第37話

「なあんだ、ただ頭を撫でてもらっていただけだったのね。てっきり愛が、既成事実を作ってしまったとばかり思ったわ」


 土屋さんの部屋から場所は移動し、今はダイニングのテーブルにて。

 婚姻届を本気でもらいに行こうとしていた土屋さんのお母さんの誤解を、俺は必死に解いていた。土屋さんはお昼ご飯の準備をしてくれていて、キッチンにいる。


 にしても、土屋さんのお母さんはとても若く見えた。

 仮に学生服を着ていたとしても、違和感を抱くことがないかもしれないくらいの若さを保っていた。


「……それで、あなたが森本くんなのよね?」

「はい、そうです」

「愛からいつも、あなたのことを聞いているわ。愛はあなたのことがとても好きみたいでね、とても楽しそうにあなたのことを話すのよ」

「……あはは」

 

 そのお母さんの発言は、キッチンで料理中の土屋さんにも聞こえたはずだ。

 普通ならここで『ちょっとお母さん! なに言っているの!』と土屋さんが顔を真っ赤にして憤慨するべき場面であるが、土屋さんは今のお母さんの話にうんうんと頷いて、よく言ったよお母さんという顔をしている。


 流石は土屋さんだ……。


 そういえば、土屋さんのお母さんに会えたら、言わなくちゃいけないことがあると思っていたのだ。


「すいません。いつも不在の時にお邪魔してしまっていて。挨拶をしなくちゃいけないとは思っていたんですが、なかなか機会に恵まれなくて」

「いいのいいの、気にしないで。来客があった方が家も賑やかになるし、愛がそうしたくてそうしたのなら、なんの問題もないわ」

「つち……愛さんには勉強を教えてもらうだけではなく、夕食も振る舞ってもらってしまっていて。きっと食材費もタダじゃないのに……」

「子供がそんなことを気にするんじゃないわ。それより、あの子の料理は美味しいでしょう?」

「はい。とっても」

「それなら美味しいと言って、あの子の料理を食べてあげて。それが1番、幸せなことだと思うわ。……数年前からね、いつもご飯は愛に作ってもらっているの。私が仕事で忙しくしているのを見て、愛がご飯を作るって言ってくれてね。ほら、愛って要領がいいから、あっという間に私より料理が上手くなっちゃって。今じゃ見ての通り、私が休みの日の時も、料理は愛に頼りきりなのよ」


 そう少し嬉しそうに、お母さんは土屋さんのことを語っていた。


 きっと土屋さんとお母さんは、お互いに支え合ってここまで生活してきたのだろう。

 とても強い絆で、2人がつながっているように見えた。



 やがてキッチンから、お昼ご飯ができたと土屋さんから声がかかった。


 今日のお昼ご飯は、ハンバーグだった。

 どうやら土屋さんは昨日からハンバーグの仕込みをしてくれていたようで、とてもいい匂いが家の中に充満していた。


 流石に配膳くらいは手伝わせてもらい、いただきますの合図で食べ始めたハンバーグは、やはり血走ってしまうくらいに美味しかった。


 ここ数週間は土屋さんの手料理を振る舞ってもらう機会が多く、俺は次第に、土屋さんの手料理でないと満足できない贅沢な体になりつつあった。


 

 それから他愛のない話を交わしながら、昼食を食べた。

 土屋家親子は本当に仲が良いようで、笑いが絶えない食卓だったし、お互いにお互いのことを尊敬できているようだった。実に素敵な親子だ。


 20分程度で食事が終わると「あとは若い2人でごゆっくり」と、土屋さんのお母さんは買い物へ出かけてしまった。



「皿洗い、手伝わせてもらうよ」

「ええ、お願いするわ」


 そう言って、始めた皿洗い。

 なんだかキッチンに2人並んで皿を洗っている様は、カップルというよりか、カップル以上の関係性に見えなくもなくて。


 そんな状況に少し心拍数を上げていると、土屋さんが皿を洗いながら、おもむろに話しかけてきた。


「私の呼び方、変えなくていいからね」

「え?」

「お母さんの前では私のこと、下の名前で呼んでたでしょ?」

「まあ、お母さんの前じゃ、紛らわしいからな」

「それ、変えなくていいから」


 つまり、これからは下の名前で呼べということだろう。

 学校じゃそんな真似できないなとは思いつつ、学校では話す機会もないかと思い、俺は素直に了承することにした。


「分かった」

「早速、呼んでみてよ」

「……えぇ」

「私の手料理たくさん食べたよね?」

「う」


 俺が恥ずかしさを隠しきれず渋っていると、土屋さんがそう脅してきた。

 その脅しに、俺が逆らえるはずもなく。


「……愛」

「もう1回」

「なんでだよ!? 1回で十分だろう?」

「私の手料理たくさん食べたよね?」

「便利な脅し文句だな!」

「いいから」

「……っ」

「早く」

「愛」

「……ふふっ。今度はもっと、感情を込めた感じでいけるかな?」

「なにそのモデルを撮影してる時のカメラマンの口調」


 しばらく、名前を呼ばされるだけの時間が続いた。


 つち……愛には、いろいろとお世話になっていたし、愛の気が済むまで、俺は命令されるままだった。



「……ふう、今日はこれくらいにしておきましょうか」

「なんか丸裸にされた気分だよ……」

「ねえ、司くん」


 その唐突な司くん呼びに、俺は思わずドキッとしてしまった。


 そこには、俺が名前で呼ぶことを始めるのなら、自分も司くん呼びを始めるという、愛の強い意思が感じられた。


 というか、名前で呼ばれるのは強烈だな……。

 土屋さんが何度も名前呼びを強要してきた理由が少し分かった気がした。



 そして愛は、この上ない笑顔で、俺に言い放った。


「この間、約束したデート、テストが終わった次の日の週末でいいよね? 私、すっごく楽しみにしてるからっ」





 そうして土屋さんの家から帰ってきた俺は、そのまま勉強机に向かえるほどタフではなかったので、いつも見ているゲーム実況の動画を見ることにした。


 今日はどんな動画かなと、軽くワクワクしながら動画配信サイトを起動すると、サイトの様子がいつもとは様子が違うことに気がついた。


「ゲーム実況生配信……?」


 どうやら俺がいつも見ているゲーム実況者の人が、リアルタイムで配信をしているようだった。

 いつもは動画投稿ばかりなので珍しいなと思いつつ、そのまま俺はその配信を覗いてみた。


『よしっ、これで5連勝! 今日の僕は止まらないよ!』


 どうやら7連勝を目標に、配信をしているようだ。

 配信開始から2時間が経過し、同時接続者数は5000人という数字を記録しており、かなり配信は盛り上がっているようだった。


『最近は少し勉強につきっきりでねえ、あんまりゲームできてなかったんだけど、やっぱりゲームは楽しいなあ。今からテストに向けて最後の追い込みをしなくちゃいけないから、次負けたらおしまいにしようかな!』


 そう実況者が言うと、コメント欄では泣いているスタンプが多く連投される。


『あはは、ごめんね。いい点数取るって、約束しちゃってさ! とは言っても、あと2回勝って7連勝を達成するから、負けることなんてないけどね!』


 動画だけでなく、生配信でもその実況者はパワフルな声量で配信を盛り上げていて、やはり配信は元気に身溢れていた。


 テスト勉強をしながら、こういった活動も両立できているなんて、やっぱりすごいよなあ。

 俺なんて、テスト勉強だけでもう息切れしているっていうのに。


「いや最近ね、尊敬できる人と友達が同時にできて、すごく嬉しくて。学校が楽しくて。だからテストも頑張る! そして次のゲームにも勝つ!」


 そう言った彼は、その後の試合で見事2連勝を達成し、目標の7連勝を成し遂げていた。

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