竪琴と人魚

明鏡止水

第1話

 昔々あるところに魚を取ることで成り立っている小さなまちがありました。とうぜん目の前には毎日が青とは何か。空とは何か。海はおっかない。そんなことどうでもいいような気もするし、それでも潮に吹かれて焼けていく体や顔の赤みは困るわ、なんて女の子たちや、女房や自分、かつて自分を育ててくれたじいさんばあさんに孝行するため魚を捕まえる網を編み、暗いうちから何か思う事はないかと探しながら漁に出る、たくさんの男の漁師がいました。


 しかしどこにでも娯楽のバーや、特別に公演に来たサーカス、この海が見えることを気に入って住み着いた無名の作家なども、和気藹々とまではいかないまでも静かに生活を紡いでいました。


 そして、とある赤みがかった長身の作家の元に海のように押し寄せる波がこれ自然な事だとでもいうように赤子を授けました。赤子が母というものを意識しないで生きていくのもどうかと思った先述の書き手、父親はきちんと赤子が小さいうちから母のことを教えて育てました。

 おまえの母は一人で旅をするのが怖い癖に、行きたいところには行かねばなるまいと、行商やサーカス、時にはお忍びの辺境伯に渡をつけて、みんなを癒しに行く薬師であった、と。しかし腕は二流どころか三流で、それでもいないよりはマシなくらいにクルクル動く、短い黒髪を汗で湿らせて包帯や湿布を貼る、父と同じで流れてきたものだ。先に流れてきた父はずっと、夜に炭鉱を掘り続けるような仕事をしていた。しかし、ボロボロの青いズボンの擦り切れを見て、いつかここだ、と思う場所で物語をずっと書きたいと思っていた。せっかく字が書けるなら書いてやろう。なんでもいい。毎日のボロ切れないで続く日々をかけたらいい。ボロボロでも作家が良かった。家屋の全てが吹っ飛び、たとえば今いる炭鉱が一瞬で崩落するような場所でもいい。吊りランプの自分の前髪の色が懐かしくなるまで。どこか違う場所に行きたかっただけ。そこでいまの気持ちを自分でない自分が書く。

 そこがなんと海だった。自分がまさか海に辿り着くとは。そして赤子の母との出会いはとても恥ずかしいものだった。恋をしたことがなかったし、恋かどうかもわからないそんな気持ちを二人同時に持ったのだ。男は熱病にかかり、看病で忙しくクルクル動く黒髪の女。娘というほど若くもなく、姪や甥を持つには早い年。そんな彼女に自分は、このムスメに見てもらえたなら幸せな気がすると感じたのだ。

そして海の波はずっと続いていて当然だった。

母は、子を、産んで、育て、子が柔らかいにんじんやパンがゆを食べる頃、旅立ちたいの、と寂しく言った。

 彼女もまた、自然に、ここにいるのは違う気がすると感じてしまう困った母だった。そのことだけは、少しずつ作家を名乗り始めた父は。

 男は子供に言えなかった。

 赤子の髪は黒色だった。みな茶色ばかりなので少しでも明るく見せようと白いシャツを着みたが、余計に黒が目立ち子供は迷い。漁村の町の子達が実はあんまり気にしていないのに、自分はどこかみんなの前に岩があり、そこからひょっこりみんなを見て、見よう見まねで生きているような気がしていました。父親は見かねて町の子供達と近い衣装を二着買ってやったのですが。この親子はあまり貨幣を出す習慣も使う習慣もなかったのです。なぜならみんなが物々交換、貴重な野菜やキノコも珍しい薬草や大量の魚、時には羊で交換していたくらいです。

 ある日、父が言いました。

 酒が、飲みたい。

 珍しいことでした。酒を飲みたいと思ったことが父は。男は生涯で数えるくらいしかないのです。ただ、お祝い事には葡萄酒だ!という誰かの声が頭の中で響いた気がしたのです。妻が十三年ぶりに帰ってくるような。そんな事はあってもどうしたらいいのかわからないのに。

 とりあえず、子供は町の皆の甲斐あって、黒髪がちょっと変わったなんでもない普通の子供として育っていました。

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