第10話 赤月霧夜 (参)
「まあ、よいではないか。さあ、こっちへ来て、佐次郎殿ももっと飲まれよ。今宵の酒は美味いぞ」と言って永井の旦那が佐次郎に自分の杯を差し出しながら手招きした。腰をあげた佐次郎は受け取った空の盃を差し出しながら中腰のまま永井に近づいていく。俺は舞いながら、岩に立て掛けてある永井の太刀に近づく。それに気付いた永井の旦那が大声で「おいっ」と言って俺を睨み、佐次郎の盃に注いでいた酒瓶の角度を戻した。だが、その時には、もう遅かった。佐次郎が反対の手に握っていた短刀が永井の旦那の胸に突き刺さっていたからだ。
落とした酒瓶が割れる音がすると同時に、こぼれた酒で消された焚火から白煙が上がった。
目を見開いて歯を食いしばった顔を胸元の佐次郎に向けた永井の旦那の背後には、斧を振り上げた弥助が立っていた。俺は急いで旦那の刀を奪うと、鞘から刃を抜いた。旦那が佐次郎に掴みかかるよりも早く弥助が旦那に斧を振り下ろす。
頭頂部に斧を突き立てたまま、旦那は眼球を上に反転させて痙攣していた。それでも、座った姿勢のまま倒れない。剣を極めた侍の体は死の淵にあっても眠ることはなかった。見事だと思った。
俺は旦那の刀を使って旦那の首をはねた。斧を突き立てたままの永井十左衛門の首が宙に舞う。夜空に浮かぶ満月を赤い霧が覆い隠した。
永井の旦那の骸を囲んで立ったまま、血まみれの俺たちは暫く茫然としていた。
隙を突かれたとはいえ、名を馳せた剣豪のあまりにもあっけない最後だった。俺たちも一か八かの勝負だったが……。
なんとか上手くいった。安堵の息を何度も漏らしながら、俺たちは近くの滝の水で体に付いた返り血を洗い流した。滝から戻り、震える手で顔を拭いながら弥助が言う。
「で。これからどうするんだ」
弥助の手が震えているのは滝の水の冷たさのせいではない事は分かっていた。俺は手拭いで顔を拭きながら答えた。
「まずは金を取りに行こう。そして夜が明ける前までに出発だ」
「旦那の遺体はどうするんだよ。埋めてくか」
膝を立てたまま横たわっている首なしの骸を顎で指して、佐次郎がそう尋ねた。
俺は首を横に振った。
「すておけ。そんな時間はなかろう」
「あの斧はどうするんだよ。頭に刺さったままだぞ。弥助あにい、抜かなくていいのか?」
「要らねえよ」
そう短く答えたふんどし姿の弥助は、俺の横を通って脱いだ着物を取りにいった。
もう着物を羽織っている佐次郎が腰紐を結びながら言った。
「なあ、
「駄目だ。今夜中に出発すると言っただろう」
転がったままの十左衛門の頭部を飛び越えて、佐次郎がこっちにやってきた。
「ちょっとだけだよ。金を隠した大楠の所からなら、峠より町の方が近いじゃんかよ。すぐに戻ってくるからよ。な、いいだろ」
俺は視線を弥助に向けた。弥助はこちらに背を向けて着物の袖に腕を通していた。
そうか……。
俺は佐次郎に顔を向け、その目を睨みながら言った。
「てめえ、女ごときで折角うまくいった仕事を台無しにするつもりか。女は関所を抜けてからだ。逃げきったら好きなだけ抱かせてやる」
「そりゃねえよ、藤あにい。俺はいつも仕事を終えたら女を抱くって決めてんだぜ。せっかく楽しみにしてぶぁ!」
この顔だ。自分の胸から突如として飛び出した剣先に驚き、痛みよりも先に一瞬で恐怖のどん底に落とされたかのような顔……。
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