三月 1

三章 三月


 うらうらと日差しが温かい日、おっちゃんの家のドアが開きっぱなしになっていて、ああ春が近付いてきたんだな、と実感する。「おっちゃん」というのは、私の部屋の、ヤサと反対側のお隣さんのこと。

 引っ越してきてすぐ、初めておっちゃんの部屋へ挨拶に行った日、外開きのドアが全開にされていて、四リットルペットボトルの焼酎がドアストッパー替わりに置かれていたのを見たときは驚いた。階段から一番離れた部屋だから、玄関の前を通る人はいない。だからって、あんなに無防備に全開にするのは何だか勇気がいるな、と思いつつ部屋を覗くと、五十代くらいのおじさんが一人で、肌着のような半袖のTシャツと甚兵衛のズボン姿で、座って煙草を吸っていた。ドアは開け放たれたれていたけれど、一応、と思ってチャイムを鳴らすが、壊れているのか鳴らない。

「すみませーん」

 中に人がいるのは丸見えだったので、覗いているみたいで申し訳ないと思ったが声をかけた。

「ああ?」

「すみません、あの、隣に引っ越してきた藤田と申します」

「ああ」

 よっこらせ、と言いながらおじさんは立ち上がり、玄関まで来た。

「あの、これ、つまらないものですが」

 私は、菓子折りを渡す。巨大な焼酎を見る限り、甘いお菓子よりつまみになるもののほうが良かったかな、と思ったが、仕方ない。

「ああ、わざわざすんません」

 おじさんは、背はそんなに高くないけれど、ずんぐりと筋肉質で、少し強面だった。腕が太く、日に焼けている。

「一人暮らしなの?」

 低い、いがらっぽい声で聞いてくる。

「あ、はい。そうです」

「おっちゃんも一人暮らし。勧誘とかセールスとか、たまにしつこい奴いるから、困ったらおっちゃん呼んでいいからね」

 くわえ煙草でにっと笑うと、強面にしわが寄って少し愛嬌があった。

「ありがとうございます」

「あと、おっちゃんの部屋の真下の部屋、ここカップルが住んでるんだけど」

 そう言いながら、おっちゃんは自分の足元を指さした。一階の住人のことを言っているらしい。

「犬飼ってるんだよ、トイプードルっていう、ちっせえやつ」

 このアパートは確か、ペット禁止だ。

「ああ、そうなんですか」

「そうそう。で、きゃんきゃんすげえ鳴くんだよ」

「はあ」

「でも……」

 強面からどんな言葉が発せられるのか、私は少し緊張した。

「おっちゃん、犬好きだから、不動産屋にチクらないでやってくれる?」

 そう言っておっちゃんは笑った。私はくだらない茶番に付き合わされた気がして、当時は少し不快だったことを覚えている。今だったら、一緒に笑えるのかもしれない。

「ああ、はい。気にしませんので」

 騒音問題などの近隣トラブルに自ら飛び込むようなタイプではない。

「そうかい、それなら良かった。あんまりうるさくて気になったら、おっちゃんに言ってな。おっちゃんから下のカップルに注意しておくからよ」

 そういうと、おっちゃんは「じゃあ、よろしくな」と言って、部屋に戻って行った。

 その夜、一階の住人に挨拶に行くと、おっちゃんの言っていた通り、室内からきゃんきゃん吠えている犬の声がした。出てきた若い派手な女の子は、室内を振り返ってから「うるさかったら、さーせん」と言って、片手を顔の前に出して、ごめんのポーズをして見せた。その手の長い爪には、イチゴミルクのようなピンク色のデコネイルが施されていた。金髪の、化粧の濃い子だった。彼氏も部屋にいるようだったが、顔を見せには来なかった。その隣、私の部屋の真下の部屋の住人は、大人しそうな若い女性だった。おっちゃんによると、美術大学に通う大学生らしい。


 おっちゃんの部屋は、真冬以外は開けっ放しで、相変わらず四リットルの焼酎がドアストッパーになっている。今朝それを見て、引っ越してきてもう八ヶ月経ったのか、と不思議な気持ちがした。部屋を出て、階段へ向かって歩き出すと、階段方面のお隣さん、ヤサが玄関から出てきた。

「さーや、おはよう」

「ヤサ、おはよう。お母さん、どう?」

 怪我をした一週間後の抜糸は、ヤサと二人で電車で行ったと聞いていた。その後、どうしているだろう。

「おかあさん、げんき。こし、いたいのも、よくなった。あたまのきず、なおってる」

「それは良かった」

 あの日のヤサの蒼白な顔を思い出す。不法滞在をしているせいで病院にかかれない、と必死で訴えていたヤサ。何が正義なのかわからないけれど、あのとき一人の怪我人を目の前にして、私は受診させずにはいられなかった。そこには、不法滞在も国籍も、関係なかった。

「それでね、さーや、こんしゅう、きんようび、よる、ひま?」

「金曜日? うん、予定ないよ」

「じゃ、たまるさんと、はまださんよんで、いえでパーティしたい」

「パーティ?」

「そう、おかあさん、おれいしたいって。ごはんつくる」

「ヤサのお母さんが手料理でもてなしてくれるってこと?」

「そう!」

「わ、楽しみ! 田丸さんと浜田さんにも聞いておくね!」

「よろしくね」

 私は、ヤサの優しさが嬉しかった。不法滞在という罪悪感を持ったまま、生活しなければならない不便さと、恐怖。それでも、逃げるしかなかった環境なら、せめて逃げた先で少しでも楽しい時間が過ごせればいいと思った。そう思いつつも、そんな考えは傲慢なのかもしれない、とも思った。逃げてきた人を助けるなんて、自分勝手なエゴなのかもしれない。無意識の差別なのかもしれない。私はまた、正しいことがわからなくなっている。

 車の中で田丸さんに言われたことを思い出す。正義は見る角度によって大きく変わる。その通りなのかもしれない。難しいことを考え始めると思考がぐるぐるして正解が全く見えなくなるから、今はとりあえず、ヤサの家に遊びにいくことを楽しみにすればいいと考え直した。

 田丸さんと挨拶に行った日から、なんとなく恥ずかしくて足が遠のいていたため、コンビニに行くのは久しぶりだった。行くと浜田さんがいた。目が合うと「ああ、先日の」と声をかけてくれる。

「この前は、ありがとうございました」

「いえ、いいんですよ。会社の車ですし」

 相変わらず無愛想な店長だな、と思う。

「それで、あの日車を貸していただいて病院に行った方が、お礼に食事に招きたいと言ってくださいまして、浜田さんもぜひと言っているんですが」

「ああ、ヤサ?」

「ご存じですか?」

「あのあと、お礼を言いに来てくれましたよ。以前から店を使ってくれていたのでお顔は拝見していましたが、怪我したのは、あの方のお母さんだったんですね」

「はい。それで金曜日の夜に家に招きたいそうです」

「金曜ですか……」

 そう言って浜田さんは、レジの奥へ入っていった。予定を確認しているのだろう。

「ああ、大丈夫ですね。ぜひ伺います。えっと、せっかくなので、家族を連れていってもいいですかね」

 家族、という言葉に、ああ本当に既婚者だったのだな、としみじみ感じた。奥さんがいて、子供たちがいる。父親としての浜田さんも見てみたい、という気がした。この無愛想な店長はどんな父親なのだろうか。

「賑やかなほうが、ヤサは喜ぶと思います」

 自分がちゃんと笑えていることに気付いて、私の浜田さんへの想いは、やっぱり恋という感情とは違ったのだ、と思った。あの日、ため息をお風呂のゼリーに溶かしてみたら、自分の本音が見えた気がした。失恋といえるほど、浜田さんのことは知らない。既婚者であったことすら知らなかったのだ。それなら、ご家族に会えばなおさら、ただの「ちょっと格好いい店員さん」のままでいられるだろう。

「じゃ、楽しみにしています」

「はい。時間がわかったらまたお伝えしますね」

「はい。では、いってらっしゃい」

 私は昼食用のおにぎりを購入し、店を出た。


 金曜日、仕事を終わらせ、田丸さんと連れ立ってヤサの家へ行く。アパートの前で浜田さん家族に会う。

「おう、お疲れ」

「お前、なんだその荷物」

 浜田さんは両手に大量のお酒の入った袋をぶらさげていた。

「今日はヤサさんが何も持ってくるな、と言っていたぞ」

「いいんだよ、俺の家はもともと酒屋だぜ」

 浜田さんはそう言って笑った。

 浜田さんの奥さんは、明るい髪色のロングヘアで、細身の少し勝気そうな女性だった。きりっとした大人っぽい顔をした人で、童顔の私とは全く違うタイプだった。奥さんを見ても全く嫉妬という感情が浮かばないことで、浜田さんへの気持ちはやっぱり恋愛感情ではなかったのだと確信した。

「ゆきおくん! 今日いっぱい遊んでくれるんでしょ?」

 田丸さんの息子さん(ケンちゃんと言っていたか)が田丸さんの腕にぶらさがる。ゆきおくん、と呼ぶほど、田丸さんと浜田さんの息子さんは仲が良いのだな、と思う。田丸さんは、フルネームを田丸幸雄という。

「おう、遊ぼう! 遊ぼう!」

 ひょろっとした腕のどこにそんな力があるのか、田丸さんはケンちゃんがぶら下がる腕をもちあげてゆっくり振り回して見せた。ケンちゃんがケラケラと笑ってはしゃぐ。それを見て浜田さんは微笑んでいる。家族といるときは、こんな風に笑うのだな、と思う。下の娘さんは眠いのか、奥さんに抱かれたままウトウトしていた。

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