母というパワーワード

不妊治療を続けているとつい考えてしまう。

「母」という存在について。


私は「母」という存在に憧れを持っているが

それと同時に怖さもある。

一人の人間を育てていくという命の重さを感じる。


ドラマや映画で見る母親は賢母で物分かりが良さそうな印象が強い。

だからだろうか?

世の中全体が「母親」に対する期待値が高い。

母親は母性のかたまりだの母は強しだの。

そうなのだろうか?

もちろんそういった人もいるだろうけど

全員じゃない、一部なのだと思う。

ひとりひとり必死に母親という役をこなしている。


そして悲しいことだが、

ニュースで乳児を遺棄したり、虐待事件を見て思う。

体質と運とタイミング次第で望んでなかった母親になるということを。

残酷なまでにまざまざと見せつけられる。


子どもがほしくて母親になった人

子どもが出来たから母親になった人

子どもの成長とともに母親になっていった人

子どもが居ても女のままでいたい人


違う価値観の人たちが母親という役で同じ世界線となり、

世の中は賢母であるということを前提にして回っていく。

「お母さんなのに」

「お母さんだから」

このような言葉でがんじがらめにしていく。

まるで「母親」という存在がひとり歩きしてるような気がする。

これは私の思い過ぎなのだろうか?


母親という色眼鏡で見るんじゃなくて

個人の背景や思いを汲み取れるような

そんな優しい社会になってほしいと思うし

私も少なからず意識してきたいと思う。















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