第7話 この恋がながれてゆけばいいのに


 目を覚ますとわたしはベッドで寝ていた。ぼんやりした視界で周囲を探ると自分の部屋とは違う白いシーツに白い枕に白い布団。周囲を囲うベージュのカーテン。どうやらここは学校の保健室みたいだった。


「あっ四ツ足さん。よかった……」


「うるし、さん……?」


 わたしが起きた途端に飛び込んできた透明な声に耳を傾ける。それが誰かなんてすぐに分かる。漆さんがベッドの横に椅子を置いてこちらを心配そうにじっと見つめていた。


「大丈夫? 四ツ足さん、最近あんまり眠れてなかったんじゃない? 保険の久住先生も寝不足気味かもって言ってたよ」


「うん……実はね……。でももう平気。けっこー寝てたし」


 壁際に設置された時計の針は16時20分を指していた。わたしはお昼終わりから放課後までぶっ通しで寝てたみたい。その甲斐あってか漆さんに言った通り、寝不足って感じは消えた。


 だからわたしの身体をむしばんでいるのは目の前の女の子への恋心と、そんな女の子をえっちな目で見てしまう新しい感情と、それを抱いてしまった自分への嫌悪感。身体の不調としてはむしろ増えている気がした。


 でも、上半身を起こして漆さんに向き合う。直視はできないし、苦しくてたまらないけど謝るくらいはしないと。


「それよりごめん漆さん。迷惑かけちゃったよね。あんなとこでいきなり倒れるし、放課後にまた来てもらっちゃってるし……」


「それは全然いいの。でも、ほんと?」


「え、どういうこと」


 漆さんはかぶりを振ったあと、表情を若干強張らせてそう聞いてきた。わたしはその意味が分からずに逆に聞き返す。


「おせっかいだったらごめんなさい。でも四ツ足さん、寝不足以外にも理由があって倒れたんじゃないかって。1時間目のときからしんどそうだったから。もしかして、そういう日……?」


「ちっ、ちがうってば。ほんとに眠かっただけだよっ」


 漆さんの心配そうな伏し目がちの視線が布団越しにわたしの下半身付近を泳いでいて、わたしはぶんぶんと首を横に振って否定する。漆さんに無用な心配は絶対にさせたくなかった。


「なら、熱あるんじゃない。顔赤いよ……?」


 けれど漆さんはそれで引き下がらない。ずいと身を寄せ、右手を伸ばしてわたしの左頬に触れてきたのだ。白く細い指先がゆっくりと皮膚をなぞっていく。


「ちょっ……うるしさん……」


 近い。漆さんの水のような透き通った匂いも、ささやくような声も。体温と心拍数が上昇していくのを感じながら彼女の瞳を見た。真っ直ぐ純粋無垢にわたしの身を案じてくれているのがわかった。でも、わたしはそうじゃない。


 不純に、不埒に。またあれが湧いて出てくる。理性の糸が焼きついて切れかかる。だめ、だめだ。わたしは瞼の裏まで熱を持った視界と渦巻く心の中で吼えた。漆さんにこんな感情抱いちゃだめだ。もう、これ以上先に進めば取り返しがつかなくなるから――。


「だめっ……!」


 ぱしっ。


 だから、わたしは無意識に頬に添えられた漆さんの手を叩いていた。自分の右手で跳ねのけるみたいに。


「あ……」

 

 まるで時が止まったみたいに世界が数秒凍りつく。漆さんは一瞬とても驚いたような表情を浮かべたあと、さっと顔色を変えた。黒い瞳がわたしから逸れて後悔と悲壮と様々な感情が入り混じったような、初めて見る面持ち。


 やってしまった。わたしもさっきまで滾っていた血の気の全部が引いていくのを感じた。嫌だから叩いたわけじゃないのに。いくら口を開いても乾いた空気以外何も出てこなくて、ぞっとするほど冷え付いた頭を回転させても何も思い浮かばなくて。体感は永遠。多分実際には10秒くらい。


「やっほー小実ちゃん。大丈夫そう? カバンも持ってきたよ――」


 そのとき、ベッドを囲うカーテンが勢いよく開かれた。そしてわたしのカバンを持った吉井さんが朗らかに姿を現したのだ。それを皮切りに氷が解けた。わたしは弾かれたように動き出す。


「わ、わ、わたし……もう帰るね! ありがと吉井さん! あとは2人でゆっくりしてってよ!」


 数時間前教室でぶっ倒れた奴とは思えないほど素早く靴を履いて、ベッドから立ち上がる。ふらついたけど吉井さんからカバンを奪うみたいに受け取る。そして背を向けたままそう言って、全力で駆けだした。


「小実ちゃん!? あんたの見舞いにきてるのにゆっくりしてって――」


 後ろから吉井さんの声が聞こえてきたけど無視して保健室を飛び出す。その間、漆さんのことは1度も見なかった。見れなかった。ただ、漆さんは何も言わなかった。多分、わたしに叩かれた右手を抑えて俯いているようだった。


 胸がいたい。目がちかちかと光って何かが滲む。


 廊下には夕日が差していてやたらと眩しかった。違う、涙だ。わたしは泣いているんだ。それに気付いたとき、もうその流動は止まらなくて。でも吉井さんが追いかけてきてたら嫌だから止まるわけにもいかなくて、溢れるそれを拭うこともなくひたすら走った。


 今更、漆さんの机を運ぶ日課をできてないことを思い出したけどどうでもいい。もう、終わったんだから。


 涙に押し流されていけばよかった。初恋も、漆さんをそういう目で見てしまうこの劣情も。

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