第二話 黒パーカーが死ぬほど目立つ

 第二話 黒パーカーが死ぬほど目立つ


「もう、大丈夫ですか。落ち着きましたか?」

 蓮花は大きく頷いた。両手に持ったウニクロの紙袋が、なんだかんだでずっしりと重い。

「本当にお騒がせいたしまして……なんと言ったら……」

 項垂れたまま消え入りそうな声で言うと、こんな朝からしょうもないことで呼び出されたのにも関わらず、淡月は「大丈夫ですよ」と、優しい声で言った。

(うう……)

 眩しすぎて、とてもじゃないけど顔を上げられない。


 クロゼットに並ぶ白い服にゲシュタルト崩壊を起こした蓮花の元へ、淡月は五分で駆けつけ、手早くタクシーのようなものを呼び、白百合館から二十分ほど走って、二人はモダンな外観の、大きな建物の前に辿り着いた。

 ここはどこかという蓮花の問いに淡月は笑顔を返すだけで答えず、ここがおそらくデパートのような場所だと気づいた時には、二人は二階のフロアに立っていた。

 蓮花は目を丸くした。そこにはなんとウニクロが入っていたのである。

「どうぞお好きな服を選んでくださいね」

 と、淡月は言った。

 まさか。こんなところに、よりにもよってウニクロが入っているわけがない、と最初は半信半疑だったが、タグを見るとそこは確かにウニクロだった。数ある服飾店の中でも唯一蓮花が気を張らなくていいお店。今は正直、白ワンピ以外の服があるという時点で、蓮花には十分だったが。

 蓮花は静かに店内を歩いて、陳列棚の商品を見た。ジーンズ、ロングTシャツ、パーカーなどを見る。値札は日本円で、価格も多分現世と大きく変わらないようだった。蓮花は、生前着ていたのと同じような服を選んだ。店員さんから「支給の服と同等の金額までであれば自由に選んでいただけますよ」と、ありがたすぎる助言を貰い、その金額が思っていたより高かったことにも若干驚きつつ、蓮花はシンプルなTシャツを数枚と、ジーンズを一本、部屋着用のスエットパンツを一本、そして黒いパーカーを買った。それらに試着室でささっと着替えて、残りの服を入れた紙袋を持って店を出た。それが今である。


「蓮花さんは黒い服がお好きなんですか?」

 淡月が全く含みのない口調で言うので、蓮花はなんと答えたら良いのかわからず曖昧に頷いた。

 好きも嫌いもない。黒は目立たないから白よりはマシ、くらいの気持ち。服は楽であればいいし、浮かなければいい。地味であればいい。求めているのはそれだけなのだ。

「煉獄にデパートがあるとは思いませんでした」

 話題を逸らすように言うと、淡月は、そうですね、と頷いた。

「ここができたのは十年くらい前です。それまでも現世の服を扱う小さなお店はいくつかあったんですが、需要には十分応えられていなかったので。服飾は文化であり、大切な生活の一部ですから、蓮花さんのように支給の服では、自分らしくいられないという声が、ここ最近多くてですね」

「そうなんですね」

 蓮花は少しほっとした。とんでもないわがままを言って迷惑をかけた、と感じていたからだ。

「そもそも煉獄設立時から、状況もかなり変わっています」

 店内をエスカレータの方に歩きつつ淡月は言った。

「昔は煉獄で過ごす時間は、ほんの数日から、長くとも十数日でした。ちょっとした旅行みたいなものです。美味しいものを食べて、美しい場所でのんびりと時間を過ごすことができれば、大体の人は満足してくださいました。でも戦後の人口の増加に伴って、待機時間がだんだんと伸び、今は、年単位で待つ方がほとんどですからね。そうすると、やはり此処での生活が、ちょっとした旅行というより、日常となってくるんですよ」

 蓮花は頷いた。

「支給の服のバリエーションを最初から増やすことだとか、まあ、選んでいただけるように準備するとか、そういうことも考えたんです」

「はい」

「でも、白い服は天国の絶対基準です。なので、こちらがどう働きかけても、天国側はあまり何も考えてくれないんですね。なので、煉獄側で工夫して現世の服を、支給品と交換で買えるようにしたり、その規模を広げたり、バリエーションを増やしたり、と色々しているわけなんです」

 いやはや、と淡月が困ったような笑顔を見せるので、蓮花は思わず「すみません」と言った。

 淡月は「いえいえ」と、首を振る。

「この話をすると、そうおっしゃる方が多いのですが、希望を伝えていただくのはとても助かります。蓮花さんが、蓮花さんらしくいられることが、私たちにとって何より重要なことですから。……天国はもう少し、融通が効いてくれてもいいと思いますけれども。って、これは愚痴ですね。すみません」

 淡月がふっと笑った。

(……あれ)

 ふわっと何かが去来し、そして、そのまますっと消えた。変な感覚。違和感。これは、一体なんだろう。

(なんだろう)

 やっぱり、この人を、どこかで見たことがあるような気がする。

(いやいや)

 そんなはず、絶対にないのだけど。また歩き出した淡月の背中を見て、蓮花は思う。

 煉獄デパートはフロアがかなり広かった。この階には蓮花たちが見ていたウニクロ以外にも、蓮花ですら名前を見たことがあるカジュアルブランドの店が多く入っている。目の前の大きなディスプレイには、春っぽい色合いの服を着たマネキンが並んでいた。

「今は、春なんですか?」

「煉獄はずっと春ですよ」

「……そっか」

「他にも気になる服はありますか?」

「……いえ」

 蓮花には関係のない世界だ。

 花柄。レース。パフスリーブ。ロマンチックなロングスカート。

 淡い色のパンプスは一日目でどこかぶつけて傷を作るし、淡い服には今朝みたいにすぐ汚してしまうし、長いスカートなんて履いたら裾を踏んでしまう。頼りない生地は絶対にすぐ破くだろうし、綺麗な色は、自分のためのものではない。外見とも内面ともミスマッチを起こして、居た堪れなさで蕁麻疹が出てしまう。

 こうした服は、外見も内面も選ばれた人のものなのだ。

(あ)

 一番端のマネキンが着ているワンピースが目に止まった。

 他のマネキンの服に比べて、真っ直ぐな形で、レースも無ければ、小花柄でもなかった。淡い藤色と淡い萌葱色の、大きな花びらが風に流れていくような柄。そのワンピースの肩布が、空調の風を受けてヒラヒラと靡いていた。透けるような生地。煉獄の春の陽の下で美しく映えるだろう。

「…………」

「そちら素敵ですよね。もしよろしかったら、着てみませんか?」

 驚いて振り向くと、店員と思わしき女性が、蓮花ではなく、別の女性、別のマネキンが着ている花柄のワンピースを眺めていた女性に、話しかけていた。

 女性は多分亡者なのだろう。支給の白いワンピースを着ている。蓮花と同じく、最近来た人なんだろう。そして、やはり白いワンピースが嫌で服を買いにきた。でも、店員がマネキンから外しているそのワンピースも白だった。蓮花から見ると、どちらも同じに見える。あの服を着るなら、白いワンピースのままでも構わないだろうに、と思う。でも嬉しそうな女性の顔を見ると、きっとそうでもないのだろうと思った。楽しそうな二人が、試着室へと向かうのを視線だけで追う。

(わからない世界だ)

 洋服で、あんな嬉しそうな顔ができるなんて。蓮花にとって服は、ただ煩わしいものでしかなかったのに。

(関係ないか)

 振り向くと、先に進んだ淡月が、エスカレーターの前でフロアガイドを見上げていた。今は人のことを気にしている場合ではない。蓮花は、淡月の元へと足速に向かった。

「服以外でも要り用なものがあれば、この機会に全部揃えてしまいましょう。他に欲しいものはありますか?」

「あ、はい。えーと、もし可能であれば、安物でいいのでスニーカーが欲しいです」

 現世のデパートと本当にそっくりなフロアガイドを見上げて言った。今履いている靴は支給の真っ白なフラットシューズである。できれば致命的に汚す前に地味な色の靴が欲しい。

 淡月は、了解しました、と言った。

「値段は気にしなくて大丈夫です。高級なブランド品を選ばない限り、普通に支給品として買えますから」

「高級なブランド品? そんなものが天国で売ってるんですか?」

「はいまあ天国にはそうしたものは売っていませんが、煉獄ではいくらかは手に入ります」

「へえ」

「例えば……おや、すみません」

 ちょうどエスカレーターに乗った所で、淡月の電話が鳴った。

「はい、淡月です。はい。……はい?」

 淡月の横顔に、ピッと緊張が走った気がした。相手が誰だかはわからないけれど、多分仕事の話っぽい。蓮花は邪魔をしないように息を潜めた。淡月は次のフロアで一旦エスカレーターを降り、蓮花に手で小まねきした。そして、そのまま喋りながら足早に歩き出した。

 蓮花は何も考えずにその後ろを付いて行く。しんとしたフロアに淡月の小さな「はい、はい」という声だけが響いている。

 淡月はそのまま歩き続けて、フロアの廊下の端の、化粧室の手前にある大きな観葉植物の裏に回った。そこはちょっとした休憩スペースになっていて、淡月は電話で話しながら、蓮花にソファに座るように促した。そして、こちらに背を向けてまだ何か話し込んでいる。

 ソファは、二度と立ち上がれなくなるのではないかと思うほど柔らかかった。長くなるのだろうか。天人も大変だなぁ――と、蓮花はゆったりと体重を預けながら思った。

 しかし、それからすぐに淡月は電話を切った。そして蓮花に「本当にすみません」と頭を下げた。

「私は一旦東門に向かわねばならなくなりました」

「えっ、今からですか?」

「そうです。……すみません、買い物の途中に」

「いえ、大丈夫です。靴はまた今度にします」

「いえ。別の天人が蓮花さんを迎えにきます。靴売り場はもう一階上なので、お一人で靴を買って、待っててください」

「あ、でも、さっきのタクシーで一人で帰れると思います」

「すみません。あれは、天人じゃないと呼べないんです。亡者の皆さんには無料の周回バスがあるのですが、路線が入り組んでいるので、初見で乗ったら全然知らない場所に連れて行かれてしまう可能性があって……」

 淡月は困った顔で言った。

「すみません、わかりました。おっしゃる通りにします」

「ありがとうございます。靴を買ったら、デパートのメイン玄関から出ていただいて、表通りの向かいに、テラス席がいっぱいあるカフェがあります」

 淡月はポケットから小さなメモを取り出し、そこに「カフェ・ヘブンリー」と書いた。

「こちらでお待ちください」

「あ、はい……」

 表通りはさっきタクシーが止まった側だろう。確かに向かいに大きなカフェがあった。

杏花あんかという女性の天人が迎えにきます。彼女も今別の現場に出ているので少しお待たせする可能性があるので、カフェでランチを取っていてください。スマホはお持ちですよね?」

「あ、はい。持っています」

 試着室で尻のポケットに捩じ込んだスマホを取り出す。充電もちゃんとまだある。

「すぐに杏花から一報が入ると思います。もし連絡が取れなかったり、何か困ったことがあったら遠慮なく私にかけてください」

 本当にすみません! ともう一度頭を下げて、淡月は慌ただしく行ってしまった。蓮花は、少し唖然としつつ後ろ姿を見送った。

(淡月さん、忙しいんだな)

 まあ、そりゃあそうか。優秀そうだし、蓮花につきっきりの訳もないだろう。他に担当している人だっているんだろうし。こんなに忙しそうなのに、こんなショッピングに付き合わせて申し訳なかったな。

 ひとまず、なんだっけ。

 靴。靴売り場だ。

 立ち上がりにくいソファからなんとか立ち上がり、両手にウニクロの袋を持つ。

(そういえば、エスカレーターはどっちだ?)

 淡月の後ろを追ってきたから、どっちから来たのかよくわからない。フロアマップを先に探したほうがいいだろうか。

 そしてあたりを見回し、ふと気づいた。

 ここにくるまで、周りがまったく目に入っていなかったけれど、このフロアって、もしかして。

 広い真っ白な通路。店舗内に敷かれた絨毯。豪奢なディスプレイ。シックなインテリア。そして煌びやかなシャンデリア。

 それぞれの店に、大きなブランドロゴが目立つ。

(……う、)

 蓮花が生前、お店どころかフロアにだって、絶対近づかないようにしていた場所だ。自分の人生には一縷の関係もない、全く理解ができない世界。

 いわゆる高級ブランドと呼ばれる店店が並んでいた。

(やばい)

 間違いなく場違いだ。場違いオブザイヤーである。

 シャルル、クッチ、エンディ、クリスチャン・リオール。名前だけはなんとなく聞いたことがある。下のフロアと違い、通路を歩いている客はほとんどいない。

(さっき、こんなところ歩いてきたのか)

 淡月は何も思わなかったんだろうか。……うん、まあ、きっと何も思わなかったのだろう。気にする方がおかしいのだ、多分。

 店は店だ。別に場違いだからって、悪いことをしているわけではないのだ。

 蓮花は足速に歩き始める。ぴしっとしたスーツを着た店員さんが、チラリとこちらを見た。「一体あんたが何しに来たの?」と、言われているような気がした。

(大丈夫、大丈夫)

 蓮花は頭の中でそう繰り返しつつ、心の底から透明人間になりたいと願いつつ、足早に来た道を戻った。しかし、エスカレーターが見えてこない。むしろ、見たことがない場所にいる。さっき、こんなところ通ったっけ。聞いたことがない名前の、だがどう見ても超高級そうな時計のお店の横を通り抜け曲がると、さらに長い通路があった。

(嘘でしょ)

 遠すぎる。ここは無限回廊か。

 小さく笑うような声が聞こえて、蓮花はビクッと振り向いた。シャンデリアが一際煌びやかなジュエリーの店で、おそらくは亡者であろうマダムが、目の前にずらりと並べられた宝石を吟味しながら、店員の男性と楽しそうに、話していた。

 自分を笑われたわけではなかった。ホッとした瞬間、マダムと目が合いそうになり、蓮花は慌てて逃げるように通り過ぎる。

 どうしてこんな場所があるんだろう。誰がこんな所で買うんだろう。

 ウニクロの服十着分が、天国支給の服の金額とほぼ同じだと考えたら……どう考えても、ここにある高級ブランドの服や宝石は絶対買えなくない?

 百歩譲ったとしても、財布だって無理なんじゃないだろうか。大体買えたとして、裸で高級な財布持って歩くのは、流石に煉獄でもアウトなんじゃない? 地獄に落ちない?

 しかし下のフロアと比べると圧倒的に少ないものの、マダム以外にも、ちらほらと客の姿はあった。クッチの店では鞄を見ている男性がいたし、今通り過ぎた名前の読めない店でも、ネックレスを試着している若い女性がいた。

 もしかして、現世でのお金持ちは、その資産の一部を煉獄でも使えるとか、そういうことなんだろうか。どちらにしたって蓮花には関係のないことだけど。

(あ)

 やっとエスカレーターの表示が見えた。フロアの端から端まで歩いた気がする。テンパって、遠い方のエスカレーターに来てしまったらしい。蓮花は大股でエスカレーターに向かって歩いた。

 その時だった。

「こーんにーちは〜!」

「えっ?」

 あまりに大きな、しかし親しげな声だったので、一瞬、自分に向けて発せられたのかと思って、振り向いてしまった。

 目に鮮やかなオレンジの壁のような看板が目立つ、ヘルメスの前に、全身黒い服を着た女の人が立っていた。

 艶やかな素材の黒いスカートに、鮮やかな色彩の、リアルな花が描かれていた。上には同じく黒の、不思議な形のニットを着ていた。黒くて小さなカバン(何も入らなそうに見えるが)を、斜めがけしていた。チェーンが豪華な照明を受けてきらりと光った。

 その黒尽くしの女の人は、店員の女性と、まるでカフェで久しぶりに会った友達同士のように、楽しそうに談笑している。さっきまで冷たいロボットのように見えた店員さんが、女性と同じようににこにこと楽しそうにしていることに少し驚いた。

 もしかしたら、知り合いなのかもしれない。常連さんかな。女の人は奥に通されていき、奥からもさらに明るく楽しそうな声が聞こえてきた。

 呆気に取られていた蓮花は、我に返る。

 つい驚いてしまった。あんな朗らかにハイブランドのお店に入る人いるなんて。蓮花とは全く違う世界の人なんだろう。

 彼女が斜めがけにしていたバッグ。それは、このフロアに店がある、高級ブランド、シャルルのものだった。

 姉が持っていたのと似ていた。胸の奥がぎゅっとなる。

 蓮花は急いでその場を通り過ぎ、ようやく上の階に向かうエスカレーターに乗った。


 高級ブランドの空気に吸われたのか、気力がほとんど残っていなかった。蓮花は靴売り場でセールワゴンの中のスニーカーを適当に買い、その場で履き替えた。(支給の靴は店員に返した)。

 それから、エレベーターで一番下のフロアまで降りた。あのブランドフロアをエスカレーターで通過するのも嫌だ。

 表玄関から通りに出る。朝とは比べ物にならないほど、人通りが増えていた。ちょうどお昼の時間らしく、すごい人波だった。

 蓮花は思わず、柱の端っこに寄った。人混みには慣れていない上、こんな真っ昼間のファッション街なら尚更不慣れだ。まるで、テレビで見る休日の渋谷や原宿の人混みたいだ。若者で溢れかえっている。

(っていうか、若い人多すぎない?)

 煉獄にいる亡者のほとんどは、高齢者の筈だ。蓮花と同じように若くして死ぬ人はいるだろうけど、それでも全体で見れば一握りだろう。ところが、少なくとも今蓮花の目の前を通り過ぎる人々は、多分蓮花と同年代か、あるいは少し上くらいの若者ばかりだった。男もいるが、女が多い。白いワンピースを着ている人は、多分半分くらい。自分で選んだ私服を着ている人がもう半分。蓮花もその一人だ。でも、なんだろう。何だか圧倒的に違う。

 みんな楽しそうだ。そして、明るい色の服を着ていた。

 煉獄(ここ)にも流行りって、あるんだろうか。

 白やアイボリーが多い。淡いピンクや、紫、オレンジ、ブルーなどのパステルカラーの人も。鮮やかな花柄や、水玉。色だけじゃない。生地が薄くて光を通す。スカートやブラウスの袖が風を孕み、軽やかだ。蓮花が絶対に無理だと思ったあの白ワンピースも、着ている人は皆似合っていておしゃれに見える。

(おしゃれだな)

 ここはきっと、煉獄一のファッションストリートなんだろう。みんなおしゃれで、綺麗で、楽しそうだった。

 黒い服を着ている人なんて、一人もいない。

 もしかして今の蓮花は、めちゃくちゃ目立つんじゃないだろうか。

 多分、きっと、悪い、意味で。

(帰りたい……)

 さっさと部屋に帰って、布団をかぶって寝たい。そして、できればもう、ずっとそこに引きこもっていたい。

 だが、今はできない。淡月の代わりの天人(名前を忘れた)に迎えに来てもらうまでは、帰ることすらできないのだ。

(カフェ・ヘブンリー)

 淡月に渡されたメモを見る。勘違いであるようにと祈ったが、それはやはり、目の前にあるおしゃれなカフェの看板と同じだった。そのカフェは見るからに賑わっていた。街路樹の下に広がるテラス席には、おしゃれな人たちで賑わっていた。ショッピング帰りのような、一人客が主だが、二人や、グループの客も何組かいて、楽しそうな声が道の反対側まで聞こえてくる。

 中でも一番華やかなグループは、おしゃれで若い女の子の五人グループだ。蓮花はなんとなく、あの子たちの視界には絶対に入りたくないな、と思った。

 こそこそと道を渡り、息を潜めて店の入り口を覗いた。

「いらっしゃいませ、おひとりさまですか?」

 にこやかな中年の女性店員が蓮花に笑顔を向けた。

 蓮花が、小さい声で「待ち合わせです」と言うと、女性は「こちらへどうぞ」と、テラス席の方に案内しようとした。

 蓮花は慌てて「中でいいですか?」と言った。あんな、表通りからも見える場所に通されるなんて公開処刑にも等しい。

「では、こちらへどうぞ」

 女性は店内の席に蓮花を案内した。それは窓際の一番端のボックス席で、窓から外はよく見えるものの、明暗の差で、外からはあまり見えなさそう。端っこなので店内からは目立たない。ほっとする。蓮花は、ひとまずアイスティーを注文した。

「アイスティーですね、少々お待ちくださいね」

 店員さんは元気よく笑顔を見せて、厨房へオーダーを告げに言った。

 蓮花は、冷たい水を一口飲み、ようやくひと心地ついた。服と靴を買っただけなのに、どっと疲れてしまった。スマホを見てみたが、淡月の同僚からの連絡はまだ入っていない。

(忙しいんだろうな)

 東門に行った淡月は大丈夫だろうか。蓮花なんかが心配しても仕方がないけれど、だいぶ焦っていたので何か大変なことが起きていたのかも。

(色んな人がいるんだもんな)

 ぼんやりしていたら、アイスティーが運ばれてきた。さっきと同じ女性店員さんは笑顔で「今日は暑いわよねぇ。ごゆっくり」と言った。

 優しい。おしゃれなカフェに似つかわしくない蓮花にも優しい。

(天人って、優しい人が多いのかな)

 アイスティーは花の香りがした。冷たくて、美味しかった。


 淡月の代わりの天人はなかなか来なかった。連絡もなかった。

 十三時を回り、蓮花はナポリタンを注文した。隣の席の人が食べていたのが、あまりに美味しそうだったので、つられてみたのだ。大きな目玉焼きの乗った、本当に美味しいナポリタンを食べ終えて、食後のコーヒーをゆっくり飲み終えてもなお、スマホはうんともすんとも言わなかった。

 もうすぐ十四時半になる。この店に入ってから二時間以上経った。その間、蓮花は窓から外をぼんやり見るか、店の中に置いてあった雑誌を、捲るしかやることがなかった。充電が切れたら大変なので、スマホはほとんど触らなかった。しかし三冊目の雑誌を読み終えて、流石に待ちぼうけ感は拭えなかった。やはりスマホには誰からも連絡が来ていない。淡月に連絡を入れてみようかとも思ったけれど、さっきの忙しそうな様子に、思いとどまった。

 ただでさえわがままを言って、彼の仕事の予定を狂わせているのだ。これ以上、邪魔をするのは良くないだろう。

 カフェの中は、おしゃれなボサノバが小さく流れている以外は静かで、外と比べてゆったりと時間が流れているようだった。カフェにくる客のほとんどはテラス席を選ぶので、店内にいる客は蓮花を含めほんの数人だ。ほとんどが一人客で、のんびりと本を読んだり、コーヒーを飲みながら外を見ていたりする。蓮花も再び、視線を窓の外に向けた。

(あ)

 明るい色の服を着た人たちで溢れている通りの、その中心に、はっと目を引く、黒い服を来た人が歩いていた。

 蓮花は思わず目を見開いた。

(……あの人は)

 黒くて艶がある生地に鮮やかな花が描かれたスカート。

 黒だけど重くなく、不思議な形をしたニット。

 亜麻色の長い髪を一つにまとめて、動くたびにきらきらと光を弾いている。

 間違いない。ヘルメスで見かけた女の人だ。元気な声で挨拶をして、店員さんと楽しそうに談笑していた人。

 今は一人だ。一人で、ただ歩いているだけだ。

 なのに、生き生きとして、楽しそうだった。

 黒い服を着ているのに、周りから浮いていない。浮いていないどころか、良い意味で目立っている。

 蓮花の黒くて重いパーカーは、花畑の中の泥溜まりのようなのに。ただの目障りな異物なのに。

 彼女の纏う黒は違った。まるで、そこだけ星が輝く美しい夜空が現れたみたいだ。深い夜に見る、楽しい夢の色彩を添えて。

 蓮花はその人から目が離せなくなった。

 彼女が亡者なのか、天人なのかはわからないけれど、亡者だとしたらきっと生前も有名な人だったんだろうな。見たことがない顔だけど、蓮花はそもそもあんまり有名人を知らない。

(デザイナーさんとか、かな)

 斜めに掛けた小さなカバンのチェーンがきらりと光った。

 ぼんやり、見ていたら彼女が突然ぱっと振り向いた。

 そして、こちらを見てニコッと笑った。

 蓮花は慌てて顔を逸らした。距離もあるし、向こうから、こちらははっきりとは見えないはず。だけど、気まずい。心臓がやたらとドキドキする。どう考えても気のせいで、多分道のどこかに知り合いがいたとかだと思うけれど。

 ちらり、と視線を戻して、蓮花はさらに驚いた。何とその人は道を渡って、カフェの入り口の方へと歩いて来るではないか。

 あっ、と思う間も無く、聞き覚えのある朗らかな声が「こーんにーちは〜!」と、静かな店の中に響いた。店内の何人かのお客さんが顔を上げたが、すぐに皆、視線を元に戻した。

「いらっしゃいませ、あら、お久しぶりです〜!」

「こんにちは〜! 冬子さん、お久しぶりですぅ〜!」

 間違いない。あの人だ。そちらの方を見ないようにしていても、はっきりとわかる。

 さっきの中年女性の店員さん……どうやら冬子さん、と、その人は知り合いのようだった。ところが、その人はカフェのお客としてきたわけではないらしい。二人はずっとそこで立ち話をしている。

 そして蓮花は、はっとした。もしかしたら、あの人が、淡月の言っていた、代わりの天人だったら……?

(いや、ないでしょ)

 あの電話を受けたタイミングで、その人も別の現場にいるって言ってたのに、ヘルメスであんなふうに買い物をしていたのはおかしいし、その後も多分ずっとこの辺りにいたっぽいし、何より彼女の出立ちはどう見ても天人には見えない。いや、百歩譲って天人だったとしても、淡月と同じ役人ではないだろう。服からしても、多分違う。

(違う違う)

 自分で打ち消そうとするのに、鼓動が止まらない。どうしてこんなに緊張しているのだろう。あの人のことを知っているわけでもない。ちょっと見かけただけだ。よくわからないけれど、なんとなく、素敵だな、と思っているのは確かだ。だけど、あの明るさも、服も、朗らかさも、蓮花とは関係のない世界の人だ。

「こちらが、それなんです」

 女性が手にしていた紙袋から、大きな封筒を取り出して、冬子さんに渡した。

 やはり、客ではないようだった。こちらのことを全く見ないことを鑑みても、蓮花と待ち合わせしている天人ではなさそうだった。

(そりゃ、そうだ)

 分かりきっていたのに、ちょっとがっかりしている自分に驚く。

「まー、張り切ったわね」

「えへへ、そうなんですよ〜」

 冬子さんが封筒の中を覗きながら「あらあら〜」と言っている。

 じっと見ていると、ぱっと、その女の人がこちらを見た。気のせいではなく、ばっちりと目があった。そして、その人は蓮花を見て、にこっと笑った。

(ぎゃっ!)

 蓮花はビックリして、思わず顔を思い切り背けた。そして身を小さくして、かなり薄まったアイスティーの残りをずるずると吸った。気まずい。どうか、こちらを見ないでほしい。あんなおしゃれで素敵な人に、こんな黒パーカー奴は認知されたくない。

「じゃあ、よろしくお願いします〜!」

「はいはい、確かにお預かりしましたよ」

 はっと顔上げると、ちょうどその女の人が出て行くところだった。蓮花は、はーっと息を吐いた。安堵と、何故か少しだけ、残念な気持ちと。

(馬鹿じゃないの)

 まだ胸は少しだけドキドキしていた。それから、やっぱり、虚しくなった。店のすみっこでコソコソしている自分を見て、ああいう人はなんて思うだろう。同じ黒でも、彼女のそれとは雲泥の差だ。

(きっとダサいと思うんだろうなぁ)

 ダサくて、いもくて、垢抜けない。蓮花の人生はずっとそんな感じだった。最後の方は、もうそれでいいやって、思っていたけれど。

 表通りに、もうその人の姿はない。道を行く人の数は少し減ったように見えるけれど、それでも次々と歩いていく。みんな楽しそう。ショッピングの帰りなのか、紙袋を持った人も多い。誰もが煉獄での暮らしを楽しんでいるように見えた。

「あら〜、いらっしゃいませ、お待ちですよ」

 冬子さんの声が聞こえて何気なく入口の方を見ると、真っ白な服を着た背の低い女の人……いや、女の子? がこちらに向かって急足で向かってきた。その子は蓮花に、ぺこりと大きく頭を下げると、顔の前で手を合わせて「遅くなってごめんなさい!」と、大きな声で言った。呆気に取られていると、女の子は顔を上げた。顔は赤いし、額に汗がこぼれている。

「貴方、蓮花さんですよね?」

「あ、はい。……あの」

 その子は蓮花の向かいに座ると、顔をぱたぱたと仰ぎながら「ほんとにすみません〜!」と言った。息も荒いし、頬が赤いのは、走ってきたからだろうか。

「私、淡月から引き継いだ天人の杏花です。ご連絡できなくてほんとにごめん。不安だったよね?」

「あ、いえ、大丈夫です」

 お水とおしぼりを運んできた冬子さんに、杏花は「オレンジジュースおねがいします〜!」と元気に言った。

「いやもう、ほんっとバタバタしちゃって。連絡入れようとしたら、スマホ電池が切れちゃっててぇ。あ、蓮花さんも飲み物おかわり頼んでくださいね。おやつでもいいですよ。何がいいですか? パフェ? プリンアラモード? ケーキセット?」

 蓮花はその勢いに押されつつ首を横に振った。

「大丈夫です。お腹は空いてなくて……」

 ナポリタンがまだ全然いる。天人はメニューを捲りながら、ふんふんと頷いている。

「じゃあ、このクリームソーダはどう? このカフェのはね、メロンソーダじゃなくて、青いソーダを使ってて、すっごい綺麗なんです。あ、現世みたいに、着色料とかじゃないの。天国産のブルー・グレナディンシロップで、とにかくめっちゃ映えるって有名なんですよ」

「あの、はい、じゃあ、それで」

 勢いに押されて、頷いた。映えるって、あの世でも言うんだな。

「はー、本当にお待たせしたわー、時間やばいね。すみませんね」

 杏花は薄紅色のハンカチで額の汗を拭きながら言った。背が低く童顔なので、中学生のように見える。だが淡月の首にかかっていたIDと同じものを見せながら、天人であることを説明した。

「淡月と同じ、特別保護亡者を担当する部署です。本当に、会えなかったらどうしようかと思って焦った〜! やっぱ待ちましたよね?」

 蓮花は、いえ、と首を横に振った。待つには待ったが。

「みなさん、お忙しそうだから待つのは覚悟していましたし、全然大丈夫です。むしろ、すみません。私が一人で帰れないあまりに」

 杏花は目を丸くした。

「蓮花さん、昨日入獄したんだから! いきなり一人で行動できる筈ないんですよ。お気になさらずです。一週間、一ヶ月と部屋から出られない人もいっぱいいますよ。それに比べたら、一人でカフェでランチ食べて待つなんて、それだけで超弩級にすごいです」

「は、はあ」

 ほんとすごい! と、杏花は繰り返した。淡月とはタイプが全然違う。

「でも、蓮花さんのことは見て一発でわかりましたよ〜!」

「どう言うことですか?」

「え、だって、淡月が蓮花さん黒いパーカー着てるって言うから」

 先に運ばれてきたオレンジジュースを勢いよく飲みながら、杏花は言った。

「煉獄で黒着てる人、ほとんどいないから。目立ちますもん」

 ドキッとした。

「あの、やっぱり、黒って目立ちますか?」

 恐る恐る聞くと、杏花は、大きな笑顔を見せて言った。

「そりゃめちゃくちゃ目立ちますよ。だーいじょうぶ! 黒パーカーなんて、死ぬほど目立ちます!」

 両手の親指と人差し指でそれぞれ◯を作って、オッケーのジェスチャーで、明るく朗らかに杏花は言った。

「な、なんで?」

 蓮花にとって黒い服は、モブになれる基本装備だった。

 そりゃ、明るい服を着た女の子は現世にも普通にたくさんいた。量産型女子なんて流行っていたし、蓮花と同世代は大体そうだ。でも、だからと言って、黒い服で外を歩いても、超目立つなんてことはまずなかった。

 しどろもどろにそう言うと、杏花は「えー、だって」と指を折った。

「まず、気候が違うでしょ。それに煉獄にはスーツの人が少ない。背広着たサラリーマンやってた人が、死んでからも、一人だけでもスーツを着たい! とは思わないみたい。あと、それ以外の町の人でも、日本だと制服着てる人は黒とか紺とか暗い色が多いけど、煉獄には制服着ている人がほとんどいないし、いても、あたしらでしょ? で、天人は、役人だったらまず白い服なわけ」

「はぁ」

「で、亡者でも支給の白服でもかまわんって人が七割くらいいるでしょ。この辺歩いているのは私服の人が多いけど、それはファッションストリートだからだしね〜」

「なるほど……」

「で、おしゃれをしたいから服を着たい人っていうのは、やっぱり、明るい服に惹かれる人が多いのかな。まあ、わかんないけど、あんまり黒い服をわざわざ選ぶ人もいないみたいだね。ほとんど見ないよ」

「だから……」

「そう。だから、目立ちたいなら黒を選ぶのが大正解ってわけ!」

 杏花は再び指で丸を作って言った。

 蓮花は……ガックリと項垂れた。

 杏花の言うことはどれもこれも至極ごもっともだ。だが、一番重要なところを勘違いしている。蓮花は、目立ちたくて黒いパーカーを着ているわけではない。逆だ。この世の果てまでモブでいたい。世界に紛れていたい。その気持ちの一心で黒パーカーを買ったのである。

(馬鹿すぎる)

 せっかく買ったパーカーなのに、このままここで脱ぎ捨てたい気持ちに駆られた。だが、だめだ。下に着ているTシャツも黒だ。どちらにしても目立つことには変わりがない。

「……あれ、大丈夫?」

 杏花が不思議そうな顔でこちらを見て言った。蓮花は「はい」と小さく言ったが、それは弱々しく掠れていて、自分でも聞いても大丈夫な声ではないなと、思った。

 杏花がテーブル越しにこちらに顔を近づけ、声を顰めて言った。

「……どうした、杏花ちゃんに言ってみ?」

「いえ、……あの……なんと言うか……」

 顔が近い。小さく身をひくと、杏花はさらにずいとこちらに顔を寄せた。

「あの……私、その、目立ちたくないんです」

「えっ? どういうこと?」

「いえ、だから、そのままです。……絶対、絶対、目立ちたくないんです」

 杏花が、その目をまんまるくした。至近距離で見ると、その瞳は黒ではなくて、綺麗で深い紫色をしているのがわかった。その目でぱちぱちと瞬きをしてから、杏花は言った。

「でも、蓮花ちゃんって、天国支給の白ワンピースがどうしても嫌で、わざわざ黒い服を買ったんでしょ?」

 いつの間にかちゃん付けになっているが、そんなことはどうでもよかった。蓮花は頷いた。

「白いワンピースはキャラじゃないので……」

「キャラじゃないって、どういうこと?」

 杏花は怪訝な顔をして、首を傾げた。

「あんな、凡個性な服に、キャラも何もなくない? あたしはてっきり、その凡個性が嫌なのかと……つまり、みんなが着てるから嫌だったのかと思ったんだけど」

「え?」

「他の人と同じなのは嫌だから、白だと目立たないから、だからあえてこの煉獄でわざわざ黒い服を着てると思ったんだけど」

 蓮花は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。

「全然違います」

「そうなん? でもぉ〜。煉獄で一番目立たない服は、絶対に白い服だよ?」

「し、白い服……」

 杏花の服は、確かに白い。下は白いスカート、上は薄いパステルの青いインナーに、白いカーディガンのようなローブのような服。靴は白いブーツを履いている。

「はーい、天国風クリームソーダ、お持ちしました」

 青空のような色のソーダに、雲のようなアイスクリームが乗ったクリームソーダが目の前に置かれた。蓮花は、冬子さんを見上げた。

 白い服に、アイボリーのエプロンを付けている。

 杏花が言った。

「ねー、煉獄って、白い服が一番目立たないよね?」

 冬子さんは小脇に抱いて、首を傾げた。

「あら、ファッションの話? 私、疎いのでよくわからないけど、確かに白い服の人が多いとは思うわ」

「冬子さんの服って、支給品?」

 杏花が聞くと、冬子さんはニコッと笑って「そうよ」と言った。

「私、本当にこだわりがないし、自分で選べって言われてもよくわからないから。この服は着心地もいいし、汚してもすぐに綺麗になるし、ありがたく着ているわ」

 蓮花は思わず小さく口を開いた。

「……冬子さんって、亡者なんですか?」

 冬子さんも杏花もキョトンとした表情を浮かべた。それから、冬子さんはくすくすと笑い出した。

「やだ〜、お嬢さん、こーんなおばちゃんの天人さんがいるわけないじゃない。私は亡者よ。あなたも、そうでしょ?」

「冬子さん、この子、蓮花ちゃんって言うの。昨日入獄したから、まだわからないこと多いんだよ」

「あらっ、そうなの?」

 冬子さんは急に神妙な顔になり、黙り込んだ。そして、蓮花にペコリと頭を下げた。

「こんなお若いのに、それは残念だったわねぇ。このクリームソーダはおばちゃんが奢るわ。他にも食べたいものがあったらなんでも言ってね。ケーキセットも美味しいのよ」

 冬子さんは気遣うように言った。冬子さんも亡者ということは死んだ人なのだから、死にたてだからと言って蓮花に気を遣う必要もないだろうに。神妙な表情を見つつ、蓮花は思った。

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

「もちろんよ」

「冬子さんは亡者なのに働いてるんですか? 働けるんですか?」

「そうだよ」

 と、言ったのは杏花だった。

「多分まだ淡月が全部説明し切れていないと思うんだけど、亡者でも働けるよ。お給料ももらえるんだよ」

「えっ、でも……なんのために?」

 衣食住が保障されていて、なおかつ、多分、働かなくても回っている社会の中で、わざわざ働く理由がどこにあるのかわからない。

「もちろん、働いているのが楽しいからよ」

 冬子さんがにこっと笑っていった。

「どういうことですか?」

「私もね、ここに来た当初は、これが夢にまで見た三食昼寝付き、上げ膳下げ膳の最高の生活ねって思ったものよ」

「そうそう、大体みんなそう言うんですよね〜」

 オレンジジュースを啜りながら、杏花が言った。

「でも、まあ、半分くらいの人はすぐ飽きるね」

「飽きる?」

「そう。もー、すぐ飽きちゃって。やることなくてね。だから、若い頃に憧れた職に就くことにしたの」

「それが、ウェイトレスさんってことですか?」

「そう。こんなおしゃれなカフェで働けるなんて夢みたいよ。接客も、自分が思っていたより、ずっと性にあっていたみたい。不思議な話よね、人生が終わった後に、何が性に合っているか、気づくなんて」

「冬子さんは、女性が自由に外で働けなかった世代だから、ずっと憧れてたんだよね」

「そうなのよ」

「……そうなんです?」

 冬子さんは、蓮花の親と同じか、少し若いくらいに見える。母も結婚前は働いていたし、その世代の女性では一度も働いたことがない人の方が少数派ではないのだろうか。もしかしたらお嬢様とか、箱入り娘だったのだろうか。

 冬子さんは懐かしむように、頬に手を当てていった。

「なんせ、娘時代は戦時中だったからね。こんな華やかな場所で働くなんて、とてもとても」

「せ、戦時中!?」

 ビックリして声を上げると、冬子さんはあらやだと恥ずかしそうに口を押さえた。

「年がバレちゃう」

 蓮花が杏花を見ると、杏花は大丈夫大丈夫〜と、呑気な声で言って蓮花の肩を叩いた。何故か少し得意げな顔をしている。

「その顔を見ると、つまり、淡月は説明してない?」

「な、何をですか?」

「あのね、亡者の人ってね、煉獄に長くいると若返ることがあるの」

「ちなみにね、全員じゃあないのよ」

 冬子さんも何故か得意げに言った。

「そう、全員じゃない。心の活力がある人が……つまり、魂が若い人が、その魂の年齢に近づいていくって感じかな。冬子さんは、享年九十六歳の大往生だったわけなんだけど」

「やだ〜、杏花ちゃんったら、享年言わないでよ恥ずかしい。ねえ?」

「は、はあ」

「ここで働き出してからね、徐々に若返っていったのよ。最初はおぼんでお水のコップひとつ運ぶのも大変だったけれど、今はお皿の四枚持ちも余裕よ」

 冬子さんは嬉しそうな笑顔を見せて言った。

 そして蓮花ははっとした。このファッションストリートで、若者が多い、という違和感の正体。みんなが若くして死んだわけではなくて、きっと多くの人が、冬子さんと同じように若返ったのだろう。

「まあ、亡者が煉獄に長くいると若返る理由はわからないんだけどね。煉獄の滞在が平均一年を超えたあたりからかなり顕著になったよ。活動的な人は若返るし、穏やかに最後を過ごしたいと言う人は亡くなった頃の姿に近いかなって感じ」

 そうなのよ、と冬子さんが再び神妙に言った。

「……正直ね、蓮花ちゃんは、煉獄に長いから若返ったのだと思ったの。それがまさか、昨日入獄だなんて」

「いえ……別に」

 別に……なんだろう。

 何て言っていいかわからず、蓮花は黙った。そんなことありません、と言うのもおかしいし、本当に悲しいですと言うのも何か違う。

「そんなことより、アイス溶けちゃうよ。早く食べなよ」

「あ、はい」

 そんなことって、杏花ちゃんったら、と冬子さんは笑ったが、蓮花はありがたく思いながら、半分溶けたアイスクリームを頬張った。

 別の席にオーダーを取りに行った冬子さんを見ながら、杏花がぽつりと言った。

「冬子さん、もうすぐここに来て二年になるんだ。多分、もうそろそろだと思う。寂しくなるよ」

 杏花の横顔が、初めて少し大人びて見えた。だが、すぐにこちらを向いてぱっと笑った。

「あ、ごめん、蓮花ちゃんの前で変なこと言って。デリカシーが足りないってよく淡月にも怒られるんだよね」

 失敬失敬、と、杏花は言った。

「蓮花ちゃんは、今は煉獄生活をどう楽しむかってことを一番に考えた方がいいよ」

「はい」

 青いソーダを飲みながら、蓮花は頷く。

「まあ、差し当たり、服をどうするか決めないと」

「……ぐっ」

 そういえばそうだった。

「白いワンピースはキャラじゃないから嫌だ。……でも黒い服はここでは目立つから嫌だ。……だったら、何を着る?」

「え、えー……」

 杏花はテーブルに肘を突き、困ったねぇ、と言った。

「そもそも、このファッションストリートでならまだしも、煉獄の他の場所にいたなら、白いワンピース以外は何でもある程度は目立つよ。黒よりはマシだとはいえ、ね」

「……そ、そんな」

「もう開き直るしかないよ」

 杏花はにこっと笑った。

「自分の心が落ち着く黒い服を着て目立つか」

「目立ったら心が落ち着きません」

「白いワンピースを着てモブになるか」

「……白いワンピースは絶対無理です」

 ひどい。ひどいわがままを言っている自覚はある。蓮花は「いいんです」と消えそうな声で言った。

「……よく考えたら部屋にずっと篭っていれば、何着てても関係ないですよね。部屋から出ないので、もう、これでいいです」

 杏花は「え〜」と、唇を尖らせた。

「全く出ないのは無理だと思うよ」

「で、でも……人付き合い苦手だし、人混みも嫌いだし、外食にも興味がないし、虫が苦手だから自然は嫌いだし、働きたくないし、これといった趣味もないし。……そもそも、元は引き篭もりだったんです。家の中にこもってるの、得意なんです」

 うーん、と言いながら杏花は頭をぽりぽり掻いた。

「蓮花ちゃんがまあそれでいいとしても……淡月が困るかも」

「淡月さんが? どうして?」

 杏花は周りを少し見た。冬子さんが、テラスで別の客と談笑しているのを見て、こちらに顔を寄せた。そして小声で言った。

「あのね、聞いてるとは思うけど蓮花ちゃんは、特別保護観察対象っていうのになっているのね」

「それは、昨日少し聞きましたけど……」

 でもあの炎の影響か、今の蓮花は特に保護してもらう必要があるとは感じていないのだが。そう言うと、杏花は、まあまあ、と言った。

「特別保護観察対象の亡者っていうのはね、担当の天人がつくのね。普通の亡者にはつかないんだよ。で、蓮花ちゃんには淡月が付いてる。淡月の役割は、蓮花ちゃんが煉獄にいる間、できる限り健やかに過ごし、炎の影響と関係なく魂の回復をサポートしないといけないの」

「……いや、でも」

「余計なお世話って(そんな)顔しないで〜〜。これ決めたのあたしたちじゃなくて、天国だから」

 ますます蓮花は顔を顰めた。だんだん、天国が融通が効かないお役所の代名詞になっている気がする。

「で、だから……まあ、わかるでしょ。蓮花ちゃんがずっと部屋にこもっていたら、端的に言うと、淡月の評価が下がるわけ」

「で、でも!」

「気持ちはわかる。でも、やっぱり現実的に考えて、二年も引きこもるのも、誰とも会わないのも……あまり現実的じゃないし、今の蓮花ちゃんに、それが必要だとも思えない。そんなことしていたら、逆に天国側から「もっと時間が必要だ」とか何とか言って、転生を先延ばしにされちゃう可能性もあるわけよ」

 蓮花はガックリと項垂れた。これじゃあ軽い脅迫である。

「静かに暮らしたいっていう希望は叶えられないんですか?」

「もちろん、叶えられるよ。でも、服が嫌だから部屋に閉じ籠りますっていうのは、静かに暮らすってことではないよ」

「ぐ……」

 それは確かに、その通りではあるのだが。

 杏花は大丈夫、と笑った。

「難しく考えなくていいんだよ。目立つって言ったって、別にそれを気にしなきゃいいんだし、現世に比べてずっと緩やかなんだから、それで何かを言われるわけでもなし。それに、一人の方が圧倒的に多数なんだから……」

 それは、そうだろう。蓮花だって、わかってはいる。でも二十三年で染み付いたファッションに対する居心地の悪さが、そう簡単に拭えるわけでもない。

「楽しそうな女子グループ、いましたよ」

 さっきまでグループが座っていたテラスを見て言った。

「ああ、たまにいるよね。大体がグループホームの仲良しグループだよ。それは、楽しませてあげようよ」

「グループホームって、つまり、お年寄りの?」

 そ、と杏花が言った。

「つまり、おばあちゃんたちが娘時代には、こういう華やかな楽しみは少なかったんだよ。みんな長寿で、大体同じくらいのタイミングでなくなったグループがちょいちょいいるから、そうすると大体同じペースで若返ってるわけ。そしたら、おしゃれやおしゃべりを楽しみたいものなの」

 でもね、と杏花は言う。

「そう言う人たちはほんと一部。ほとんどの人は一人で死んで、一人で煉獄で過ごす。思い残したこと、やりたかったことを少しずつ重ねながら、悲しみを癒しながら、二年を過ごして次に行くの」

 杏花は「解決してない人の方が多いんだよ」と言った。

「何を、ですか?」

「自分の課題、かな。やり残したこと、とも違うけど。蓮花ちゃんにとっての服って、もしかしたらそれなのかもね」

「……」

 そんなことを言われても困る。生まれつきなかったセンスを、死んだ後どうにかしようとも思わないわけで。

 時計を見ると、四時を過ぎていた。

「ひとまず、そろそろ帰ろっか」

「そうですね」

「なんか長々と話しちゃってゴメン。変なこと吹き込んだって淡月に怒られちゃうかな〜」

「いえ、……色々聞けてよかったです」

 蓮花はそう言って立ち上がる。

 隣のボックス席にいた、女の人二人が、こちらをチラリと見た。

 そして、少しだけ目配せをした。……ように、見えた。

(……う)

 自意識過剰だろうか。それともやっぱり、この服がおかしいのか。

 彼女たちは、まさに外を歩いている他の女の人たちと同じように、明るい色のワンピースを着ていた。そればかりか、お化粧もちゃんとして、髪の毛も整えている。

 蓮花は真っ黒のパーカーで、髪の毛は一つに結んだだけで、化粧なんてしていない。背だけは高いから、威圧感があったのかもしれない。それともやっぱり、黒い服が目立ったのかもしれない。

 痛い、と思った。どこが痛いのもわからないが、痛い。

 小さな杏花と立って並ぶと、ますます自分が大きく見える。

 杏花がお会計をしてくれて、その後に続いて、店を出ようとすると、「蓮花ちゃん、ちょっと待って」と、呼び止められた。

 冬子さんが、何やら紙を一枚差し出して言った。

「最後ちょっとだけ話を盗み聞きしてごめんなさいね。あのね、もし蓮花ちゃんが、……お洋服のことで悩んでるんだったら、これを持って行って」

「……? これ、何ですか?」

 手に取ったチラシを見ると、そこにはいささか大きすぎる文字で「アトリエ・ナナカマド」と書いてある。

「あまり詳しくないんだけどね、ファッションに関することだから。ほら、そこに色々書いてあるでしょう」

「はあ」

 蓮花は小さい声で読んだ。

「あなたの人生の、最後の時間を、自分の心にピッタリのお洋服で、気持ちよく快適に過ごしませんか……?」

「えー、何これ、あ、仕立て屋さんのチラシ? かわいいね」

 後ろから杏花が覗いて言った。冬子さんが首を振る。

「仕立て屋さんとは違うわ。えーと、何と言ったかしら……説明聞いたのに忘れちゃった。最近の言葉で……ファッショ? ファッショニスタ? うーん、違うわね」

「ファッションアドバイザー?」

「違うわ。ファッション……ス、なんとかよ」

「あ、スーパーバイザー?」

「それアドバイザーと何が違うの? えーと、……スタジアム。違う、スイートピー……は聖子ちゃんね。ス……ストーカー……じゃないわね」

「ストーカーは嫌だな〜〜」

「ス……ス……」

「……スタイリスト?」

「あ、それよ! さすが蓮花ちゃん、最近の若い人ね」

「い、いえ、ここに書いてあるんです」

 ファッション・スタイリスト。

 その文字を追いながら、蓮花は目を丸くした。

 そこには、こう書いてあった。


「あなたのファッションのお悩み、一緒に考え解決します。現世のファッションと常世のファッション、どちらも愛している、天人ファッション・スタイリスト 朝顔」


 そこには、黒い服を着て、シャルルのバッグを持って、楽しそうに輝いていた、あの女の人(の写真)がウィンクしている。

                           (続く)












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