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 人見広介がT市の菰田邸に帰らなくなったのは、その日からでした。彼はまったくパノラマ国の住人として──この物狂わしき王国の君主として、沖の島に永住することになりました。

「千代子はこのパノラマ国の女王様だ。人間界へは決して二度と姿を見せないだろう。お前はこの島にある群像の国を見ただろうか。時として千代子は、あの目まぐるしく林立した裸体像の一人になりすましていることもあるのだよ。そうでない時には海の底の人魚か、毒蛇の国の蛇使いか、花ぞのに咲き乱れた花の精か、そして、そのような遊びにもあきはてると、この壮麗な宮殿の奥深く、錦のとばりに包まれた、栄耀栄華の女王様だ。この楽園の生活を、どうして彼女が好まないことがあろう。彼女はちょうど昔話の浦島太郎のように、時を忘れ、家を忘れて、この国の美しさに陶酔しているのだ。お前方はちっとも心配なぞすることはないのだよ。お前のいとしい主人は、今幸福の絶頂にあるのだから」

 千代子の年とった乳母が、主人の安否を気づかって、わざわざ沖の島へ彼女をお迎えにやってきたとき、広介は、島の地下を穿うがって建築した壮麗な宮殿の玉座にすわって、まるで一国の帝王がその臣下を引見するような、おごそかな儀礼をもって、この昔者の老母を驚かせました。老母は広介の美しい言葉に安堵したのか、それとも、その場の光景のものものしさにうたれたのか、返す言葉もなく引き下がるほかはなかったのです。

 すべてがこの調子でありました。千代子の父には重ね重ねの莫大な引出物、そのほかの親類縁者にはあるものには経済上の圧迫、あるものにはその反対に惜しげもない贈り物。それから官辺へのつけ届けなども、角田老人の手によって、抜かりなく実行されていたのです。

 一方、島の人々は、千代子女王の姿を垣間見ることさえ許されませんでした。

 彼女は昼も夜も、地下の宮殿の奥深く、広介の居間の裏側の重いとばりの蔭にかくれ、なにびとたりとも、その部屋にはいることを禁ぜられていたのです。でも、主人の異常な嗜好を知っている人々は、定めしそのとばりの奥には、王様と女王様だけの、歓楽と夢の世界が秘められているのであろうと、ニヤニヤ笑いながら噂し合うくらいで、誰一人疑いをいだくものとてもありません。一体島の人たちは、数人の男女をのぞいては、千代子の顔をはっきり見知っている者もなく、ふと行きずりに女王様のお姿を見たところで、それがはたしてほんとうの千代子かどうか見分ける力もないのでした。

 かようにして、ほとんど不可能な事柄がなしとげられたのです。

 広介は菰田家の限りなき財力によって、あらゆる困難に打ち勝ち、すべての破綻を取りつくろうことができました。今まで貧乏だった親類縁者がたちまちにしてにわかげんとなり、みじめだった曲馬団の踊子、映画女優、女歌舞伎たちは、この島では日本一の名優のように厚遇され、若い文士、画家、彫刻家、建築師たちは、小さな会社の重役ほどの手当を受けているのです。たとえそこが恐ろしい罪の国であったとしても、その人たちにどうしてパノラマ島を見捨てる勇気がありましょう。

 そして、ついに地上の楽園はきたのでした。

 たぐいを絶したカーニヴァルの狂気が、全島を覆いはじめました。花ぞのに咲く裸女の花、湯の池に乱れる人魚の群、消えぬ花火、息づく群像、踊り狂う鋼鉄製の黒怪物、酩酊せぬ笑い上戸の猛獣ども、毒蛇の蛇踊り、そのあいだをねり歩く美女の蓮台、そして、蓮台の上には、錦の衣に包まれたこの国の王様、人見広介の物狂わしき笑い顔があるのです。

 蓮台は時として、島の中央に完成したコンクリートの大円柱の、それには一面に青いつたがはい、そのあいだをこれはまた鉄の蔦のような螺旋階が、ネジネジと頂上まで続いているのですが、その螺旋階をよじ昇ることもありました。

 そこの頂上の奇怪なきのこがたの傘の上からは、島全体を、はるかなる波打ちぎわまでひと目に見渡すことができたのですが、その眺望の不可思議を何にたとえたらよいのでしょう。下界でのあらゆる風景は、螺旋階を昇るとともに消え去って、花ぞのも、池も、人も、ただ見るいくちようじようの大岩壁と変り、頂上からは、それらの紅がら色の岩壁がちょうど一輪の花のおのおのの花弁の形で、はるかの波打ちぎわまで重なり合って見えるのです。

 パノラマ国の旅びとは、さまざまの奇怪な景色のあとで、この思いももうけぬ眺望に、又しても一驚を吃しなければなりません。それはたとえば、島全体が、大海にただよう一輪の薔薇でもありましょうか、巨大なる阿片の夢の真紅の花が空なるおてんとう様と、たった二人で、対等の交際をしているのです。そのたぐいなき単調と巨大とが、どのように不思議な美しさをかもし出していたか。ある旅びとは、ともすれば、彼の遠い遠い祖先が見たであろうところの、かの神話の世界を思い出したかもしれないのですが……

 それらのすばらしい舞台での日夜をわかたぬ狂気と淫蕩、乱舞と陶酔の歓楽境、生死の遊戯の数々を、作者はいかに語ればよいのでありましょうか。それはおそらく、読者諸君のあらゆる悪夢のうち、もっとも荒唐無稽で、もっとも血みどろで、そしてもっとも瑰麗なるものに、いくぶん似通っているでありましょう。

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