1-2 今日は私のところに泊まりにきて

 由記の母と可憐の父は未亡人どうしの結婚で、由記と可憐に血のつながりはない。しかし二人は小さい頃から助けあって生きてきた。


 由記がいじめられると、可憐はいじめた子とその家族になにかをした。なにをしたかは知らない。可憐が「なにか」をすると、いじめはピタッと止まり、学校生活は平和になった。


 机に伏してすやすや寝ている渚の横で、由記は可憐に迫られた。


「女の子を部屋に入れるときは、私に連絡してって、あれほど言ったよね」


 可憐の吐息がはっきり聞こえてきた。唇が耳に近づく感覚。次の瞬間、


「ん」


 と耳たぶを噛まれた。いつの頃からか、可憐は怒るときに由記の耳を噛むようになった。

 赤ちゃんが哺乳びんを口にするように、耳たぶを優しく噛んだり、しゃぶったりした。


「お姉ちゃん。こんなところを見られたら、かなりやばいってわかる?」


 と言うと、耳たぶを強く噛まれた。


「いたっ!」

「誰に向かって言ってる?」

「だってお姉ちゃんが信じてくれないから」

「恋人じゃないのね?」

「渚はそういう女の子じゃないの。本当に。本気と書いてまじで!」


 由記はテーブルの下を指さした。


「見てよ。渚のくつ下」


 渚のくつ下から小指だけが見えていた。


「前に注意したけどまた履いてる。わかる? そういう女の子ってこと。女の子というより、ほぼ男の子」


 可憐は冷たいまなざしで渚をしばらく見た。そして観念したようにため息をついた。


「わかりました…。あなたを信じます。でも、これからは私に相談すること。これ以上の例外は認めない」

「はいはい。ごめんなさい」


 可憐は立ちあがり、渚に近づいて肩を揺さぶった。


「渚さん」

「…」

「渚さん」

「…んあ?」

「今日はもう遅いから、また明日にしてください」


 渚は顔をむくっとあげた。口もとからよだれがたれていた。由記はそのだらしない顔を見て、笑ってふきだした。


「渚。だいじょうぶか?」

「んー。まあ」


 渚はやおら可憐の顔を見ると、我にかえったように、急に立ちあがった。


「やべっ! すいません寝てました!」


 と謝り、口もとのよだれをそっと拭いた。


………


 翌日の夕方。


「あれが十億円のやつだよ…」

「えーうそー」

「俺だったらもう大学なんて行かないけどなー」


 大学のキャンパスを歩くと、知らない学生からじろじろ見られ、今のようにヒソヒソ言われる。


(絶対に誰かがバラしてる…。というか今やみんなが互いにバラしてる状態か…)


「まさか由記が十億円も当てたなんてね」


 と隣を歩く渚はしらじらしく言った。


「ねえ〜私にちょっとくれない?」

「おいおい、なんでよ」


 少し本気で言ったせいか、渚はわざとらしく「嘘ぴょーん」と言った。


「でもさ、なんで十億円を全部しまったわけ? ちょっとくらい贅沢したっていいじゃん?」

「俺はそのへんにいるバカじゃない。宝くじに当たっても生活水準は変えない」

「ケチンボー。私だったら松阪牛でも食べにいくけどねえ〜」

「俺は安全に生きていくことを優先するのだ」

「それがお姉ちゃんに教えてもらった処世術なのかな?」


 渚は意地悪くたずねた。


「由記くん、なんて呼び方から察するに、あんたらできてるね?」

「できてる? どういう意味?」

「ラブラブする仲だってことだよ」

「はあああ?」

「え? 違ったかな?」

「姉弟だぞ、わかってんの?」

「え〜でも、私ちょっと寝たふりして聞いちゃったんだよね。『女の子を部屋に入れるときは、私に連絡してって』もう私、笑いと感動と戸惑いでどうにかなりそうで」


 由記はドキッとして


「誰にも言うなよ! 絶対!」


 と思わず声をあげた。


「え〜どうしようかな」

「お前まさか…ひょっとしてずっと起きてた?」

「いやあ、寝たふりも大変だったよ〜。だいじょうぶ。声を聞いただけ。映像は見てない」

「おま…」

「だいじょうぶ! 友だちの秘密をバラすようなまね、私がすると思う?」

「すると思う」


 渚はガビーンと言った。


「そんな…そんなに信用されてないとは…とほほ」

「よだれを拭いたのも演技ってことか」

「すごいでしょ。こう見えて子役やってたし」

「嘘? まじで?」

「ごめん嘘ぴょーん」


 そのとき、二人の目に白衣を着た可憐が見えた。可憐はある研究室の助手として働いている。


「あら〜。いいタイミングでお姉ちゃんの登場だ」


 残念なことに、可憐は二人に気づいて立ちどまった。渚は「うっしっし〜」と言って、由記の腕に自分の腕を絡ませた。


「おいちょっと」

「どうなるか実験しようぜ」


 腕をふっても離れない。可憐の表情が凍りつくさまが遠目にもわかった。


「バカ! 離せってまじで! ちょっ…」


 可憐は二人のほうに歩いてきた。


「本当やばいんだよ」

「どうして? 普通のお姉ちゃんだったら、弟のこういう姿をほほえましく思うけど?」

「うちのは思わないの!」

「ほほお、それはなぜかな?」


 可憐は渚に近づいて、頭を少し傾けて「こんにちは」と言った。

 渚もにこっと笑って「こんにちは!」とあいさつをした。

 女の子と腕を組んでまんざらでもない由記は、離せと言うわりに離そうとしない。


「渚さん、でしたよね」

「はい。渚です!」

「いつも由記がお世話になっています。友だちとしてこれからもよろしくお願いします。友だちとして」


 可憐は渚の腕を握って由記から離した。弟の友人だろうと容赦しない、というプレッシャーを感じた渚はつばをごくりと飲んだ。


「ここは大学なので」


 と可憐は冷たく言った。渚は言葉の重みに負けて


「…あ、はい…すみません」


 と謝った。


 渚は由記にほほえみかける可憐をちらっと見た。


(きれいな人だな…)


 身長はそこまで高くない。おそらく百六十センチメートルちょこっと。痩せているが、痩せすぎではない。

 ストレートの黒髪は腰まで届き、耳の下で結ばれている。

 肌は雪のように白く、透きとおっている。

 鼻が高く、かなりの美人だ。もともときれいだから、化粧は薄く、つけまつげもない。

 目は大きく、緊張ではりつめているようにも見える。といってバリバリ働くキャリアウーマンという印象はない。


「ところで由記くん」


 可憐の声は渚にかけた言葉より人間味があった。


「ん?」

「今日は私のところに泊まりにきて。あと三十分で仕事が終わるから、校門のところで待っててね」


 そう言うと、背中を向けて歩いていった。

 渚は口をぽかんと開けて、しばらくぼうっとした。我に返って由記にたずねた。


「由記くんのお姉ちゃんってさあ…すっごい変わってるね」

「まあ、あれでも姉であることに変わりないからな」

「そっかあ」

「そういうことだから、俺、校門まで行くよ。言うこときかないと面倒なことになるから」

「でしょうね!」


 渚はおもしろいものを発見した子どものように内心はしゃいだ。


………


 可憐のマンションは広く、リビングの他に二人分の部屋がある。可憐の寝室と由記の寝室。


「ずっとここに住めばいいのに。せっかく由記くん専用のベッドを買ったんだよ?」

「一日泊まるのはいいけど、ずっと住むのは…なんというか」

「恥ずかしい?」

「うん」


(だって絶対、新婚の夫婦みたいになるし…)


 二人はリビングのソファーに座り、テレビもコンピューターもない、静かな空気を味わった。


「由記くん。ちょっと真面目な話をしていい?」

「うん」

「宝くじのこと」

「ちょっと待った! 俺がお金を使いまくって散財すると思ってるなら、それは大間違いだ」

「『俺が』?」

「すみません。僕です」


 可憐は由記の頭をなでた。


「もう『俺』って言ったらだめだよ?」

「はい」

「あなたが散財するとは思ってない。周りにお金目的の人がたくさんきて、由記くんがだまされないか心配なの」

「オレオレ詐欺とか絶対に引っかからない」

「あなたをだまそうとする人は近くにいるかもしれない」

「渚のこと?」


 可憐は首を横にふった。


「あの人はそういうタイプじゃない。だけど、私以外の人間は信用しないでほしい」

「そんな」


 可憐は眉をハの字にして懇願した。


「お願い。友だちでも誰でも、お金の話になったら疑って」

「…あ、ああ…」


(こりゃかなり心配してるな)


 由記は何回もうなずいた。可憐もこくっとうなずいた。


「なにかあったら、私に相談すること」

「わかった」

「約束」


 と言って可憐は小指をだした。由記も小指をだして、指きりげんまんをした。

 終わっても、可憐は小指を離そうとしない。


(またスイッチ入っちゃったよ…)


 可憐の目は恍惚として、由記の小指をじっと見つめていた。


「いいよ」


 と由記は言った。

 可憐は口を半開きにして、由記の小指に唇を近づけた。

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