07

「っ。……何…いまの?」


とある事情から「不思議な事」に対しての耐性があるので、驚きはない。

しかし平穏な日々への投石であることは間違いなく、エマの胸中は不穏に揺れた。


『○▼▽××%✤##………───…』

「なればせめて、一言だけでも…っ」


虹色の火花と同時に耳鳴り、若しくは電話の混線のような一頻ひとしきりの不可解な音声のあと───なんとか波長チャンネルが合ったようで、言語としてしっかりと男性の中音テノールが夜の部屋に木霊する。

今この部屋に居るのは、自分と白い彼だけ。


「…やっぱり───貴方が喋ってたんだね…」


消去法で考えれば答えは明白で、エマの視線がひたと白オオカミを正面から見定める。


「!」


意中の彼女と波長チャンネルが合わさったことを即座に理解した白オオカミは、事態の急展開に驚きながらも、追及から逃れられないことを悟って項垂れる。そして短い逡巡のあとで、己の素性を明かす決意を固めた。


「いかにも。……すまないが、少し下がってもらえまいか。ああ、そのくらいで大丈夫だ」


3、4歩後ずさったエマに、白オオカミが神妙な面持ちで頷いた。


(低いけど、若い声だ…)


一瞬、脳裏に某CMの白いお父さんが浮かんだが、返ってきた声は若者のもので一気に認識が塗り替えられていく。


つんざいてひるがえせ。…イラクサの甲鎧よ解けろ…真の姿を、示せ…」


固唾を呑んで見守っているとホログラムのように闇色の茨が出現し、白オオカミの身体を覆い尽くした。

そして…彼の詠唱に合わせて漆黒の茨に蜘蛛の巣状のヒビが幾重にも重なって入り、やがて割れ砕けて消えてゆく。


「騙すような真似をして、済まない…」


術が発動して淡い乳白色の魔力が湧き起こると共にオオカミの前足がまるで熱された水飴のように糸を引いて溶けて、獣の鋭い爪が人の指に形を代え、ぼんやりと青年と判別がつく形容に変わった。


「…貴方は、何者?」


「俺はハンク。…こちらが本来の姿だ。戦禍に追われて辺境世界ここまで逃れてきた……」


やがて、魔力の片鱗を散らしながらそこに姿を現したのは…背中から脇腹までが鍵裂きに破れた褐色の外套コートの下に灰白の士官服を着た黒髪の屈強な青年であった。


「エマ…だったな。まさかこんな場所で同族に逢えるなんて、思ってもなかった。生きていてくれて、本当にありがとう。あなたのお陰で、俺は生きる意味を失わずに済んだ」


紆余曲折を経たが、苦労した甲斐あって「逢うべき者」と出会うことができた青年・ハンクは、目の前に坐す美しき未覚醒の同族へクセに目を細める。


「って、ちょっと待って。アナタまさかケガをしているの?!」


今までが排他的な生活だったので目まぐるしい展開に目を瞬かせるばかりだったが、彼の背から脇腹付近にかけて付いている血痕らしき茶褐色の染みを目敏く見つけたエマは慌てて青年に取りすがる。


「いや、心配には及ばない。貴方には、二度命を救われた。これに、見覚えは?」


「!」


青年がポケットから真珠を取り出して見せた瞬間、エマは初めて動揺をあらわにした。


「…これは貴方の魔力ものだろう?」


満身創痍の青年・ハンクは、真摯な眼差しでエマを見た。



「念のため聞くけれど…どこでこれを?」


…実をいうと、エマは成人を迎えてから流した涙が真珠に変わる尋常ならない現象に現在進行形で苛まれていた。日常生活に支障をきたすので、滅多に外出しないのはそのためだ。


「この建物周辺で拾ったのだ」


「そ、そう…」


産み落としたら直ぐに回収していたのだが、どうやら拾い漏れがあったらしい。


「(うる…っ)その目の色、眼差し、魔力の質。ああ、間違いない…やっと、見付けられた…」


端正な顔を安堵に弛ませていた青年が不意に泣き出したのに驚いて、エマは咄嗟に袖で彼の涙を拭う。


「な、泣かないで…。なにか事情があるのなら、話して頂戴。ね? 話すことで、少しは楽になると思うの…」


手負いの獣を宥めるように。慈しみに一つまみの哀しみを溶かした声音がハンクを包み込んだ。


「そうだな、すまない……ここから長く辛い話になるが、いいだろうか…」


真摯に見つめるエマの常緑色エバーグリーンに点る双眸に僅かに笑むと、遠慮と困惑を滲ませながらハンクが問いかける。


「もちろん、構わないわ。貴方は同朋を追ってここに辿り着いたと言っていたけれど…ねえ、そのへクセというのは、何?」


魔女へクセというのはな、故郷レネディールに息衝いていた少数高等魔族だ。人間が攻めてくる以前は、俺も山奥の隠れ里で子供時代を過ごしていた…」


「そう…」


もう二度と戻らない楽園を想う眼差しが柔らかで、エマはつきりと胸の奥が痛む錯覚に肩を震わせる。


「今から50年ほど前の話だ。あらゆる次元が繋がる海を通じて、武装した人間の一団がやってきた。群れの中には女や子供年寄りも居て、どうやらどこからか潮流に乗って流れ着いたようだった」


「…もともと、レネディールに人間は暮らしていたの?」


「いや。レネディールに人間はいない。漂着して根付いた…異物のようなものだ。くっ。だが人間は調子に乗って増殖を繰り返し、へクセの隠れ里も、故郷をも侵攻して焼き尽くしたのだ」


石油タールのように粘っこく濃い人間への怨みの激情が言葉の端々から感じられて、エマは息を飲む。


「早く戻って人間共を駆逐せねば…かつて滅ぼされたへクセのように、さらに魔族の犠牲が増えていくのは耐え難い…」


「貴方は、その…レネディールから同族の魔力を追って、ここに辿り着いた。そして、私が捜していた同族へクセ… ここまで合っている?」


「ああ、合ってい…ごふッ!!」


恐らく今までのムリが祟ったのだろう。

癒えきれていない傷が開いて吐血し…膝を付いたハンクにエマは一瞬怯む。


「し、しっかりして。…目を閉じないで、死んじゃダメだよ!」


だが、一刻を許さぬ状況を覚って吐瀉物を全て洗面器に吐かせてから渾身の力で背負い、寝室のベッドへと仰向けに寝かせた。


「まだ吐き気はある?」


「いや、大丈夫だ。…それより…すまない」


「え?」


「……寝床を汚してしまった…」


「ムリに喋らないで…。やっと辿り着いたのでしょ。私の事はいいから、今はこのまま休んでいて…」


目を閉じたまま弱々しく謝罪するハンクの頬を撫でながら火にかけ放しにしていたストウブをふと思い出したエマは、様子を見るために慌てて寝室を出ていった。

…エマが寝室を出て行ってすぐ、ハンクはポケットから4つ真珠を取り出すと密かに飲み下した。

飲んだ傍からジワジワと背と脇腹の傷…そして損傷していた肋骨が再生していき、やがて完治した。

しかし、魔力が充填され傷が癒えたとはいえども疲労までカバーはできない。


「ぐ…っ、身体が、思うように動かない…。やはり、疲労だけは軽減されないのか…」


身体を起こそうとするが四肢に力が入らず、思うように動かせない。今までの様々な負荷が祟ったことを悟ったハンクは、やがて動くのを諦めて深く溜息を吐いた。

…一方、エマはストウブ(幸い焦げ付いてなかった)鍋の内容を傷病人用に変更していた。

───吐血するだなんて、きっとひどいケガをしてるのだろう。それなのに、食事なんて食べられるのだろうか?

不安に思ったが、なるべく食べやすいように鶏肉はは皮を外して身だけに分け、細かく刻んだ蕪を追加して牛乳で柔らかく煮込む。もちろん塩分は控えめにしておいた。


「あのー……って寝てる…」


人肌ほどに冷めたシチュー皿を抱えて寝室を覗くと、彼は眠っているようだったので彼の分は保存容器に移し、エマは夜半のアパートで独りでシチューを食べた。

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