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 広介の千代子に対する、名状することのできない、一種の恐怖は日をふるにつれて深まって行きました。

 彼が床につききりでいた一週間のうちにも、恐るべき危機は、いくどとなく彼を襲ったのです。たとえば、それはある真夜中のことでしたが、広介が、悩ましい悪夢にうなされて、ふと目をひらきますと、悪夢の主は、次の間に寝ていたのが、いつ彼の部屋へはいってきたのか、なまめかしき寝乱れ髪を彼の胸にのせて、つつましやかなすすり泣きを続けているのでありました。

「千代子、千代子、何もそんなに心配することはないのだよ。私はこの通り、身も心もすこやかな、今まで通りの源三郎なのだ。さあさあ、泣くのをよして、いつもの可愛い笑い顔を見せておくれ」

 彼は、ふとそんなことを口走りそうになるのを、やっとの思いで食いしめて、そしらぬ振りで狸寝入りをしていなければならないのです。このような不思議な立場は、さすがの広介も、かつて予期しないところでした。

 それはともかく、彼は予定の筋書きに従って、四、五日目ごろから、きわめて巧みなお芝居によって、少しずつ、口をききはじめ、激動のために一時麻痺していた神経が、徐々に目覚めてくる有様を、ごく自然に演じて行きました。

 その方法は、数日のあいだ床の中にいて、見たり聞いたりしたこと、又はそれから類推し得たところだけを、やっと思い出したていをよそおって、そのほかの、まだ探り得ない多くの点にはわざとふれないようにし、相手がそれを話し出すと、顔をしかめて、どうも思い出せないというふうをして見せるのです。

 彼はこのお芝居を自然らしくするために、あらかじめ数日のあいだ、苦しい思いをして口をつぐんでいたのですが、それが図に当って、たとえわかりきったことを胴忘れしていても、或いは話がとんちんかんになっても、人は少しも疑わず、かえって彼の不幸な精神状態を、憐れんでくれる始末です。

 彼はそうして、にせ阿呆をよそおいながら、失敗するたびに何かしら覚えこむ方法によって、またたくうちに、菰田家内外の、種々の関係につうぎようすることができました。

 そこで、これなればまず大丈夫という医師の折紙がついて、ちょうど彼が菰田家にはいってから半月目には、もう盛大な床上げのお祝いがひらかれることになったのです。その酒宴の席でも、彼は、そこに集まった親族、菰田家に属する各種事業の主脳者、総支配人をはじめおもだった雇人たちの、気をゆるした雑談の裏から、おびただしい知識を得ることができたのですが、さて、そのお祝いの翌日から、彼はいよいよ、彼の大理想の実現にむかって、その第一歩を踏み出す決心をしたのでした。

「私もまあ、どうやら元のからだになることができたようだ。ついては、少し思う仔細もあるので、この際、私の配下に属するいろいろな事業や、私の田地、私の漁場などを一巡してみたいと思う。そして、私のぼやけた記憶をハッキリさせ、その上で、菰田家の財政について、もう少し組織だった計画をたててみようと思うのだ。どうか、一つその手配をしてくれたまえ」

 彼は早朝から、総支配人の角田を呼び出して、このような意向を伝えました。そして、即日、角田と二、三の小者を従えて、県下一円に散在する彼の領地へ旅立つのでした。

 角田老人は、これまではどちらかといえば引込み思案であった主人の、この積極的なやり口に、目を丸くして驚きました。そして、一応は、からだにさわるといけないからといって、いさめたのですけれど、広介の一喝にあって、たちまち一とすくみになり、唯々として主命に服するほかはありませんでした。

 彼の視察旅行は、大急ぎで巡り歩いたのですけれども、それでもたっぷり一と月をついやしました。

 その一と月のあいだに、彼は彼の所有に属する涯知れぬ田野、人も通わぬ密林、広大な漁場、製材工場、鰹節工場、各種の罐詰工場、そのほか半ば菰田家の投資になるさまざまの事業を巡視して、今さらながら、彼自身の大身代に一驚を喫しないではいられませんでした。

 彼はこの旅行によって、何を観察し、何を感じたか、そのくわしいことは、いちいちここにしるす暇を持ちませんが、ともかく、彼の所有財産は、かつて角田老人が見せてくれた帳簿面の評価通り、いやそれ以上にも充実したものであることを、充分確かめることができたのでした。

 彼は行く先々で、下へもおかぬ歓待を受けながら、それらの不動産なり、営利事業なりを、どうすればもっとも有利に処分し、換金することができるか、その処分の順序はどれを先にし、どれを後にすれば、もっとも世間の注意をひかないですむかとか、どの工場の支配人はごわそうだとか、どの山林の管理人は少し低能らしいとか、だからあの工場よりはこの山林のほうを先に手離すことにしようとか、附近にそれを売りに出るのを待っているような山林経営者はないだろうかとか、そのような点について、彼はさまざまに心をくだくのでありました。

 それと同時に、彼は旅の道連れの心安さを幸いに、角田老人と仲好しになることに全力を傾け、ついには財産処分の相談相手とまで、彼の心をやわらげることに成功したのでありました。

 そうして旅をつづけているうちに、広介はいつとはなく、何の作為を加えずとも、生れつきの千万長者菰田源三郎になりきって行くのでした。

 彼の事業の管理者たちは、一も二もなく彼の前にこうとうして、疑いのけぶりさえ見せませんし、地方地方の縁故のもの、旅館などでは、まるで殿様を迎える騒ぎで、彼の顔を見つめるような無躾なものは一人もありませんし、それに時々は亡き源三郎の顔馴染の芸者などから、

「お久し振りでございますわね」

 などと、肩をたたかれたりしますと、彼はもうますます大胆になって、大胆になればなるほど、お芝居が板について、今では、正体を見現わされはしないかという心配などは、ほとんど忘れた形で、彼がかつて人見広介と名のる貧乏書生であったことは、そのほうがかえって噓のような気さえするのでありました。

 この驚くべき境遇の変化は、彼を無上にうれしがらせたことは申すまでもありませんが、その感じは、うれしいというよりは、いっそばかばかしく、ばかばかしいというよりは、なんとなく胸がからっぽになったような、雲に乗って飛んでいるような、一方では限りなき焦燥を感じながら、一方では落付きはらっているような、何とも形容のできない心持でありました。

 こうして、彼の計画は着々として進むのでしたが、悪魔は、彼の予期し防備していたがわには現われないで、その裏の、さすがの彼もそこまでは考えていなかった方面に、おぼろな姿をだんだんはっきりさせながら、じりじりと、彼の心に喰い入ってくるのでありました。

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