第7話:貪食イリエワニ 下
ナインちゃん。
ヘロディア・ナインテイルちゃん。
しゅるしゅる尾を引っ込めると、彼女は言った。
仕留め損ねたんだ、って。
彼女は耳を切り落とすと、ふうと額の汗を拭う。
慣れていない、そんな気がした。彼女たちが熱心じゃないことは知っていた。
この虫は「大物」だ。換金すれば三万は堅い。
逃すのは惜しいはずだ。だから単独で追ってきたのかもしれない。
「そっちは元気にやってる?」
「……ボチボチ、かな」
「そ。よかった」
彼女は戦利品をポーチにしまう。
少し考えたあと、何気なく言った。
「ねえ、少し時間ある?」
彼女は僕を畔にさそった。
岩に腰かけ靴を脱ぐと、ミニ丈からのぞくしろい脚を水のなかに。
波紋が何重にもなって広がった。
泳ぐ水鳥を眺めながら、あっついね~、なんて脚をバタつかせている。
髪を耳にかける仕草は、どうしようもなく心をざわつかせた。
わからなかった。
なぜ、僕の元を離れ戻ってきたのか。
なぜ、変わらずに振る舞えるのか。
なのにキラキラと輝く水の粒や、艶めく唇、白いうなじに目が奪われる。
そんな自分が、何よりもわからなかった。
「坐らないの?」
ナインちゃんが隣を叩く。
「聞かせてよ。にー君のこととか、そっちのことって入ってこないんだ」
僕たちは、たわいない日常のことを話した。
ミサキちゃんのこと。アチョのこと。新しく入ったメンバーのこと。そんなどうでもいいことを。
彼女は友達のことを話した。聞かせてと言ったけれど、結局口数が多かったのは彼女だった。
会話は弾んだ。
身振り手振りを交え、手を叩いて笑ったり、むすっとして肩を小突かれたりするのは楽しかった。
表情豊かな彼女は、いつも遠目に眺める姿より、ずっとずっと喜怒哀楽をあらわにした。
でも僕たちは、決定的に何かを避けていた。
「あ、メルさーん。いっぱい集まりました…………よ?」
裾をくくっておへそ丸出しなリラちゃんが、髪の毛も乾かさず駆け寄ってきた。
えっちらおっちら走っていた彼女は、僕の隣の女の子に気付き、立ち止まった。
「メルさん、か。仲良いんだね?」
地面に両手をついて、イタズラっぽく顔を覗いてくる。
気兼ねすることはなかった。堂々とすればよかった。
同じチームだから。たった一人の大事な戦力だから、と。
けれど口からは、古びたラジカセのようなノイズが流れてきた。
リラちゃんが眉をへの字に歪めると、不思議そうに首をかしげる。
「お知り合い、だったんですか?」
「全然。メルボルン君とは同じチームだっただけ」
ナインちゃんはニコっと目を細めると、両手を合わせて頬に添える。
ケレン味のない真っ白な笑顔だったが、リラちゃんは息をのんだ。
「でも、そっかそっか」
膝を伸ばして、上体を前後させながら、ナインちゃんが周り闊歩する。
リラちゃんは所在なさげに身をすくませた。
「な、なんですか?」
「ううん、可愛いなあって。
ちっさくて、大人しそうで、ね」
彼女は、リラちゃんの枝毛が残る三つ編みを手に取った。
「私、髪質が硬くて。なんでも似合うタイプでもないし」
「……そんなこと、ないと思いますけど」
「お世辞はいいよぉ。私じゃ似合わないもんね」
ぱっと手を離すと、彼女は絹のように流れる自分の髪を手櫛で梳いた。
なんだ、何が目的だ。
少なくとも、喧嘩したいってわけじゃないみたいだけど。
僕に対して、何か思うことがあるなら直接言えばよかったはずだ。
なのにどうして。それも接点のないリラちゃんに……? 変な子だけど、目を引くような相手じゃ。
彼女は言った。
「でも、そんなに可愛かったら色々求められてない?」
「えっ」
驚いたのは僕か、それともリラちゃんか。
なんであれ、僕たちは二の句を継げなかった。紡げなかった。
一変した空気に、豹変した彼女の一挙手一投足に、僕も、リラちゃんも、身じろぎ一つできない。
粘ついた甘いクリームが、ドロドロに溶けて、どす黒く濁りはじめた。そんな気がした。
「ほら、うちってチーム単位の活動が多いでしょ? 表立って口にしないけど、そういった関係になるのは内々で推奨されてたりするんだよ」
ナインちゃんは言った。学園には婚活パーティーの一面もあると。
命のやり取りが求められる過酷な場所だ。
子孫をもうけるのは、血を残す意味でも価値がある。
相当悪質でないかぎり、アチョのときのように処罰まで猶予が与えられる。
この制服にも意味があるんだと、彼女はスカートの端を摘んだ。
「メルボルン君って親しい人もいないし、自己中でしょ。目が怖いって、友達からよく相談されてたんだ」
閉鎖空間での不和が一番怖い。集団行動の常識だ。
そして学園生は、その誰もが一騎当千の名に恥じない力を持ってて、それを律することが要求される。
逆に言えば、タガが外れるとどんなものより恐ろしいのだ。
だから、断れなかった。
俯いた彼女は右肘を強く握った。
「言いふらされたら困るし、誰にも相談できなかった。
毎日辛くて、毎日泣いてた。
そんなときヒュウガ君が言ってくれたの。
私を守ってくれるって。
チームを移ったのもそれが理由」
がばっとおもてを上げると、腰をかがめて、リラちゃんの肩を強く抱いた。
真摯に、真正面から訴えかける彼女のまなじりには、きらりと光るものが流れていた。
「もし貴方もそうなら。
私、助けになりたいの。
本当は言えないこと、本当は言いたかったこと。
あったりしない?」
は、はは。
なんか、きっついなあ、これ。
自業自得だよ?
でも、何かが通じたと思ったんだ。
たとえ偽りでも、何か特別なものが僕たちにはあった。
そう思っていた。
そう願っていたんだ。
それを当人が気のせいだって、勘違いすんなよって。
そう突きつけられたら、誰だってこうなるよ。
それも、到底及ばない何かと比べられた日には、さ。
喉がカラカラに渇いた。唇は砂漠のように乾燥して、なのに気持ち悪いくらい背中がベトベトした。
ナインちゃんの姿は、フロートガラスでも通したみたいに歪んでいた。
「……っ」
リラちゃんがこっちを見た。
いま、僕はどんな顔だろう。
不敵に笑っているか。鼻で小馬鹿にしているか。
はは、すごい情けない顔なんだろうなあ。
ごめんね、こんな僕で。
幻滅させちゃった?
って、そんなわけないか。
帰ろっか。
おうちに帰って、ゴロゴロしよう。カレーでもなんでも、食べるから。
「ふ、不愉快ですっ!」
リラ、ちゃん?
えっと、何を言ってるの?
「決めつけないでください! メルさんのこと、何にも知らないくせにっ」
リラちゃんは激しく憤ると、いやいや首を振って拒絶する。
あふれ出した涙が、ぱっと宙に舞っていた。
「一体何なんですか、メルさんはそんな人じゃないですっ!
迫っても邪険にされてばっかりだし、ダメな私を見捨てないスゴい人なんです!」
「え、えっとあのね……」
諭そうとするナインちゃんを振り払うと、そのままの勢いで突き飛ばした。
「大体無茶苦茶ですよ!
言いふらされたら困るって、めちゃくちゃ自分から喋ってるじゃないですかっ。
さっき二人っきりだったじゃないですかっ。
そんな人の言葉、私これっぽっちも信じませんからっ!
イィーだっ!!」
リラちゃんは歯茎を剥き出しにして、今にも飛びかかりそうだった。
もう、いいから。
だから怒らないで。
それに暴力はダメだ。
顔に傷でも付いたら大事でしょ?
ここは冷静に、ね。
「は?」
転ばされたと知った彼女は、激しく顔をゆがめた。
「っう、なにすんのよ――!」
乾燥した音を立て、ナインちゃんの掌が静止する。
彼女は僕を睨みつけ、つかまれた腕を何度も引き抜こうとした。
「ジャマっ、しないでっ」
「暴力はダメだ」
「あっちが先にっ!」
「それでも、ダメだ」
僕たちは知っていた。
単純な力比べでは、勝負にさえならないことを。
だから手は出さない。暴力に訴えない。
それが二人のルールだった。
足を蹴られ、僕は手を離す。掴まれた箇所を苛立たしげに摩る彼女は、約束など忘れてしまっていた。
それがどうしようもなく、心の距離を感じさせた。
「あっそう、そっちの味方なんだ」
「……味方とかじゃ」
ナインちゃんは冷たく言い捨てる。
「いいの別に、私が悪いんだもんね」
どこか遠く、森の奥から人の気配がした。
複数の足音と名前を叫ぶ声、誰なのかはすぐわかった。
ずっと避けてきて、逃げてきた相手だ。
ふざけた名前を付けて、思考からも遠ざけた相手だ。
それはつまり、常に意識しているのだと、わかってはいた。
「ナインちゃんっ、はぐれたって聞いて心配し――」
「ヒュウガ君っ!」
ナインちゃんは、その男――僕がウザ男と呼んだ男に飛びつく。
一瞬目を丸くしたそいつは、僕たちを把握してから、彼女を抱きしめた。
「彼はね、すっごく優しいの。気遣ってくれて、叱ってくれて。上辺じゃない、心の奥まで大切にしてくれる。メルボルン君とは大違い」
ナインちゃんは、色っぽい猫なで声でそいつの胸に手をあてる。
男は僕を見て、ニヤニヤと彼女の頭をなでた。
激しい炎が灯った。
脳を焦がし、血液を沸騰させ、身体中をじわじわと炭化させる強烈な炎だ。
しなだれかかる彼女、筋肉質な男が支えた。くびれた腰に、肉感的な臀部に、閉じられた内股に僕じゃない男が這いずり回る。
撫でるとか、そんな生優しいものじゃない。
荒々しく鷲掴みにする男の手は、まさしく征服者そのものだった。
否応なしにその先を想像した。
想像して、
妄想して、
屈辱感で溶けそうだった。
狂いそうなくらい、彼女の姿がリフレインした。
「行こ」
「いいのかい?」
「絡まれただけだから」
彼女は僕を見なかった。
ぷいとあの雨の日のように、僕を置いていった。
僕を置いて、遠い遠い彼方へと消えようとしていた。
「私、あの人嫌いです」
リラちゃんはポツリと言った。
「何なんですかあの人っ。最初っから感じ悪かったし、言ってること意味不明だし。一体全体、何がしたかったのか」
当てつけのようにイチャついて、リラちゃんをマウントした。
事情を知らなければ、性格ド腐れブスそのものだったろう。
そして原作より、僕の記憶のなかにある姿なんかより、何百倍も、何千倍も容赦がなかった。
彼らのシルエットは、深い森の闇にのまれていく。
身体は動かない。眼も、肉も、骨も、燃えカスみたいに乾いている。
なのに、まだ手が伸びようとする。
そんな資格ないのに。そんなこと、許されやしないのに。
なのに、それなのに。
あれだけボロクソ言われても、
あれだけこき下ろされても、
でも、それでも僕は――
§ § §
そして、朝が来た。
何も考えたくなかった。なのに明日は来た。
たどり着けやしないのに、きっちり今日に形を変えてきた。
目覚めは最悪だった。
顔を洗ってみても頭痛がした。
昨夜から続くフラッシュバックは、脳をひりひりと麻痺させた。
それでも僕は、東組のメイン拠点に足を運んだ。
中間発表のある五日目。大勢の野次馬が集まっていた。
「ども」
「おは……あなた、一体どうしたの? ちょっと尋常じゃないわよ」
ミサキちゃんはぎょっとした。
「大丈夫なの?」
「ただの寝不足だよ」
「ならいいの、だけれど……!」
顔面昆虫系で名高い教官どのが現れた。
緊張感が高まる。さすがの彼女も、結果を見るまでは安心できないらしい。
僕は違った。受験のときさえ先生頼りだった。
結果発表前のドキドキか、うーん。
興味ないね。あと落第なのは知っている。
あ、よく見たら皆いるじゃん。
双子に主人公くん……おい、一人居ないって。何やってんだウチは。中間発表でさえ全員集合! できないのかよ。
リラちゃんも寝坊だったね、そういえば。
「帰りたいでござる」
「はぁ?」
「ごめんごめん、続けていいよ」
残念。代わりに今後の展望を聞かされた。興味ねー。
あと、ガチで無意味だと思う。
「問題はヘカテーさんね。偵察できなかったのが悔やまれるわ」
それ、フラグだよ。絶対想定外な事態になっている。
あの濃い奴ら、一見イカれてても、主要キャラだけあってアホではないのだ。
アチョはアホだけど。
ほら、そろそろ掲示されるよ。
一位:中央A班、代表者生レオン
159万キティ
二位:東D班、代表者ヒュウガ
63万キティ
三位:東A班、代表者ミサキ
45万キティ
四位:南A班、代表者ナイルリア
22万キティ
五位、北B班、代表者ヴォルフ
20万キティ
おおっと僕たちの中で大きなどよめきが起こった。
ね、ミサキちゃん? 顔を真っ青にしている余裕とか、ないんじゃない?
後半戦開幕。
やっぱり最下位な僕は、激鬱で空を仰いだのだった。
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