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 しかしながら、あらゆる難関を切り抜けて、すべての人々をかんもくせしめたところの、菰田家の巨万の富も、ただ一人、千代子の愛情の前には、なんの力も持ちませんでした。たとえ彼女の実家は、広介の常套手段によって懐柔せられたとしても、彼女自身の遣り場のない悲しみは、どう慰めようすべもないのでありました。

 彼女は、蘇生以来の、夫の気質の不思議な変り方を、この謎のような事実を、解くすべもなくて、ただ告げる人もない悲しみを、じっとこらえているほかはありませんでした。

 夫の暴挙によって、菰田家の財政がたいに瀕していることも、むろん気がかりでありましたけれど、彼女としては、そんな物質上の事柄よりは、ただもう、彼女から離れてしまった夫の愛情を、どうすれば取り戻すことができるか、なぜなれば、あの出来事を境にして、それまではあれほどはげしかった夫の愛情が、突然、人の変ったようにさめきってしまったのであろう。と、それのみを、夜となく昼となく思い続けるのでありました。

「あの方が、私をごらんなさる目の中には、ぞっとするような光が感じられる。けれど、あれは決して私をお憎しみになっている目ではない。それどころか、私はあの目の中に、これまではついぞ見なかった、初恋のように純粋な愛情をさえ感じることができるのだ。

 だのに、それとはまったくあべこべな私に対するあのつれない仕向けは一体全体どうしたというのだろう。それはあんな恐ろしい出来事があったのだから、気質にしろ、体質にしろ、以前と違ってしまったとて、少しも怪しむところはないのだけれど、このごろのように、私の顔さえ見れば、まるで恐ろしい者が近づいてきでもしたように、逃げよう逃げようとなさるのは、まったく不思議に思わないではいられぬ。

 そんなに私をおきらいなら、ひと思いに離別なすってくださればよいものを、そうはなさらないで、荒い言葉さえおかけなさらず、どんなにお隠し遊ばしても目だけは、いつでも、私の方へ飛びついてくるように、不思議な執着をみせていらっしゃるのだもの。ああ、私はどうすればいいのだろう」

 広介の立場もさることながら、彼女の立場もまた、実に異様なものといわねばなりませんでした。それに、広介の方には、事業という大きな慰藉があって、毎日多くの時間をその方に没頭していればよいのでしたが、千代子にはそんなものはなくて、かえって、実家から、夫の行跡について、なんのかのと妻としての彼女の無力を責めてくる。それだけでも充分うんざりさせられる上に、彼女を慰めてくれるものといっては、実家からともなってきた年よった婆やのほかには、夫の事業も夫自身さえも、まるで彼女とは没交渉で、その淋しさ、やるせなさは、なにに比べるものもないのでした。

 広介には、いうまでもなく、この千代子の悲しみが、わかりすぎるほどわかっていました。多くは、沖の島の事務所に寝泊りをするのですが、時たま邸に帰っても、妙に隔てを作って、打ちとけて話し合うでもなく、夜なども、ことさら部屋を別にしてやすむような有様でした。すると、たいていの夜は、隣の部屋から千代子の絶えいるような忍び泣きの気配がして、でも、それを慰める言葉もなく、彼もまた、泣きだしたい気持になるのがおきまりなのです。

 たとえ陰謀の暴露を恐れたからとはいえ、この世にも不自然な状態が、やがて一年近くも続いたのは、まことに不思議といわねばなりません。が、この一年が、彼らにとっての最大限でありました。やがて、ふとしたきっかけから、彼らのあいだに、不幸なる破綻の日がやってきたのです。

 その日は、沖の島の工事がほとんど完成して、土木、造園のほうの仕事が一段落をつげたというので、主だった関係者が菰田邸に集まり、ちょっとした酒宴を催したのですが、広介は、いよいよ彼の望みを達する日が近づいたというので、有頂天にはしゃぎ廻り、若い技術者たちもそれに調子を合わせて騒いだものですから、おひらきになったのはもう十二時をすぎていました。

 町の芸者や半玉なども数名座にはべったのですが、彼女らもそれぞれ引きとってしまい、客は菰田邸に泊るものもあれば、それから又どこかへ姿を隠すものもあり、座敷は引汐の跡のようで、杯盤の乱れた中に一人酔いつぶれていたのが広介、そして、それを介抱したのが彼の妻の千代子だったのです。

 その翌朝、意外にも、七時ごろにもう起き出でた広介は、ある甘美な追憶と、しかし名状すべからざる悔恨とに、胸をとどろかせながら、幾度も躊躇したのち、足音を盗むようにして千代子の居間へはいったのでした。そして、そこに、青ざめて身動きもせず坐ったまま、唇をかんで、じっと空を見つめている、まるで人が違ったかと思われる千代子の姿を発見したのでした。

「千代、どうしたのだ」

 彼は内心では、ほとんど絶望しながら、表面はさあらぬていで、こう言葉をかけました。しかし、なかば彼が予期していた通り、彼女は相変らず空を見つめたまま、返事をしようともせぬのです。

「千代……」

 彼は再び、呼びかけようとして、ふと口をつぐみました。千代子の射るような視線にぶつかったからです。

 彼は、その目を見ただけで、もう何もかもわかりました。はたして、彼のからだには亡き源三郎と違った、何かの特徴があったのです。それを千代子はゆうべ発見したのでした。

 ある瞬間、彼女がハッと彼から身を引いて、からだをかたくしたまま、死んだように身動きをしなくなったのを、彼はおぼろげに記憶していました。

 その時、彼女はあることを悟ったのです。そして、けさからも、彼女はあのように青ざめて、その恐ろしい疑惑をだんだんハッキリと意識していたのです。

 彼は最初から、彼女をどんなに警戒していたでしょう。一年の長い月日、燃ゆる思いをじっと嚙み殺して、辛抱しつづけていたのは、皆このような破綻を避けたいばっかりではなかったのですか。それが、たった一日の油断から、とうとう取り返しのつかぬ失策を仕出かしてしまうとは。もう駄目です。彼女の疑惑はこの先、徐々に深まろうとも決して解けることではないでしょうから。

 それを彼女一人の胸に秘めていてくれるなら、さして恐ろしいこともないのですが、どうして彼女が、いわば真実の夫の敵、菰田家の横領者を、このままに見逃しておくものですか。やがては、このことがその筋の耳にはいるでしょう。そして、腕利きの探偵によって、それからそれへと調べの手を伸ばされたなら、いつかは真相が暴露するのはきまりきったことなのです。

「いくら酒に酔っていたからといって、お前はなんという取り返しのつかぬことをしてしまったのだ。この処置をどうつけようというのだ」

 広介は悔んでも悔みたりない思いでした。

 そうして、彼ら夫妻は、千代子の部屋に相対したまま、双方ともひとことも口をきかず、長いあいだ睨み合っていましたが、ついに千代子は恐れに耐えぬもののごとく、

「すみませんが、わたくし、ひどく気分がわるうございます。どうか、このまま一人ぼっちにしておいてくださいまし」

 やっとこれだけのことをいうと、いきなりその場へ突っぷしてしまうのでした。

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