第8話 何かが変わりそう

「はぁ……」


 灯織はベッドの上でスマホを見ながら、小さく溜息をつく。


「どうしてこうなっちゃったんだろう」


 彼は素直に気持ちを伝えてくれたのに、自分は斜に構えて、変な対応をしてしまって。


 冬弥に褒め言葉をかけるつもりが嫌味のようになってしまったことを、灯織は何よりも後悔していた。


「こんなはずじゃ……」


 灯織がそう呟くと、部屋をノックする音が聞こえた。立ち上がって扉を開けると、そこにはナギの姿があった。


「お姉ちゃん、どうしたの?」

「やっほ〜。灯織の顔が見たくてさ」


 ナギは灯織の部屋に入って、ベッドに座る。そして、真剣な顔で問う。


「さっき──冬弥くんとなんかあったでしょ」

「別に、そういうわけじゃないけど……」


 灯織は目を逸らして答えたが、ナギには見透かされているようだった。


 灯織は堪忍すると、ゆっくりと口を開いた。


「……なんか、自分でもよく分からないの。あいつをすごいなって思う自分と、心のどこかで拒絶している自分がいて」


 灯織は自分の胸の内をさらけ出す。今までもそうだった。誰にも言えないことも、お姉ちゃんになら──言える。


「きっと、冬弥はわたしとは違うんだって。びっくりするくらい愚直で、誰とでもすぐ仲良くできて……わたしとは正反対だから、なんだか怖くなるのかもしれない」


 ナギは黙って聞いていた。愛する妹の言葉だ──しっかりと耳を傾けなくて、どうする。


「本当はもっと彼のことをわかりたい。けど……怖い」

「そっか。さっき、部屋に戻るときの冬弥くんの顔がなんだか変だったから。何かあったんじゃないかと思っていたけど……やっぱり」


 ナギがそう言ったのに対して、灯織は顔を歪めた。それから、勢い良く立ち上がる。


「だったら、なんであいつに聞かなかったの! そんなことわたしに聞いたところで、どうにもならないってわかってるくせに──」


 灯織は涙目で、自暴自棄気味に訴える。その時、ナギは優しい顔で灯織に近づいた。


「何言ってんのさ」


 そんなこともわからないなんて。まだまだ私の妹は子どもだなぁ……なんて、思いながら。


「真っ先にここに来たのはなんでって? 私が、灯織のお姉ちゃんだからに決まってるでしょ」

「!」


 そう言って、ナギは灯織を真正面から抱きしめた。


「それ以外に何があんの」

「お、お姉ちゃん────」


 灯織は姉の腕に抱かれながら、小さく呟いた。ナギは妹の肩に手を置いてから口を開く。


「いい? 次に冬弥くんと顔を合わせたら、ちゃんと自分の言葉で気持ちを伝えなさい。……大丈夫。きっと、冬弥くんは受け止めてくれる。お姉ちゃんの言うことを信じなさい」


 しばらくの沈黙のあと、灯織は唇をぎゅっと噛んだ。


「できるかな。わたしが、自分の言葉で──」

「大丈夫だって。ありのままで喋ってみな。それが一番、心に届くよ」


 ナギが安心するような声でそう言ってくるものだから、灯織は勢いで「わかった」なんて返事をしてしまって。


「心配してくれて……ありがとう」

「お礼なんて要らないよー。私は灯織のお姉ちゃんなんだから!」


 ナギはそう言って微笑む。何かが変わりそうな気がする。灯織は少しだけ、口元を緩めた。


 ☆


「…………どうしよう」


 しかし、灯織は夜ご飯を食べ終えてもなお、冬弥に気持ちを伝えられずにいた。結局、食卓では当たり障りのない会話しかすることが出来ず。気づけば遅い時間になってしまった。


「『部屋に入らないで』って言っちゃったし……あいつはそれを、律儀に守ってるんだよね」


 灯織は頭を抱えた。実はこの美少女、初日に『部屋への進入禁止』を冬弥に突きつけていたのだ。あの時、悪態をついたことが今になって自分に返ってくるとは──因果応報とはよく言ったものだ。


「……一旦落ち着こう」


 そう呟いてから、灯織は立ち上がった。


 気分晴らしにリビングに置いてあった参考書でも解いてみるか……。勉強は心を鎮めるとよく言うし。


 そう思い、灯織は部屋を出る。


「…………」


 参考書を取りに行く途中、冬弥の部屋の扉が見える。このまま部屋に入ってしまおうとも思ったが、やはりなかなか気が進まなくて。


 結局、灯織はそのままリビングに直行した。


「よいしょ」


 平積みになった本を持ち上げる。しかし、なかなか重い。しかも大きさと厚さが揃ってないから、かなり不安定────


「きゃっ!」


 すると、灯織はバランスを崩して盛大に転んだ。


 持っていた本が辺り一面に散乱してしまう。その中には参考書だけでなく、漫画本も混じっていた。


「うぅ……いたた……」


 灯織は急いで立ち上がろうとすると、手に痛みを感じた。どうやら転んだ拍子に手を強く打ってしまったらしい。


 こんなところを誰かに見られるのは恥ずかしい。早く片付けないと──そう思い、灯織は無理やり立ち上がった。


「ど、どうした──って!」


 すると勢いよくリビングの扉が開いた。その先には、血相を変えた男がいた。


 冬弥だ。


「灯織、大丈夫か! 怪我は!?」


 冬弥は右手を抑える灯織の元に駆け寄り、心配そうに声をかける。


「だ、大丈夫。ちょっと打っただけ──」


 灯織はすぐさま立ち上がると、リビングに散らばる本を拾い始めた。


「……!」


 そして、ある重大な事実に気づく。


 なんと参考書の中に、隠れて読んでいる少女漫画が紛れ込んでいたのだ。──ヤバい。この年で少女漫画の熱烈なファンだってバレたらどうしよう。


「いや、灯織はそこに座っててくれ。俺が拾う」


 しかもこんな時でも冬弥は相変わらずで、自分が手を伸ばすよりも先にその漫画を拾い上げてしまった。


「えっと……これは……」

「み、見ちゃダメ!」


 灯織は慌てて、彼の手から漫画を取り上げる。


「…………見た?」


 漫画を抱きかかえながら、灯織は冬弥を見つめた。髪はボサボサで、緑色の目には涙が浮かんでいる。


 死ぬほど恥ずかしい。隠していた少女漫画も、盛大に転んでいる姿も全て見られた。


 いっそ死にたい。どうしてこんなことに──


「なんで恥ずかしがるんだ? ただの少女漫画だろ」

「!」


 縮こまる灯織に対して、冬弥はにべもなくそう言い放った。その言葉は、怯えていた彼女にとっては思いもよらないものだった。


「でも、この年で少女漫画って……」

「別に関係ないだろ。いつ、何を好きになるのも自由だ。しかもそれなら、俺も二年前くらいに読んだしな」

「ほ、ほんと!?」


 灯織は食いついた。冬弥は「あぁ」と頷く。


「少女漫画独特の雰囲気ってあるだろ。あれがよかったな」

「う、うん! わかる!」


 灯織は珍しく嬉しそうに頷いた。それを見て、冬弥は呆れながら笑う。


「少年漫画は少年だけのものじゃないだろ? それと同じだよ。いつ、何を好きに鉈って問題ない。人に迷惑さえかけなきゃな。それに、『何かを好きになる』って素晴らしいことだろ」


 冬弥はしれっと灯織から少女漫画を奪い取り、パラパラとページをめくっていた。灯織はただ、呆然とそれを見つめていた。


「俺は好きなものとかあんまり無いからさ。だからむしろ羨ましいぜ」


 その言葉で、灯織は思い出した。彼は札幌ここに来る前は生活費を稼ぐために、趣味を持つ暇もなくバイトに勤しんでいたということに。


「……ふふっ」


 灯織は肩を震わせて、笑い出した。やがてツボに入ったのか、可愛い笑い声を漏らす。


「ははっ、あはは……!」


 愛想笑いすら浮かべないような女の子が、口を開けて笑っている。時折、八重歯が見えたりなんかして。


「─────!」


 冬弥は心に雷が落ちるような、そんな強い衝撃を受けた。見たこともないほどの可愛さに心が揺さぶられていて。


 今まで笑わせようと躍起になっていたのが嘘みたいに、今、彼女は笑っている。理由も分からない。


「あー、今まで何でこんなこと気にして……あのさ、冬弥」


 灯織は彼にきちんと目を合わせると、ゆっくりと口を開いた。


「冬弥のお仕事が終わった時に、わたしが声掛けたでしょ。あの時、上手く伝えられなかったな、って思ってたの。ほんとは労いの言葉をかけたかったのに、なんだか嫌味みたいになっちゃってさ。それがずっと心に引っかかてて……本当に、ごめん」

「あ、あぁ──いや。全然気にしてないぞ」


 灯織が頭を下げたのに対して、冬弥は困惑したように笑みを浮かべる。


「あの時、灯織にやっと認めて貰えたっていうか……俺がここに来てからしばらく、肩身が狭そうな感じに見えたからさ。だから、嬉しかったよ」

「そんなつもりは──たしかに、最初はすごく嫌だったけど」


 だよな、と言って冬弥は苦笑する。


「この前も、『部屋に入らないで。入ったら殺す』って真顔で言ってきたしな。……言われなくても入んないっての」


 冬弥が冗談めかしてそう言ったのに対して、灯織はぱちくりとまばたきした。


「あーごめん、それ無しで」

「え!?」


 ルンルンと鼻歌を歌って、廊下を歩き始める灯織。彼女は部屋の前で振り返ると、口を開いた。


「だって、冬弥が『何かを好きになること』を認めてくれる人って、気づけた」


 バタン。灯織は参考書を抱えると、ご機嫌そうにその場を去った。冬弥はひとり、リビングに取り残される。


「まったく。何なんだよ……」


 そう言って、冬弥は苦笑する。


 彼女は美人かと思えば無表情よろしく人見知り女子で、無愛想かと思えば極上の笑顔で笑いかけてくれて。これじゃ心臓がいくつあっても足りないな。


 しかし、たしかに灯織は笑った──目の前で、笑ったのだ。今までの微妙な距離感が改善するような、文字通り何かが変わりそうな夜だと、そう思わずにはいられない。


「って…………」


 冬弥は我に返ると、自らの手元に少女漫画が残されていることに気がついた。

 せっかく和んだタイミングだし、部屋に戻るついでに返しに行くか。


『コンコン』

「……ん!?」


 ドアを開けると、そこには驚いた顔でベッドに佇む灯織の姿があった。何故か顔を赤らめて、大きなクマのぬいぐるみを抱き締めている。


「どうしたの、いきなり……」

「あ、いや。さっきの漫画を返そうと思って」


 冬弥はそう言うと、パラパラとページをめくる。灯織はそれを不思議そうに見つめていた。


「ほら、これを見てくれ!」

「?」


 あまりに冬弥が元気にそう言うものだから、灯織は素直にそれを覗き込んだ。


 しかし……そのページは、名場面でも何でもなかった。


「このヒロイン、巨乳すぎないか!? マジで最高すぎる! 灯織もそう思わないか、なぁ!!」

「……………………」


 それは期待していたようなものではなく、完全なる下ネタで。


 気づけば灯織は冬弥の頬を勢いよく殴打し、部屋から追い出していた。それからしばらく灯織は彼に口を利かなかったとか──。

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