微笑んで「当たり前じゃない」と言った。

「それに、看護師をやっていたときに感じたことも、無駄じゃなかった。今の私を作る上で絶対に必要な時間だったんだって、思えるようになった。大変なこともあったけど、看護師をやっていて良かったって、ちゃんと思えるようになったからだと思う。看護師をやっていた私も、頑張っていた私も、頑張り切れなかった私も、辞めた私も、全部があわさって今の私がいる。そのことに、気付けたから」

「無駄なことなど何もないのだよ」

 父が柔らかい声で言った。

 にこにこしながら私のことを眺めている両親を見て、ある夫婦を思い出した。井上先生の病院の外来にいたときに出会った患者と、その家族のことだ。


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