真帆は疲れたのか、私の貸したパジャマを着て、すーすー寝息を立てて眠っている。ソーシャルワーカーの木内さんからはすぐにLINEの返信が来て、明日さっそく会えることになった。暴力彼氏と離れて、シェルターの話も聞けることになって、真帆が少しでも安心して眠れる時間ができたなら、良かったと私は思った。狭いシングルベッドの私の隣で、横向きに丸まるように眠るかわいい真帆。田丸さんは、ソファで横になると言っていた。

 私は、眠れずに天井を眺める。玄関のチェーンが弾き飛ばされて、男が土足で家にあがって行ったとき……思い出しても手足が冷えるような恐怖を感じる。そのあとは、無我夢中だった。真帆が殺されてしまう、と思って、子供みたいに叫んでいた。真帆はあんな環境で、よく耐えていたと思う。逃げる勇気。私だったら、あっただろうか。

 真帆を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。薄暗がりのソファで、田丸さんが起きて座っていた。

「寝ないんですか?」

 私の声に、田丸さんはゆっくり振り返る。

「藤田さんこそ、寝ていなかったのですか?」

「はい。なんか、興奮しちゃってるんだと思います」

「そりゃ、そうですよね」

「田丸さん、寒くないですか?」

 日中との気温差が大きい季節。私の部屋は、少しひんやりとしている。田丸さんは長袖のTシャツ一枚だ。

「大丈夫ですよ。藤田さんは大丈夫ですか?」

「これを着ます」

 私は、真帆に貸していた着る毛布を羽織って、ソファの田丸さんの隣に座った。

「それは温かそうですね」

 真帆を起こさないように、二人で囁くように喋る会話は、優しくて穏やかで、私はさっきまでベッドで思い出していた恐怖が凪いでいく気がした。

「今日は、大変でしたね。藤田さんは怪我しませんでしたか?」

「はい。テーブルに腰をぶつけたくらいで、あとは大丈夫です」

「それはそれは、痛くないですか?」

「少し痛いですけど、真帆に比べたらこんなもの……」

 そう言うと、田丸さんはすっと目を細めた。

「岡野さんは大変でしたが、痛みは人と比べるものではありませんよ。藤田さんが痛いなら、それは痛みです」

 私は、テーブルに打ったところを触ってみる。やっぱり痛かった。明日になったら、青く内出血してくるかもしれない。

「ほら、痛いのでしょう」

「そうですね」

 私は苦笑しながら、湿布を貼っておこうと思って立ち上がった。引き出しから湿布を取ってソファに戻る。

「貼りましょうか」

「え?」

「湿布、貼りますよ。腰じゃ、見えないでしょう」

「あ、すいません」

 私は、羽織っていた着る毛布を脱いで、田丸さんに背中を向け、長袖のTシャツをめくりスウェットを少し下げた。

「このあたりですか?」

 田丸さんの温かい手が腰に触れる。

「はい」

「痛みが和らぎますように……」

 おまじないを唱えるように言いながら、田丸さんはそっと私の腰に湿布を貼った。一瞬ひっとなるほど冷たい湿布と、湿布の端を丁寧に貼る田丸さんの温かい手。突然に照れくさくなって、私は服を戻し「すいません」と前へ向き直った。

「いえいえ。早く良くなるといいですね」

「はい」

 田丸さんのこの優しさが、この先いつも真帆に向けられていくとしたら、きっと真帆は元気になっていくだろう。今は、怖くて人を愛せないかもしれない。でも、自分を大事にしてくれる人に出会えれば、変われることもあるだろう。

「そういえば、浜田さんが真帆の彼をすごい威圧してくれて、ちょっとびっくりしました」

 普段の浜田さんは、無愛想ではあるが、声を荒げるようには見えなかった。

「ああ、あいつ、キレたんですね」

「ええ、すごい剣幕でした。おかげで真帆の彼を追い払えたので、ありがたかったんですけど」

 田丸さんは、少し苦笑する。

「あいつは、まあ、若い頃少し、いわゆる、ヤンチャなタイプだったんで」

 田丸さんが歯切れ悪く話すのを聞いて、少しおかしくなった。

「ヤンチャ、ですか」

「ええ。少し、ですよ」

 きっと、若い頃は若い頃で、浜田さんと田丸さんは、言葉少なに分かりあっていたのだろう。ヤンチャをしていた頃の浜田さんも、それを見ていた田丸さんも。

「田丸さんも一緒にヤンチャしていたんですか?」

「ええ? そう見えます?」

「人は見かけによらないものです」

「ふふふ。では、ご想像におまかせします」

 田丸さんは、いわゆるヤンチャな若者ではなかったのだろうと思う。浜田さんとは、ちょっとタイプが違う。でも、だからこそ仲良くなれることもある。性格が違って、生きてきた道順が違って、環境が違って。だからこそ、信頼できる友達もいる、と私は思う。

「ところで、シェルターなんて、良く思いつきましたね。田丸さんが言ってくれなかったら、私木内さんの連絡先も探せないところでした」

「ああ、そうですね」

 田丸さんは、なぜか少し決まり悪そうにした。

「前に、過去が追いかけてくるって話、しましたよね?」

 脈絡のない話題に私は首をかしげる。確かにそんな話はした。あれは雪の道を歩いて帰った日のことだった、と思い出す。

「はい。覚えていますが、それが?」

「あの過去というのが、僕が九州にいた頃の記憶のことでして」

 出身は九州だと言っていた。確か、中卒で上京して、浜田さんのお父さんのやっていた酒屋さんで働かせてもらっていた、と。

「父親が、暴力を振るう人でした」

「え?」

 私は、思わず田丸さんの横顔を見つめた。優しい言葉しか吐いたことがないのではないか、と思えるような、菩薩のような顔。

「母親は、小学生だった僕を置いて逃げました」

「え?」

「ひどいと思いますか? そうですよね。でも、僕は思いませんでした。よく逃げてくれた、と褒めたい気持ちでした。暴力を振るう父親も許せなかったんですけど、それに耐えているだけの母親も、許せなかったんです。どうして逃げない? 危ないなら逃げるのが普通だろ、ってね」

 そう言って、田丸さんは私を見た。

「さっき、藤田さんも、岡野さんに言ったでしょう。自分を守るためなら逃げることも大事だよ、って」

 確かに言った。

「その通りなんです。だから、僕も中学の卒業と同時に、逃げてきました。今も、逃げています。父親はもう亡くなったと聞いていますが、記憶は追いかけてきます。その記憶から、今も逃げているのです」

 私は何も言えずに聞いていた。

「母親が逃げだす前に、一緒にシェルターのことを調べたことがあったんです。当時は今ほど数もなかったし、田舎だったんで、近くに良いところもなくて、結局シェルターには入れなかったんですけど。今回は、そのことを思い出しました」

「大変だったんですね」

「いや、まあ、そうですね。逃げられて良かったですよ」

「お母さまは今どうしているんですか?」

「知りません。どこかで幸せに暮らしてくれていれば、いいんですけど。すいません。ちょっと暗い話でしたね」

 そう言って微笑む田丸さんはいつも通りの田丸さんで、きっと辛い過去を抱えて生きてきたから、真帆のことも他人事と思えず、力になってあげたい、と思ったのだろう、と納得した。きっと、田丸さんと真帆なら、うまくいく。

「明日、良いところを紹介してもらえるといいですね」

「はい。木内さんはとても熱心な方ですから、きっと良い方向へ向かうと思います」

「はい。そう信じています」

 ひんやりとして静かで、世界には、私と田丸さんと、ベッドで眠っている真帆しかいないのではないかと思うような時間だった。私は、ときどきそういうことがある。例えば仕事の帰り道、たまたま自分の視界から、人も車も、カラスやハトさえも、何もかもがいなくなる瞬間がある。稀にだけれど、ときどきある。そういうときは、自分以外の生き物の気配が全くなくて、私だけ地球の速度に追いつけなかったのかな、と思う。私だけ自転に置いていかれた、と。今は、三人まとめて、この夜ごと、地球に置いていかれているようだ。

「地球の自転に置いていかれたなって思うことありませんか?」

「どういう意味ですか?」

 私は、うまく説明できない感覚を、どうにか言葉にしてみる。田丸さんは少し考えたあとに「じゃあ」と言った。

「じゃあ、僕たちは周回遅れの地球で出会ったんですね」

「周回遅れ……」

 それは、とても居心地の良い言葉だった。急がなくていい。追いつかなくていい。焦らなくていい。一周遅れても出会えるから大丈夫。私は、すっかり安心した気持ちになった。

「私は、周回遅れで生きていたいです」

 そう言うと、田丸さんは五月の夜気そのものみたいに、静かに微笑んだ。


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