第23話 わたしとファーストキスと漆さん


 四ツ足さんにキスを迫ってしまった。勉強会をすると無理やり誤魔化したものの、自分の気持ちがもはや破裂寸前なのだと明確に理解した。英語のテキストを解いている中でも、偶然手と手が触れあっただけで胸が張り裂けそうになった。


 好きなのに。好きだと言えない。苦しくてたまらなくて、四ツ足さんのテキストが終わったのを見るや否や、トイレに逃げ込んで壁にもたれて大きくため息をついた。


 教室に戻って、どうしよう。土曜日か日曜日、遊ぶ約束でもしてみる? それくらいなら大丈夫かな……。

 

 決意して、トイレから出て教室の扉を開ける。窓から夕日が柔らかく差し込むそこで、四ツ足さんは机に突っ伏していた。なぜかそれは私の机だったけど。


 疲れててしんどいのかと心配して近づいてみると、彼女からすうすうと吐息が聞こえてきて安心する。どうやら寝てしまってるみたいだ。

 

「よ、よつあしさーん」


 なんとなく彼女の後頭部に呼び掛けてみるけど、目を覚ます気配はない。だけどそのとき寝返りを打つみたいに、四ツ足さんは顔をこっちに向けた。

 

 どきり、とする。寝顔を見るのは久しぶりで。まつ毛や薄く開いた無防備な口元が飛び込んできたから。あの漫画のキスシーンが脳裏をよぎっては消えていく。私は思わずそっと彼女の頬に手を添えてしまっていた。


 撫でてみると熱を帯びた、柔らかい肌触り。こっちも微笑んでしまうくらい幸せそうな寝顔。惹かれて、しょうがない。でも、これ以上は。


「ん……ちぐさ、ちゃん……」


 そのときだった。四ツ足さんが囁くみたいな寝言を発したのだ。いつもとは違う、下の名前で私をあまりにも小さく呼んだのだ。


 ぶつん、となにかが、途切れる。腫れ上がった心にはそれだけで、必死に抑え込んでいた想いが吐き出されるのには致命的で――。


 手を離す。彼女の前に立つ。私の胸の内が、ざりざりと砂嵐に削られて錆びれていく。やってしまったら、もう戻れない。体育のときにした告白未遂にはまだ未練があった。でも、今やろうとしてることは。保健室でおんなじ状況になったとき、そのせいですれ違うことになったっていうのに。


 だけど。だけど。理性はそう思うけど、一度堰を切ってしまえば想いはもう溢れるしかない。


「す、好きです……よつあしさん……」


 私の口からそんな言葉が勝手に漏れ出て、身体も動いていた。そっと彼女のくちびるに、自分のくちびるを寄せる。


 だけど。触れ合う瞬間。本当にキスをしようとする瞬間。不意に間近に迫った四ツ足さんの瞳が開いたのだった。


「え……うるし、さん……?」


「――――!?」


 また、やってしまった。驚きのあまり大きくのけぞりながら、私は自分の血の気がおぞましいまでに引いていくのを感じていた。


 *


「え、と……うるし、さん……」


「あ……う……」


 寝起きだから、頭の中が整理できない。だけど、つまり、そういうことだよね。わたしは席から立ち上がって、漆さんに1歩近づいた。漆さんは自分の身体を抱きかかえるようにしてがたがたと震えていたけど、わたしが来たのを見るやいなや弾かれたように背を向けて、駆け出そうとした。


「待って!」


 知ってる。わたしはあのとき逃げたから、漆さんとすれ違うことになった。だからもう、あんな風にはなりたくないんだ。わたしは反射的に走り出す漆さんの後ろ手を掴んでいた。


「わっ!?」


「きゃぁっ!」


 だけど体格差もあってかわたしは漆さんを止めることが出来ず、結局バランスを崩してふたりでもんどりうって教室の床に転がった。


 尻餅をついた漆さんの足の間に入って、覆いかぶさるように、わたし。漆さんの全部に手を数センチ動かせば触れられる距離。だから分かった。漆さんが本当に怯えていること、わたしの身体にも漆さんの身震いが伝わってくること。


「よ、よつあしさん……私……私……」


 漆さんは憔悴しきり、今にも泣きだしそうな顔と声でそう言う。わたしは漆さんのそんな顔は見たくない。だから、勇気を絞り出す。


「……ねぇ漆さん。勝手に机で寝ちゃっててごめん。だからさ、何があったのかちゃんと見てないんだけどね。もしかして漆さん、わたしのこと好きって言ってキスしようとしてた?」


「っ……!」


 下にある漆さんの身体が強張ったのがすぐにわかった。そしてうなだれて質問に首肯しながら、悲痛な色を纏った声を張り上げる。


「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私……ほんとに……最低なこと……!」


 ぽたぽたと雫が彼女のスカートに落ちて、シミになっていく。


「嫌だったよね……怖かったよね……寝てる間に、勝手になんて……!」


「ううん、そんなことない。それよりも、ごめん。さっきの質問いじわるなこと聞いちゃった。漆さんの気持ちがほんとだったのか確かめたかったんだ」


 わたしは真っ直ぐ言って頭を下げた。すると漆さんが身体の下で身じろぎする。信じられないと言いたげだった。


「そんな……四ツ足さんは優しいから、また気をつかってる……!」


「違うって、ほら――」


 わたしは臆病だから。女の子同士の恋愛についてどう思うか聞いたときみたいに、漆さんの言葉を待ってしまっていた。だけど、漆さんが好きだと言ってくれたこと、キスしようとしてくれたこと。全部夢じゃなかった。ほんとのことだった。


 ありがとう、そして無理させてごめん、漆さん。今度はわたしの番だ。漆さんに勇気を貰ったから、1歩踏み出せる。ようやく、前に進めるんだ。


 そっと、手を伸ばして彼女の頬に右手で触れた。漆さんが目を丸くして、更に身体を硬直させる。


 夕日に照らされる漆さん、涙で濡れた瞳も。髪もくちびるも。制服もカーディガンも、触れ合ってる身体も、全部『きれい』。


 どうしたって好きだ。愛してる。この気持ちを伝えるには――。もうこれしかない。


 わたしは目を固く閉じ顔を近づけて、漆さんのくちびるに、自分のくちびるをほんの一瞬だけくっつけて、すぐに離した。


 あったかくて柔らかい感触が広がる。これが、漆さんのくちびる。恥ずかしくてコンマ数秒しかできなかったけど。でも、本当のキス。とろけちゃうくらい甘ったるいファーストキス。


 たったこれだけなのに頭が爆発しそうでくらくらするけど、なんとか立て直す。だって、まだ。勇気を振り絞らなきゃいけないことは残ってるから。


「……わたしだって、漆さんとキスしたいって思ってるから!」


「よつあしさん……、それ……って……ほんと……?」


 漆さんはカーディガンの裾で口元を抑えて目をまん丸にした。いつの間にか流れていた涙は消えて、同じ言葉でも違う、別の涙が彼女の瞳を潤わせ始めていた。身体の震えも止まって、青ざめていた身体に血の気が戻っていくみたいだった。


「うん。それともうひとつ。わたしたちってまだ恋人じゃない、よね? えと、だから――」


 わたしたちにこれから何があったって。悲しいことが起こることがあったって。漆さんを大切にしたい。ずっと一緒にいたい。キスだって、もっとしたい。励ましたり守ったり、わたしにできることならなんでもしたい。だから言うんだ。このひとことを。


「……好き、です。わたし、四ツ足小実は、入学式……出会った日からずっと漆千草さんのことが大好きです。なので……付き合ってくださいっ……!」


 勇気はもう出し尽くした。でも、遂にした――告白。

 

 内容は陳腐。こんな形ですることになるとは思いもしなかったから、告白の言葉なんて考えつくわけもなくてありきたりな単語を羅列するしかなかった。


 でも、ここまで来たらそれでいいって思えた。考えるのは苦手だから。想いを伝えるのにわざわざ悩んでたら、またすれ違っちゃうから! 胸のありったけを漆さんにぶつけるくらいで、いいんだ!


「…………!」


 漆さんはそんなわたしの告白を受けて、しばらく信じられないとばかりに動きを止めていた。わたしは彼女の返事をただ待つしかできなくて、そんな沈黙が永遠みたいに続いて――、漆さんは口をわずかに開いた。


「…………はいっ」


 それは、なによりも待ち望んだ言葉。あっという間に世界が、漆さんだけになる。でもすぐにその姿がぼやけていって、わたしは自分が泣きかけていることに気が付いた。

 

「……私も、出会ったときから四ツ足さんのことが好きでした。だから……こんな私でよければ……よろしくお願いします……っ!」


 そうだったんだ。あのときから、ずっとわたしのこと……。うれしい。うれしい。うれしいっ――!


「うるしさんっ……! だいすきっ……!」


「ちょ、ちょっとっ……もう……よつあしさん……!」


 わたしは思わず、漆さんに抱き着いた。背中に手を回して、ぎゅうっって。大好きで、絶対に離したくない。そんな気持ちが涙と一緒に勝手に溢れかえってきて止まらない。


 漆さんは唇を尖らせたけど、でも満更じゃなさそうだった。だって漆さんも嬉し涙をぼろぼろと流していたから。わたしに応えるみたいに漆さんもわたしの背中に手を伸ばして抱きしめかえしてくれたから。


 どくどくどく、ふたつの心臓の音が、またひとつになる。本当に、ひとつになる。


「ねえ、漆さん。前も言ったけどさ、わたしたちって似た者同士だね……。好きになった日まで一緒だったなんて……」


「うん、たしかに。でもそれってすごく素敵なことだよね。私はうれしいって思っちゃうな。四ツ足さんと一緒で、うれしいって」


「それ、わたしも思ってた!」


 くすくすと笑いあう。そうしてる内に涙が自然に止まって、わたしは漆さんの目を見つめる。漆さんもわたしの目をじっと見つめていた。


「ね。キス、したいな……。四ツ足さん……」


「うん、わたしも」


 似た者同士なわたしたち。漆さんは頬を染めながら囁いてきて、わたしは頷く。抱きしめ合いながら、漆さんのぬくもりを感じながら。目の前の漆さんはそっと瞳を閉じた。


 その目も。顔もおでこも、ヘアピンでわけた黒髪も、透き通った声も匂いも。この手の中にある身体の細さも。全部が全部。夕日に照らされて、今まで1番『きれい』だと思えた。


 だから全部が全部、愛してる。しっかり者なところも。泣き虫なところも照れ屋さんなところも。スキンシップがちょっと多いことも。好きだ。


 だからわがままだけど。わたしのこともずっと好きでいてほしいな。そんなことを思いながら、わたしも目を閉じて、唇を重ねた。


 再び、柔らかい感触。漆さんの、味。一瞬だけのさっきキスとは違う、交わし続ける長い、キス。だからこれがわたしにとってのファーストキスなのかもしれない。


 そのとき、ふと。わたしの鼻を漆さんの匂い以外に何かがくすぐった。それは机の、木の香り。真横にある漆さんの机からのものみたいだった。ずっと運び続けていた、あの机の。


 思えば、ファーストキスの味はよくレモンって言われるけど、匂いについては聞いたことがない。


 だったら、誰かにこのことを聞かれたら恥ずかしいけどこう答えよう。


 わたしのファーストキスの匂いは『きれいな』好きな女の子と、好きな女の子が使ってる『きれいな』机の匂いがしましたって。だってこの机のおかげで、漆さんと恋人になれたみたいなものだし。


 恋にとろけちゃいそうになりながら、そのまま液体になって漆さんと本当にひとつになっちゃいそうな気分のままで。わたしはそんなことを思ったのだった。

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