第22話 自己満足-3

 タクシーに揺られること約1時間、漸く許斐このみさんの自宅の最寄り駅付近に到着したところで、僕は許斐さんにバトンタッチしてドライバーに自宅までの詳しい道順を説明するように促す。


「ここで結構です。」


 だが、許斐さんはまだ酔いが完全に醒め切っていないから少し歩こうと提案して、僕の承諾を得ると、その場で停車させた。結局、運賃は折半として許斐さんにも半分出してもらった。タクシーに乗ることを決めたのは僕だから、全額払うと主張しても、許斐さんは介抱してもらった礼だとして、支払いを譲らなかった。らちが明かないので、折衷案せっちゅうあんとして、結局割り勘となった。


 今度はゆっくりとしていながらも確かな足取りで歩く許斐さんは、すっかり酔いは醒めているように見える。──もしかして僕と、もう少し話していたかったから、なんて。自惚れも大概たいがいにしよう。そんなくだらないことを考えていた僕の脳内だが、ふとした瞬間、何故今まで思い至らなかったのか、ある当然の思考に行き着いた。


「そうだ! 許斐さんのストーカー被害、さっきの一部始終も含めて警察に相談しよう!」


 事態の収束に向けて希望を見出す僕とは対照的に、彼女の表情は暗いままだ。


「それはだめだよ……。犯人にも警察に通報したら自暴自棄に陥って、何を仕出かすかわからないって念を押されてるし、ストーカー行為は被害者が何か実害を被っている証拠を提示できないと、警察は動いてくれないから……。」


 ──確かにそうだ。僕は自分がこの場で直ちに思いつくような軽率な発想など、許斐さんが思い至らない訳がないだろうと自戒じかいする一方で、一縷いちるの望みにすがって、食い下がろうとする。


「じゃあ、この傷! さっきの凶漢に殴られた頭の傷を見せれば事件性を認めてくれないかな……!」


 僕は後頭部に受けた挫創ざそうを指しながら声高に主張する。


「確かに酷い傷だけど、さっきの男と犯人を明確に結びつける証拠がない上、血が付着してるはずの凶器も持ち去られちゃったから、単にぶつけただけだと思われるのが関の山かな……。」


 ──反論の余地もない。今となっては、あの現場で犯人を捕らえきれなかったことが口惜しくて堪らない。あそこであの男を捕り逃さなければ、今頃許斐さんのストーカー被害の犯人が本当に暴漢と同一人物だったのか答え合わせができた上、もしかしたらこれ以上彼女が苦しめられることもなかったかもしれない。


「だ、大丈夫だよ! なんにせよストーカーの方も行動が過激化してきてるし、焦りを隠せてない様子だから、襤褸ぼろを出すのも時間の問題だと思う。」


 表情が強張る僕の顔を見て、許斐さんは、僕の考えを察するように声をかけてくれる。


「それよりも心配なのは否己いなきくんの頭だよ……。」


「なんかその言い方だと、まるで僕の思考回路がおかしくなったみたいで、誤解を招くよ?」


 軽口を叩く余裕を取り戻した僕は、許斐さんの言葉に冗談で返すと、彼女はふっと微笑んでくれた。彼女が素面しらふで、自然に笑った表情を見るのは久しぶりだ。


「もう、こっちは本気で心配してるのに……。ちょっと見せてみて。」


 僕は言われるがまま、少し屈んで後頭部を見てもらう。


「うーん。見た目には少し血が出てたくらいで、大丈夫そうだけど、頭だからね……。」


 僕は頭を殴られた後、したたる血をぬぐうものを持ち合わせていなかったので、仕方なく許斐さんに貰ったハンカチを使って止血した。最初は持ち歩くつもりなどなかったのだが、折角の許斐さんからの贈り物を箪笥たんすの肥やしにしておくのは忍びなく、御守りだと思って携帯するようにしたのだが、まさか初めての使い道が怪我の応急処置になるとは。でも、ハンカチを使っている僕の姿を見た許斐さんは、どこか嬉しそうな顔をしていた気がする。


「念のため病院で検査してもらった方が良いと思う。送ってもらったお礼に、明日病院まで付き添うよ。」


「あ、ありがとう……。」


 僕は願ってもない再び許斐さんと2人きりで出掛けるチャンスに心躍りそうになるが、生憎そういう場合ではない。


 駅から5分程度の距離を喋りながら歩いたところで住宅街に入り、許斐さんは一軒家の前で立ち止まった。


「送ってくれてありがとう。私の家、ここだから。」


 閑静な住宅街にひっそりとそびえる縦長の住宅を指差して、彼女は家の鍵を取り出した。


「ところで、否己くんはこの辺に住んでるの?」


「まあ、そうだね。僕は今一人暮らしだけど、ここから2駅分ほど離れたところに実家があるから、今日はそこで寝泊まりしようかなって。」


「そ、そうだったんだ……。私の都合で否己くんのご両親も驚かせちゃったかな。それにここから2駅分って、電車ももう出てないのに、平気?」


「もし否己くんさえ良ければ、泊ってく……?」


 突然の申し出に、僕は心臓が止まるかと思った。──いやいや、ちょっと待ってくれ。ただでさえ許斐さんのストーカー問題がまだ未解決のままなのに、お互いの気持ちを再確認しないまま、色々とすっ飛ばして泊りだなんて、心の準備が出来ていないとか、それどころではない。


「いや、気遣ってくれてありがとう。でも、さっき両親には帰省することを伝えておいたし、歩いて20分もかからないから心配いらないよ。」


 許斐さんがどこまで本気で言っているのか分からない手前、至って冷静な風を装いながら、内心冷や汗をかく思いで返答する。


「そっか。今日は本当に、色々とごめ──ううん、ありがとうね……。」


 感謝と共に別れを告げた彼女が家に入っていくのを見届けてから、僕は反対方向に位置する実家に向けて踵を返し、歩き出す。


 大学で許斐さんと再会して以来、彼女と逢瀬おうせを重ねる度に、僕は彼女との会話や態度から、何となく彼女も僕に好印象を抱いてくれていることは薄々気付き始めている。でなければ、高校時代に僕の早とちりによって失敗に終わった告白のやり直しを受け入れてくれたり、贈り物を用意してくれたり、隠し事を打ち明けてくれたりなどはしないだろう。問題は、そのことに確信が持てないことによって踏ん切りがつかない僕の哀れな自己肯定感の低さにある。


 かといって、今の許斐さんの状態でもう一度あの日の埋め合わせを申し入れても、彼女のストーカーを刺激するだけで良くない。何においても、まずは犯人を警察に突き出すなりして許斐さんの安全を確保するのが先決だ。そのためには、犯人に繋がる有力な証拠や証言を今以上に沢山掻き集める必要がある。


 ──それにしても今宵は、心身共に疲れたな。許斐さんを無事に送り届けることができた僕は家路に就いたと同時に、気が抜けたのか、どっと押し寄せるような倦怠感と疲労感に苛まれた。


 今はもう何も考える余裕がないというのが本音だが、明日は許斐さんに病院へと付き添ってもらう約束を結んだ以上、そのことを意識せずにはいられない。


 ──明日は明日の風が吹くのだ。僕は一旦、さじを投げるかのように思考を放棄し、足を実家に向けて真っ直ぐ動かすことだけに集中して、とぼとぼと頼りなくも惰性的だせいてきに歩み続けるのだった。

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