3-1 化学実験でペアになった女の子

 長いキスの間、可憐は由記をそっと抱き、背中をさすった。

 やがて体が離れると、可憐は立ちあがり、グラスをもってテーブルを離れた。


「お姉ちゃん」


 由記は可憐を追いかけた。


「お姉ちゃんが初めてになった」

「私も」

「え?」

「私もあなたが初めての相手」


 可憐はグラスを流しに置いて、テーブルに戻ってイスに腰かけた。由記は隣に座った。


「お姉ちゃん、今まで誰ともしなかったの?」


 可憐は静かに笑った。


「他の人とすると思う?」

「…ごめん」

「ううん。私のほうこそ、ごめんね。道徳に反する行為だったかな…」


 由記は首を横にふった。


「そんなことない!」

「そうかな。そうだといいけど…。今日のことは忘れて」


 可憐は無理に微笑した。由記は申し訳なく思ったが、かける言葉は見つからなかった。


………


 化学実験のチームが変わった。


 実験は二人一組のペアで行い、一ヶ月くらいでペアは更新される。今月は実咲という派手な服装をした同級生と組んだ。実は実咲は一つ上の先輩だが、休学した関係で由記のいるクラスに編入されていた。


「よろしくね」


 とウィンクをしてきた。実験監督の点呼が終わると、由記は教科書を開いて実験の概要を読み始めた。


「一条由記くん。由記くんって呼んでいい?」


 と実験する気のない実咲は言った。


「はい」

「やった。私ちょっと頭悪いから、由記くんが調べて、私に命令するっていうのどう?」

「命令っていうのは…」

「いいの。本音言うと、考えることが苦手っていうか、思考派より行動派っていうか? だからお願い」


 由記はうなずいた。確かにそれが効率よかった。二人がああでもないこうでもないと考えていると、化学実験は時間切れになることが多い。先月もそれで失敗した。


 一人が頭脳役になって、もう一人が行動役になるほうがいい。


「わかりました。これからよろしくお願いします」

「うん♪ よろしく」


 実験中、後ろから背中をとんとんと触られた。ふりむくと香織と渚だった。


「そっちはどうだい?」


 と渚がたずねた。


「いい感じ。今日は時間内に終わると思う」

「すごいじゃん」

「そっちは? というか、ひょっとして二人はペアになったの?」

「いいや。うちらがペアになったら終わりよ。なにもできないもん」


(確かにそうなりそうだ…)


 香織はちょっと棒読みで、


「由記くんと一緒になりたかったー」


 と言った。実咲がいる手前、そうだね、などと言えるはずもない。由記は冷や汗をかきながら、教科書にグラフを描いている実咲を紹介した。


「野中実咲さん。今月一緒になった」


 実咲はくるっとふりかえって、にこっと笑った。


「実咲です。同級生だけど、普段はほとんどの必須科目に出席しないから、私のこと知らなかったでしょ? 君たちの一つ先輩なの」


 渚はうなずいた。


「知ってました! あとで休学の方法とか聞こうかなと思ってました! 私は渚といいます!」

「渚ちゃん。元気いいね」

「はい! それ以外にとりえはないです!」

「そんなことないよ。お隣にいるお嬢様は?」


 香織は沈殿物の入った試験管をぼーっと見ていた。渚は香織の脇腹をつっついた。


「ほれ、なにボケーッとしてるの」

「? なに?」

「自己紹介。実咲さんに自己紹介しなさい」

「あ」


 香織は実咲におじぎをして「香織です」とだけ言った。目が半開きでやる気がない。渚は慌ててフォローした。


「先輩すみません。カオリンはちょっとボケキャラなんです」

「ボケてないよー」


 と香織は冷静につっこむが、目は半開きだ。


「あ、私、由記くんの恋人さんなんです。あーあ、由記くんと一緒がよかったー」


 とさらに続けた。すぐに、由記、渚、実咲の間に冷めきった空気が流れた。由記は穴があったら入りたいと思った。

 長く、重たい沈黙が流れた。


「へえ…そうなの」


 と実咲が最初に沈黙を破った。


「すごいじゃない。由記くん」


 由記はしどろもどろに言った。


「えっと、はい」

「やるう!」


 と実咲は由記を茶化すが、顔はまったく笑っていない。渚は、頬が勝手に引きつって変な笑みを作っていることに気づいた。


………


 翌日。


「由記くんさあ、カオリンと付き合ってから顔つきが明るくなったよ」

「そうかな」


 由記は照れて笑った。授業が突然休みになって、由記たちはキャンパスにあるカフェでお茶している。


「うんうん。前は死んだ魚みたいだった」

「そんなバカな」

「本当だよ。未来なんてどうでもいい、みたいな。それがどうよ、こんな明るくなって」


 渚は由記の頬を左右につねった。


「痛いって…」

「幸せ者ー!」


 由記の隣で香織はニコニコ笑っている。


「私、由記くんのこと大好きだよー」


 香織の突拍子もない発言に、渚は苦笑いし、由記は顔を赤くしてうつむいた。香織は余裕たっぷりの笑みで抹茶ロールケーキを頬張った。


「カオリンあなた本当に面白い子ねえ」

「なんでー?」

「いいのいいの。由記くんのこと頼んだぞ〜。奥手で、しかもブラコンのお姉さまもいるから」


 渚は「しまった」と言わんばかりに両手で口を覆った。由記は


「この展開どっかで見たことある…」


 と言って頭を抱えた。


「え? お姉さまって? ブラコン?」


 由記は顔を横にふってごまかした。


「なんでもない。本当になんでもないから」

「なになに? お姉さまってどういうこと? ブラコンってなに?」


 香織は少し不安げな顔をした。由記の手を握って言った。


「私になにか隠し事があるの?」


 由記は香織の手のぬくもりを感じた。たまに手をつなぐが、こうして手と手がふれあうたびに、甘酸っぱい気持ちになる。大学に入るまで、可憐以外の女性とこうして手を触ったことはなかった。


 だから本当のことを話した。血のつながりはないという事実を除いて。香織はさほど気にしない様子で質問した。


「でも、由記くんはお姉さまのことを女性としては見てないでしょー?」

「もちろん! 姉だからね」

「じゃあいいよ。気にしない」


 ほっとした。渚もほっとした様子だった。


「…というか渚。渚っていつも邪魔ばかりするよな。もう勘弁してくれよー」

「ごめん! 頭悪くてついうっかり…」


 香織は由記の腕を抱いた。


「どんなお姉さまがいても、私のほうがきっと由記くんのこと好きだよ」


 由記は恥ずかしさのあまり言葉を失った。こんな幸せな大学生活ってあるかしらと、自分の頬をつねった。夢ではなく現実だった。


 可憐とは仲がいい。しかしどんなに仲がよくても、結婚はおろか、恋に落ちることさえ許されない。そうだ。香織とこうなるしかない。運命は香織を向いているはず…と由記は思った。


………


 台所で料理を作る可憐の後ろで、由記は心配そうに横顔を見た。キスの日から姉は口数が少なくなり、不機嫌な表情を見せることが多くなった。


「あ、今日はめずらしくシチュー作るんだ。僕大好き、シチュー」

「ええ」

「ん?」

「あなたが好きなものだから作るんです」


 可憐は包丁でにんじんを切り始めた。由記はついうっかり


「シチューは好きだけど、にんじんは嫌い、かな…なんちゃって」


 と言った。すると可憐は包丁をまな板にバンッと当てて、


「それも知ってます。だからにんじんを入れるの」

「すみません…」


 食事中、二人は静かなテーブルを囲って、言葉をほとんど交わすことなくシチューとパンを食べた。二人は十年以上も、シチューのときはパンを主食にする。


「ところで、香織さんとはどうなの?」

「え…」

「いい感じなの?」


 由記はパンを皿に置いて、一度口をふいた。


「うん。いい感じ…」


 ちらっと上目遣いで姉を見ると、可憐は無表情でシチューのじゃがいもを口に含んでいた。


「でも、お姉ちゃんと一緒にいる時間もいい感じ…」


 可憐も上目遣いで由記を見た。


(うっ…)


 由記は慌てて目をそらしてぶどうジュースを飲んだ。


 シチューにはぶどうジュース。よく考えると不思議な組みあわせだが、これも習慣だった。


 もう一度可憐のほうを見ると、まだ弟をじっと見ていた。再び目をそらす。昔から可憐を正面から見るのが苦手だった。『可憐』な姉はきれいで、でもかわいいところもあって、油断すると女性として見てしまいそう。


 しかも血のつながりがない。


 大学に入ってから別居しているが、部屋を借りるときに、可憐は一人暮らしに最後まで反対した。


「いやあ、このシチューおいしかったよ。さすが可憐お姉ちゃん」

「…」

「世界一だよ」


 可憐は少しうつむいた。口に含んでいたものを飲みこむと、可憐はティッシュで口もとをぬぐい、


「あなたにおいしいって言われたいから作るんです」


 と言った。由記にはふてくされているように見えた。


「あなたの十億円がほしいから作っているのではありません」

「お姉ちゃん…」

「ここ、決定的な違いだってわかる?」


 と言い、可憐もぶどうジュースを一気に飲み、口もとをぬぐった。由記はコクッとうなずいた。


「うん。わかるよ」

「クイズです。仮に、あなたのお金がなくなって、家もなくなったとします」

「うん…」

「そのとき、あなたを最初に助ける人は誰でしょうか?」


 由記は観念したように言った。


「お姉ちゃんです」

「そうです。わかってるならよろしい」


 可憐は立ちあがって皿を片づけ始めた。


「ごめん、僕が洗うよ」

「私が洗います。あなたに十億円があってもなくても、私は由記くんにお料理を作って、お皿も洗うんです」


 その言葉を聞いて、由記はとっさに可憐を抱きしめた。


「ありがとう、お姉ちゃん」


 許しがほしかったから、ではない。日頃の感謝と、ずっと抱いてきた危ない気持ちが混ざりあって、とっさにしてしまった。可憐の頭と長い髪を見ていると、可憐の耳たぶがほんのり赤く染まっていくのがわかった。


「ご、ごめん…」


 と背中に回していた手を離すと、今度は姉が自分の背中を抱きしめ、


「たまに」


 とつぶやいた。


「なに?」

「たまにでいいから、今みたくして」

「…うん。わかった…」


 と返事して、もう一度抱きしめた。このぎりぎりな感じ、背徳の感じ、この感覚を避けるために、自分は一人暮らしを選んだ。同居したらなにが起きるかわからないから。

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