第36話:邪悪《じゃあく》

 生臭い匂いのする冷たく湿った空気を肌で感じながら、細く長い階段を一段ずつ降りてゆく。あたりに響くのは足音のみ。今、俺たちは『禁断の地』の深淵のさらに奥深くまで分け入ろうとしている。


 *


 どれくらい時間が経っただろうか。やがて視界は開け、広間のような場所にたどり着いた。床は正方形のタイルで覆われ、中央部には多角形に縁取られた人工池があり、正面の壁にはレリーフが彫られている。狼の頭の女神、つまり、我らが豊穣神だ。


「ここは古い時代の豊穣神の神殿だろうか。ということは、この池は儀礼に使っていたものか」


 エルがつぶやく。しかしその池は汚水ともタールとも知れない、どす黒い液体で満たされていた。『混沌の獣』なるものが存在しているとすれば、まさにこの池こそがその棲家にふさわしいだろう。


 俺たちは池の周囲を慎重に探った。水面は鏡のように平らであり、生き物がいる気配はない。もし『混沌の獣』が潜んでいて、俺たちの存在に気づいていないのであれば、攻撃をする絶好の機会のように思えたが、さすがにその判断は早急過ぎる。


「ライラ、どうした?」


 彼女はものも言わず、レリーフに向かって歩き出した。そして壁に刻まれた豊穣神の姿にそっと手を添えると、淡い光が像を包み込み、やがてその光はライラに乗り移った。


 *


「この子の声を借りて語りかけます。私の子供たちよ、よくぞ『始まりの神殿』までたどり着きましたね」


 ライラが、彼女のものとは思えない声で語り始めた。


「これは……まさか、豊穣神様の神託?!」


 エルが驚きの声を上げる。神狼の巫女の口を借りて、今まさに豊穣神が降臨している。伝説に伝えられた光景が目の前で繰り広げられているのだ。


「私はずっとあなた方を見守っていました。聖剣の勇者アラン、ライラに導かれし第二の勇者トム、そして共に旅を続けてこられた素晴らしい仲間たち。あなた方は呪いに囚われていた過去の勇者たちの魂を救ってくださいました」


「呪いって、やっぱりさっきの亡者たちは……」


 エレナがつぶやく。やはり彼女の予感は当たっていたのだろうか。


「幾多の勇者と巫女が『混沌の獣』の前に敗れ去りました。しかし、今から13代前の勇者は違います。この地にて、同行した邪悪なる者に裏切られて亡きものにされた後、その亡骸を下僕とされ死してなおはずかしめられました。さらに次代の勇者たちをも手にかけて自らの手勢とし、1000年以上も闇に潜みながら力を蓄えていたのです」


「つまり、次の12代の勇者と巫女は、その裏切り者の手で殺されたって?!」


 イザが、俺たちを代表するかのように怒りと驚きの声を上げる。


 なるほど、自らを生ける屍と化したその裏切り者は次の81年を闇の中で待ち、勇者と巫女が訪れるたびに手にかけていたというわけか。恐るべき冒涜ぼうとくである。この地下神殿へ至る道が隠されていたのも奴の仕業だろう。そして自らの欲望のために気が遠くなるほどの時間をかけていたにも関わらず、力を合わせた俺たちによってあっけなく滅ぼされてしまったというわけだ。


「悪しき裏切り者はあなた方が滅ぼしました。しかし、あの者が自らとの同一化を企んでいた『混沌の獣』は未だに健在です。それは今も私をむしばみ続けています」


「我々はその獣を滅ぼすためにここまで来たのです」


 ゴルド卿が力強く答える。


「ああ、なんと頼もしい言葉でしょう。私はあなた方のような勇敢なる強者を求めていました。『混沌の獣』の目覚めに合わせて、私に残された力をこの大地に振り絞っていたのですが、今ようやく実りの時を迎えたようですね」


 1000と1度の満月のたびにもたらされる滅びと恵み。それはまさに、『混沌の獣』と我らが豊穣神の対立そのものであったのだ。


「さあ、『獣』が目覚めます。私はそろそろ去らねばなりません。あなた方に大地の恵みと祝福を!」


 *


「……私、どうしちゃったの?」


 降りていた豊穣神が去り、ライラが我に返る。


「お前は巫女としての務めを果たした。つまり、俺たちを最後の最後で導いてくれたんだ」


 俺は彼女に答えてやる。


「さあ、来るよ!身構えな」


 イザの掛け声で全員が戦闘態勢をとる。人工池の中心部が少しずつ盛り上がり、何かが飛び出そうとしていた。『混沌の獣』の目覚めだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る