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 そこにはどのような不思議な仕掛けがしてあったのか、それとも又、ただ千代子の幻覚にすぎなかったのか、一つの景色から、わずかばかりの暗闇を通って、今一つの景色へと現われるのが、何かこう夢のようで、一つの夢からまた別の夢へと移るときの、あの曖昧な、風に乗っているような、そのあいだまったく意識を失っているような、一種異様な心持なのでした。

 したがって、その一つ一つの景色は、まったく平面をことにした、たとえば三次の世界から四次の世界へと飛躍でもした感じで、ハッと思う間に、今まで見ていた同一地上が、形から色彩から匂いに至るまで、まるで違ったものに変っているのでした。

 それはほんとうに夢の感じか、そうでなければ、映画の二重焼き付けの感じです。

 そして、いま二人の目の前に現われた世界は、広介はそれを花ぞのと称していたのですけれど、一般に花ぞのという文字から連想される何物でもなくて、乳色に澱んだ空と、その下に不思議な大波のように起伏する丘陵の肌が、一面に春の百花によってただれているにすぎないのです。しかし、それのあまりの大規模と、空の色から、丘陵の曲線と、百花の乱雑にいたるまで、ことごとく自然を無視した、名状のできない人工のために、その世界に足を踏み入れたものは、しばらく茫然として佇むほかはないのでした。

 一見単調に見えるこの景色のうちには、何かしら、人間界を離れて、たとえば、悪魔の世界にはいったような異様な感じを含んでいました。

「お前、どうかしたのか。目まいがするのか」

 広介は驚いて、倒れかかる千代子を支えました。

「ええ、なんですか、頭が痛くって……」

 むせるような香気が、たとえば汗ばんだ人間の肉体から発散する異臭に似て、しかし決して不快ではないところの香気が、先ず彼女の頭の芯をしびれさせたのです。

 それに、不思議な花の山々の、無数の曲線の交錯が、まるで小舟の上から渦巻きかえす荒波を見るように、恐ろしい勢いで彼女を目がけておし寄せるかと疑われたのです。決して動きはしないのです。でもその動かぬ丘陵のかさなりには、考案者の無気味な奸計が隠されていたとしか考えられません。

「私、なんだか恐ろしいのです」

 ようやく立ち直った千代子は、目をふさぐようにして、わずかに口を利きました。

「何がそんなに恐ろしいのだ」

 広介は唇の隅に、ほのかな笑いを震わせて聞き返しました。

「なんだかわかりませんわ。こんなに花に包まれていて、私は無上に淋しい気がいたします。来てはならないところへきたような、見てはならないものを見ているような気持なのですわ」

「それはきっと、この景色があまりに美しいからだよ」広介はさりげなく答えました。「それよりもごらん。あすこへ、私たちの迎えのものがやってきたのを」

 とある花の山蔭から、まるでお祭の行列のように、しずしずとひと組の女たちが現われました。多分からだ全体を化粧しているのでしょう。青みがかった白さに、肉体の凹凸に応じて、紫色の隈をおいた、それゆえ一層陰影の濃く見える裸体が、背景の真赤な花の屛風の前に、次々と浮き出してくるのです。

 彼女らは、テラテラと脂ぎった、たくましい足を、踊るように動かし、黒髪を肩に波うたせ、真赤な唇を半月形にひらいて、二人の前に近寄り、無言のまま、不思議な円陣を作るのでした。

「千代子、これが私たちの乗物なのだ」

 広介は千代子の手をとって、数人の裸女によって作られた蓮台の上におし上げ、自分もそのあとから、千代子とならんで、肉の腰掛けに座をしめました。

 人肉の花びらは、ひらいたまま、その中央に広介と千代子とを包んで、花の山々をめぐりはじめるのです。

 千代子は、目の前の世界の不思議さと、裸女たちの余りの無感動に幻惑して、いつしかこの世の羞恥を忘れてしまった形でした。彼女は膝の下に起伏する、肥え太った腹部のやわらかみを、むしろ快くさえ感じていました。

 丘陵と丘陵とのあいだの、谷とも見るべき部分に、細い道はいく曲りしながら続きました。その裸女たちの素足が踏みしだくところにも、丘と同じように百花が乱れ咲いているのです。肉体のやわらかなバネ仕掛けの上に、深々としたこの花のジュウタンは、彼らの乗物を、一層滑らかに心地よくしました。

 しかし、この世界の美は、たえず彼らの鼻をうっている不思議な薫りよりも、乳色に澱んでいる異様な空の色よりも、いつからはじまったともなく、春の微風のように、彼らの耳を楽しませている、奇妙な音楽よりも、あるいはまた、千紫万紅、色とりどりの花の壁よりも、その花に包まれた山々の語りえぬ不思議な曲線にありました。

 人はこの世界において、はじめて曲線の現わしうる美を悟ったでありましょう。自然の山岳と、草木と、平野と、人体の曲線になれた人間の目は、ここにそれらとはまるで違った曲線の交錯を見るのです。どのような美女の腰部の曲線も、あるいはどのような彫刻家の創作も、この世界の曲線美にはくらべることができません。それは自然をえがき出した造物主ではなくて、それを打ちほろぼそうとたくらむ悪魔だけが描きうる曲線であったかもしれません。

 ある人はそれらの曲線のかさなりから、異常なる性的圧迫を感ずるでありましょう。しかし、それは決して現実的な感情を伴なうものではないのです。われわれは悪夢のうちでのみ、往々にしてこの種の曲線に恋することがあります。

 広介は、その夢の世界を、現実の土と花をもって、えがき出そうと試みたものにちがいありません。それは崇高というよりも、むしろわいで、調和的というよりも、むしろ乱雑で、その一つ一つの曲線と、そこに膿み爛れた百花の配置は、快感よりは一層限りなき不快を与えさえします。それでいて、その曲線たちに加えられた不可思議なる人工的交錯は、醜を絶して、不協和音ばかりの、異様に美しい大管絃楽を奏しているのでありました。

 また、この風景作家の異常なる注意は、裸女の蓮台が通りすぎるところの、谿間の細道が作る曲線にまでも行届いていたのです。そこには曲線そのものの美ではなく、曲線にそって運動するものの感ずる、いわば肉体的快感が計画されていました。

 或いは緩やかに、あるいは急角度に、あるいはのぼり、あるいはくだり、道は上下左右にさまざまの美しい曲線をえがきました。それはたとえば、空中において飛行家が味わうような、また我々がつづら折りの峠道を走る自動車の中で感ずるような、曲線運動の快感の、もっと緩やかにかつ美化されたものといえばいいでしょうか。

 ときどき登り坂はありながら、道は少しずつ或る中心点に向かってくだって行くように見えました。そして、異様なる香気と、地の底からのように響く音楽とは、層一層その度を高め、ついには、彼らの鼻をも耳をも、その美しさに無感覚にしてしまうほども、たえ間なく続くのでした。

 時とすると、谿間は広々とした花ぞのとひらけ、その彼方に空への懸け橋のように花の山がそびえ、その茫漠たる斜面に吉野山の花の雲を数倍した、幻怪なる光景を展開しました。そして、一層驚くべきは、その斜面と広野との、虹のような花を分けて、点々と、幾十人の全裸の男女の群が、遠くのものは豆のように小さく、嬉々としてアダムとイヴの鬼ごっこをやっていることでした。

 山を駈けおり、野を横ぎって、黒髪を風になびかせた一人の女が、彼らから一間ばかりのところへきて、バッタリ倒れました。すると、彼女を追ってきた一人のアダムは、彼女をだき起こして、彼の広い胸の前に、一文字にかかえると、いだくものも、いだかれたものも、この世界に充満する音楽に合わせて、高らかに歌いながら、しずしずと彼方へ立ち去るのでした。

 又ある箇所には、細い谷間の道を覆って、アーチのように、しろなまずのユーカリ樹の巨木が腕をのべ、その枝もたわわに裸女の果実がみのっていました。

 彼女らは、太い枝の上に身を横たえ、あるいは両手でぶらさがって、風にそよぐ木の葉のように、首や手足をゆすりながら、やっぱりこの世界の音楽を合唱しているのです。裸女の蓮台は、その果実の下を、ふしぎな無関心をもって、静かに練って行くのです。

 延長にして一里はたっぷりあったと思われる、道々の花の景色、そのあいだに、千代子の味わった不思議な感情、作者はそれをただ、夢とのみ、あるいはかいれいなる悪夢とのみ、形容するのほかはありません。

 そして、ついに彼らが運ばれたのは、巨大なる花のすりばちの底でありました。

 そこの景色の不思議さは、摺鉢の縁にあたる、四周の山の頂から、滑らかな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子のように数珠繫ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てていることでした。そして彼女らは摺鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね廻りながら、あののどかな歌を合唱するのです。

 いつ着物を脱がされたのか、ほとんど夢中のあいだに、千代子らも華やかな浴客たちにまじって、快い湯の中につかっていました。不自然な衣服を着けていることが、むしろはずかしくなるこの世界では、千代子も彼女自身の裸体をほとんど気にしないでいられたのです。そして、彼らを乗せた裸女たちは、ここでこそ文字通り蓮台の役目をつとめ、長々と寝そべって、首から下を湯につけた二人の主人を、彼女たちの肉体によって支えなければなりませんでした。

 それから、名状のできぬ一大混乱がはじまったのです。

 肉塊の滝つ瀬は、ますますその数を増し、道々の花は踏みにじられ、蹴散らされて、満目の花吹雪となり、その花びらと、湯気と、しぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とをすり合わせて、桶の中の芋のように混乱して、息もたえだえに合唱を続け、人津波は、あるいは右へ、あるいは左へと、打寄せ揉み返す、そのまっただ中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸のように漂っているのでした。

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