第7話 春霞の向こうに(現代ドラマ・ホラー)

 この季節になると、海の向こうが薄ぼんやりと霞に覆われて見えなくなることがある。

 春霞と呼ぶそれは、私の育った小さな港町ではその名の通り春によくみられた。

「この霞の向こうにはな、死者の国があるんだ」

 祖父はそう言っていた。

 祖父は生まれも育ちもこの町だ。ここは時代から置き去りにされたような小さな町で、娯楽といえば酒場を兼ねたカラオケバーが一件あるだけ。他にはなにもない。子供を喜ばせるようなものも、大人が息を吐くようなところも。人々はいまだに漁をして生活しているが、テレビ番組で取り上げられるような高級食材ではない。ここには何もなかった。のどかな自然があると言えばそれまでだが、逆に言えばそれ以外は何もない。

 海に近く育った人々は、死んだら海の向こうに行くと信じていた。だから祖父の言葉もそんな町の伝承のひとつだった。

「春になると、海に霞がかかるんだ。そこから俺もいずれ還る」

 この町特有の風習もあった。

 春霞が出る頃合いになると、死者を悼んで小さな神社で祝詞があげられる。小さな祭りが行われ、神主を筆頭にした祝詞の行列は最後は海にたどり着いて、海に向かって祈りを捧げる。先祖の霊を慰めるのだ。時代の波はこの小さな町にも忍び寄ってきて、外から嫁ぎに来た人だっていた。でも他に比べてそれほど珍妙な習慣ではなかったせいか、現代においてもあまりあれこれ言うひとはいなかった。海に近いせいもあって、風習としては理解しやすかったのだと思う。ただ、そのせいもあって話題性には薄かった。町からは次第に人がいなくなり、祝詞の行列も昔ほどではなくなった。

 私はといえば、そんなものだと思っていた。

 私だって高校からは一時間に一度しか来ない電車を乗り継いで、一時間もかかる学校に通うことになっていた。図書館や病院にも苦労するせいで、大学に入れば一人暮らしを約束された。そうなればきっともうここに戻ってくることも少なくなるだろう。それほどまでに、ここには何もない。


 何度目かの春がくると、昔は漁に出ていた祖父もぼんやりと過ごすようになっていた。縁側で足の爪を切るぱちりぱちりという音も次第にしなくなり、伸び放題になっていた。母がなにか言わねば何もしなくなっていた。何年か前に祖母が死んだのもショックだったのだろう。母は、いまのうちに認知症の診断を受けておいた方がいいと父に進言していたが、父は渋っていた。自分の親がおかしくなりつつあるという現実を受け容れられるはずもなかったのである。

 春休みのある日に、私は爺ちゃんについて散歩に行ってくるように言われた。

「とりえず、体を動かしてもらわないと……」

 などと母は言っていたが、実際のところは母はていよく祖父と離れたかったのだと思う。私もそれはわかっていたし、それほど介護という認識もなかったので承諾した。

「爺ちゃん、散歩行こう」

「ん」

 縁側でぼんやりと座る祖父に言うと、祖父はゆっくりと立ち上がってひょこひょことついてきた。

 冬が終わったとはいえ、まだ海風は少し冷たい気がした。どこかぼんやりとした景色もぼんやりとしていた。

「春霞だ」

 母には悪いが、予想外に早く帰る事になるかもしれない。視界が悪くなれば、散歩どころではない。祖父を見失ってしまうことだってある。私はそんなことを思いながら、祖父にもう一度目をやった。

 祖父は海岸で、霞んだ海を見ていた。

「爺ちゃん、もう霞がかかっとるけぇ、はよ帰ろう」

 声をかけたものの、祖父はまったくそこから動こうとしない。

「爺ちゃんってば」

 いったいこんな海で何が見られるというのか。私は祖父に近寄り、その視線の先を見た。

「ばあさん……」

 祖父は呆然としたように春霞の向こうを見つめていた。

 そのとき、私の目も春霞の向こうでぼんやりとした人影を見た。

 ――婆ちゃん……。

 それは紛れもなく祖母の影だった。少し丸まった背中。昔の人にしては少しくしゃくしゃとした髪の毛。うっすらと霞がかった海の中に、見覚えのあるような着物の柄が見えた。息を呑んだ私の耳に、波の音が通り抜けていく。人影はゆっくりと手をあげて、確かに手招きをした。

「ばあさん」

 思わずというようによろよろと歩き出す祖父を見て、はっとしてその手を止めた。

「ま、待って」

 春霞はやがて晴れていき、そこには何もなくなっていた。祖父は海岸のすれすれのところで膝をついた。寄せては返す波がその膝を濡らしたが、私は何も言えなかった。


 祖父はそれから一週間もしないうちに死んだ。

 みんな、「春霞が出たでよ、連れてかれたんだわ」と酒を飲みながら葬式の席で言った。

 それがこの町の当然のことだったし、不思議だとも思わなかった。でも、みんなはたとえ話のようなものだと思っているに違いない。この町に伝わる風習や言い伝えがそうだから、そう思っている。

 でもあれは本当なのだ。

 風習や言い伝えなんかではなく、あの春霞の向こうには本当に死者の国があるのだ。


 私は都会に出て、海とは無縁の生活を送っている。

 しかし、冬がすぎて春が近づくと、あの日の海の音が脳の奥から響いてくるような気がする。霞がかって太陽の光が淡くなり、遠くまで見えない日。波の音だけが突き抜けていったあの日。


 自分もいつかあの死者の国からお迎えが来るのだろうか。

 春になって霞む海を見ると、どうしてもそう思ってしまうのだ。

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