第6話 ポリポリ

 町役場の職員としては、食べてくれと言われても非常に困る。


 訪問先で飲食物の提供を受ければ、それが賄賂と捉えられないとも限らない。もちろん、儀礼の範囲なら法には触れないと判例は謳っているが、市民からの疑いの目は避けられないので、一切食べるな飲むな手を出すなというのが上司からのお達しだ。


 今、私の眼の前の老婆は私に菓子器を差し出し、「食べなさい」と言っている。


 いや、食べる訳にはいかない。私には家族がいる。今の仕事を失う訳にはいかないのだ。


「なんでえ、食わんのけえ。せっかく作ってみたのにのお」


 老婆は悲しげな表情で菓子器を引いた。


「いえ、あの、その、仕事中でして、訪問宅では一切の物を口にするなと上が厳しく言うものですから……」


「茶は飲んだずら」


「飲みました。まあ、礼儀ですので」


「はあ?」


 老婆は急に片眉を上げた顔を突き出してきた。


「礼儀だから飲んだずらか! 礼儀だから飲んだずらか!」


「いえ! 美味しそうだったからです。喉も乾いていましたので、美味しくいただかせてもらいました」


「そうじゃろう、そうじゃろう」


 老婆は振り上げたなたを下ろしてくれた。

 私はハンカチで額の汗を拭った。


 老婆は言う。


「昨日来た役場の人は頑として飲まんと言い張りよったんよ。たかが茶一杯を。頭にきてのう」


 私は膝の上のスラックスの生地をぎゅっと掴んだ。


「頭かち割ってやったわい」


 やっぱり……。


 老婆は引き寄せた菓子器の中に手を入れると、中の物を一摘まみだけ口に入れる。


 ポリポリポリポリ……。


 私は首筋の汗をハンカチで拭き取ると、テーブルの上の湯呑に視線を落とした。思わず生唾を飲む。


 スラックスの上の手を浮かせた瞬間、老婆の枯れた声が静かに響いた。


「のお、あんた。訊いてもええかの」


「は? あ、はい。何でしょう」


「あんたら役場の人が三分以内にやらんといかん事って、何ずら」


「……」


「あんたら役場の人が三分以内にやらんといかん事って、何ずら!」


「さ、さあ……。な、何でしょうね……」


「ああ?」


 老婆は屶を振り上げた。


 私は咄嗟に応えた。


「電話! 電話の交代です! 住民からのお問い合わせなどの電話の際に相手を長く待たせないことでは……」


 老婆は屶を下ろした。再び菓子器の中の物を摘まんで口に放り入れる。


 ポリポリポリポリ……。


「そういう事かいな。いつもえらく長く待たされとるがのお」


「そ、それは申し訳ございません。今後は気を付けます」


 老婆は強く顔をしかめた。


「うーん。昨日の男が何度もそううめいておったわい。あと、があるから帰してくれとか」


「まあ、年度末や入学シーズンで人が異動する時期ですので、物件もたくさん空きますからね。引っ越しでも考えていたのでは……」


 ドンと音が鳴り、テーブルの上の湯呑が跳ね上がる。私は思わずそれを両手で挟んで受け止めた。


 テーブルの上に屶を突き立てた老婆は言う。


「どーでもいいわい! この忙しい時期にくだらない事ばかり並べて! おかげで、ワシはその事について一晩中考えていたずら! どうしてくれるずら!」


 私は湯呑を震わせながら答えた。


「すみませんでした。住民の皆様が最もお忙しい時期だという事は承知しておきながら、不用意な発言をした事をお詫びいたします! 貴重なお時間をお取りして、本当に申し訳ございませんでした!」


 私は湯呑を両手で握ったまま深く頭を下げた。


 彼にしてみれば、意識朦朧もうろうとする中で意味不明の譫言うわごとを漏らしただけなのだろう。きっと苦痛の中で半狂乱となったに違いない。だって、こんな形にされてしまっているのだから。かわいそうに。


 ポリポリポリ……。


 老婆の咀嚼音にハッとして、私は顔を上げた。


 屶はテーブルから抜かれている。テーブルの上の深い刺し傷から老婆に視線を移すと、彼女は口の中に入れた物をしっかりと味わうように噛みしめながら私を睨んでいた。


 背中に冷たい汗がどっと流れる。


 私は視線を外し、湯呑を口に近付けた。


 老婆が言う。


「飲むずらか」


 湯呑の縁が唇に触れる直前で、私は手を止めた。


「あ、いえ。いけませんね。私は公務の最中でした。いただくのは、ご挨拶の一口だけとさせていただきます」


 私は茶托の上に湯呑を戻した。


 老婆はニヤリとして言った。


「飲みたければ、飲めばいいずら。どうせ一口飲んだずら。二口も三口も変わりはねえずら」


 私はその湯呑をじっと見つめた。無性に喉が渇く。口の中に湧きだした大量の唾液を思わず強く飲み込んだ。


 老婆は菓子器の中に突っ込んだ手をぐるぐると回しながら言った。


「もう食べ終わったずら。食えばよかったのに、馬鹿な男ずら。今度の芋けんぴは上手く出来たから美味かったずら」


 ずらずらずらずら、うるさい!


 私は湯呑を持ち上げると、口の前で傾け、いっきに飲み干した。


 老女はこちらを見てニヤリと笑う。


「美味いか」


「はい。とても」


 私は口の周りをヌルリと拭った。そして、口の端から垂れていた毛髪をズルっと啜る。


 生暖かく濃い赤のお茶だった。



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